第8話 墓前
十年目の夏。
小畑辰巳は、一人で車を走らせていた。
行き先は分かっている。
何年も避けてきた場所だった。
広岡翔平の墓。
これまで何度も考えた。
行くべきか。
行かないべきか。
だが結論は出なかった。
資格があるとも思えない。
許されるとも思えない。
それでも十年という時間が、一つの区切りを作っていた。
墓地の駐車場に車を停める。
エンジンを切る。
急に静かになる。
小畑はしばらく動けなかった。
汗ではない。
緊張だった。
法廷よりも。
判決の日よりも。
今の方が苦しい。
花を持つ。
線香を持つ。
歩く。
夏の蝉が鳴いている。
墓石が並ぶ。
その中に、広岡家の墓があった。
小畑は立ち止まる。
そこに名前が刻まれている。
広岡翔平。
生年。
没年。
二十六歳。
それだけだった。
十年経っても数字は変わらない。
当然だ。
しかし現実として見ると胸が締め付けられる。
小畑は静かに花を供える。
線香に火をつける。
煙が立ち上る。
風に揺れる。
何を言えばいいのか分からない。
十年間考え続けたのに。
何も出てこない。
謝罪か。
後悔か。
説明か。
どれも違う気がする。
結局、小畑は黙ったまま手を合わせた。
十分。
二十分。
時間の感覚が曖昧になる。
その時だった。
背後で足音がした。
小畑は振り向く。
そして固まる。
広岡直美だった。
十年前なら偶然とは思えなかった。
しかし十年経つと分かる。
こういうことは起きる。
直美も立ち止まる。
驚いている。
だが取り乱さない。
二人とももう若くない。
長い沈黙。
先に頭を下げたのは小畑だった。
深く。
直美も小さく頭を下げる。
それだけ。
しばらく誰も話さない。
やがて直美が墓前に花を置く。
自然な動作。
慣れた動作。
十年間続けてきた動作。
小畑には分かった。
この人はずっとここへ来ていたのだ。
直美が静かに言う。
「久しぶりですね」
書店以来だった。
「はい」
小畑は答える。
また沈黙。
蝉の声だけが響く。
直美は墓石を見ながら言う。
「十年ですね」
「はい」
「長かったですか」
小畑は考える。
そして答える。
「分かりません」
直美は少し笑う。
「前も同じこと言ってましたね」
小畑は初めて気づく。
書店でも同じ質問をされた。
同じ答えを返した。
十年経っても答えは変わらない。
直美は続ける。
「私は長かったです」
小畑は黙る。
直美は墓石を見つめたまま話す。
「すごく長かった」
「でも、あっという間でもありました」
その矛盾が妙に理解できた。
時間とはそういうものだ。
直美は少し空を見上げる。
そして言う。
「再婚したんです」
小畑は驚く。
しかし何も言わない。
直美は続ける。
「三年前に」
風が吹く。
線香の煙が揺れる。
「最初は罪悪感しかなかったです」
小さく笑う。
「翔平に悪い気がして」
沈黙。
「でも、違いました」
直美は言う。
「生きることと、忘れることは別でした」
その言葉は強かった。
十年かけて辿り着いた言葉だった。
小畑は何も返せない。
返す資格もない。
ただ聞く。
直美は墓石を見つめる。
「今でも会いたいです」
「今でも思い出します」
「今でも泣くことがあります」
少し間。
「でも生きています」
その言葉で、小畑は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
救われたわけではない。
許されたわけでもない。
だが確かに何かが動いた。
帰り際。
直美は小さく会釈する。
そして一度だけ言った。
「来てくれてありがとうございます」
小畑は言葉を失う。
何も返せない。
直美はそれ以上言わない。
ゆっくり歩いて去っていく。
小畑は墓前に残る。
蝉の声。
夏の空。
花の匂い。
広岡翔平は二十六歳のまま。
しかし残された人々は生き続けている。
それぞれの形で。
それぞれの速度で。
そして小畑は初めて思う。
償いとは、
過去に縛られ続けることではないのかもしれない。
過去を消さずに、
それでも前へ歩くことなのかもしれない。
墓前で吹いた風は、
十年前より少しだけ優しかった。




