第7話 限界の兆候
午後十時を回った頃には、店の空気そのものが重くなっていた。
笑い声は続いている。
だが、その笑いには最初の明るさがない。
アルコールで鈍くなった感覚だけが、だらだらと場を延命させている。
誰も「終わろう」と言わない。
言い出した瞬間、自分だけ冷めた人間になる気がするからだ。
広岡翔平は、もうほとんど喋っていなかった。
背中が丸まっている。
呼吸が浅い。
目の焦点も定まらない。
それでも椅子に座り続けているのは、“帰っていい”と言われていないからだった。
小畑辰巳は、その様子を何度も見ていた。
違和感は、もう無視できないほど強い。
だが不思議なことに、時間が経つほど判断は鈍っていく。
「ここまで来たら大丈夫だろ」
「今さら急変なんかしない」
「酔ってるだけだ」
そんな都合のいい解釈が、頭の中に自然に浮かぶ。
人間は、自分の行動が危険だったと認めたくない。
だから危険を“正常”として処理し始める。
市村敏弘はまだ元気だった。
「広岡、静かすぎんだろ!」
肩を叩く。
広岡の身体がぐらりと揺れる。
その揺れ方が妙だった。
力が入っていない。
「おい?」
田中平蔵が笑いながら顔を覗き込む。
「寝るなよー!」
広岡は数秒遅れて顔を上げた。
「……寝てません」
呂律が少し崩れている。
その瞬間だけ、空気が静かになった。
ほんの少し。
わずか数秒。
だが、その沈黙を最初に壊したのは市村だった。
「完全に酔っ払いじゃん!」
笑い声が戻る。
緊張が笑いで上書きされる。
それによって全員が安心してしまう。
“深刻ではない”。
そういう空気に戻される。
白石夏美は、その瞬間はっきり怖くなった。
さっきから広岡の様子がおかしい。
おかしいのに、誰も本気で止めようとしない。
いや、止められない。
空気が出来上がりすぎている。
「広岡くん、本当に大丈夫?」
今度は少し強めに聞いた。
広岡は返事をしない。
数秒遅れてから、小さく頷く。
その動きが異様に遅い。
白石は小畑を見る。
止めてほしい。
この場で止められるのは小畑しかいない。
その視線に、小畑も気づいていた。
だが、小畑の中では感情が複雑に絡まり始めていた。
止めるべきだ。
その感覚はある。
しかし同時に、“大げさにしたくない”という気持ちがある。
もしここで救急車なんか呼んで、ただの酔いだったら?
もし広岡が明日普通に出社したら?
「飲み会で騒ぎすぎた人間」になるのは自分たちだ。
その恐怖が判断を鈍らせる。
そしてもう一つ。
小畑は、自分が責められる未来を無意識に避け始めていた。
「まぁ、水飲ませとけば大丈夫だろ」
その言葉は、自分自身への言い訳でもあった。
白石は言葉を失う。
大丈夫じゃない。
そう思う。
だが断言できる知識がない。
もし自分の勘違いだったら?
もし騒ぎすぎだったら?
その不安が、人を止められなくする。
広岡が急に立ち上がった。
椅子がガタンと鳴る。
全員の視線が向く。
「……トイレ」
声が掠れている。
「おう、いってこい」
田中が笑う。
だが広岡は、一歩目でよろけた。
白石が思わず立ち上がる。
「危ない!」
その瞬間、小畑も反射的に腕を掴んだ。
広岡の身体は異常に軽かった。
力が入っていない。
肩越しに感じる体温も妙に冷たい。
小畑の胸に、強い嫌な感覚が走る。
(これ、本当にやばいんじゃ……)
今までで一番強い危機感だった。
しかし広岡は、小さく笑おうとした。
「すみません……大丈夫です……」
その笑顔は、もうまともに作れていなかった。
小畑は一瞬、本当に帰らせようと思った。
もうやめるか、と。
だがその瞬間、市村が笑った。
「広岡、伝説作ってんなぁ!」
田中も笑う。
「そこまで酔えるの逆に才能だろ!」
笑い。
空気。
いつものノリ。
その空気が、小畑の判断をまた鈍らせる。
“ここで止めたら空気が壊れる”。
その感覚が離れない。
広岡はトイレへ向かった。
足取りは明らかに危うい。
壁に軽く手をつきながら歩いていく。
その背中を見ながら、佐伯光はスマホを握りしめていた。
検索画面には、
【急性アルコール中毒 症状】
と表示されている。
そこには、
・呼びかけへの反応低下 ・呂律障害 ・ふらつき ・低体温 ・意識障害
と並んでいた。
佐伯の喉が乾く。
広岡に当てはまっている。
かなり。
「……小畑さん」
初めて、佐伯が口を開いた。
声が震えている。
「ちょっと、やばくないですか……?」
その瞬間、テーブルの空気がわずかに止まる。
小畑は答えられなかった。
“やばい”。
その言葉を認めた瞬間、この飲み会は事故ではなくなる。
責任が発生する。
その恐怖が、小畑の口を重くする。
数秒後、小畑は低い声で言った。
「……まぁ、戻って様子見るか」
曖昧な返事。
決断しない返事。
その中途半端さが、全員をさらに動けなくする。
誰も責任を取りたくない。
誰も断定したくない。
だから“様子を見る”という最悪の選択に流れていく。
数分後。
トイレの奥から、何かが倒れるような鈍い音がした。
空気が、一瞬だけ凍った。




