第5話 止める人間の消失
午後九時を過ぎた頃には、飲み会は完全に形を変えていた。
最初は会社の懇親会だった。
仕事終わりの息抜き。
歓迎会。
交流。
そういう建前が確かに存在していた。
だが今、そこに残っているのはアルコールの匂いと、異様な熱気だけだった。
机の上には空き缶が山のように積まれている。
誰かがこぼした酒でテーブルがべたつき、床には枝豆の殻と紙ナプキンが散乱していた。
まともに食事をしている人間はもうほとんどいない。
酒だけが増えていく。
広岡翔平は、笑わなくなっていた。
いや、正確には笑えていなかった。
口元だけを動かし、愛想笑いの形だけを作っている。
顔色は赤を通り越して白っぽい。
目の焦点も曖昧で、まばたきの回数が増えていた。
その状態を見て、白石夏美は明確な不安を覚えていた。
(これ、まずくない……?)
彼女は経理部で、飲み会の空気を好むタイプではなかった。
酒は少し飲む。
だが「飲めない人間を無理に飲ませる」のは嫌いだった。
だから最初から広岡の様子を気にしていた。
問題は、“誰に言うか”だった。
田中に言っても笑われる。
市村はむしろ面白がる。
中川原はもう寝ている。
では小畑か。
彼なら止められる。
この場で最も影響力があるのは小畑辰巳だった。
しかし白石は迷った。
小畑自身も、飲ませる側だからだ。
そのときだった。
「広岡、次ハイボールいける?」
田中が缶を持ち上げる。
広岡は反応が遅れた。
一秒。
二秒。
その沈黙が、不自然だった。
「……あ、はい……」
返事が小さい。
田中は気づかない。
いや、気づいていても“酔ってるだけ”と処理している。
それが怖かった。
危険の兆候が、全て“酔い”として片付けられていく。
小畑は広岡を見ていた。
違和感は、もうかなり強い。
(顔色、やばいな)
その感覚はある。
だが同時に、別の声も頭の中にあった。
(でも吐いてない)
(歩けてる)
(会話もしてる)
その基準が、彼を止められなくしていた。
小畑は、自分の新人時代を思い出していた。
もっと酷かった。
焼酎の一気。
潰れて路上。
先輩に蹴られて起こされたこともある。
それでも死ななかった。
だから“人は案外大丈夫”だと思い込んでいる。
自分基準で。
だがアルコール耐性は、人によって致命的に違う。
その事実を、小畑は知識としては知っていた。
しかし“実感”がなかった。
市村が突然立ち上がる。
「よし、次ゲーム変えようぜ!」
誰かが笑う。
「まだやんのかよ」
「当たり前だろ!」
市村のテンションは落ちない。
むしろ上がっていた。
彼は飲み会が壊れていく空気を楽しんでいる。
理性が薄れ、全員が少し狂っていく感じ。
それが好きだった。
「次、遅いやつ飲めよ」
「またかよ」
「いいじゃん!」
簡単な反射ゲームが始まる。
机を叩く。
順番に指をさす。
遅れたやつが飲む。
学生の悪ノリみたいな遊びだった。
しかしこの場では、それが止められない。
広岡はもう参加したくなかった。
頭が回らない。
音がうるさい。
視界が揺れる。
なのに、逃げられない。
輪の外に出た瞬間、“ノリ悪い奴”になるからだ。
「広岡、ちゃんとやれよー!」
田中が笑う。
ゲームが始まる。
テンポが速い。
周囲は笑っている。
広岡だけがついていけない。
そして当然のように負ける。
「はい飲みー!」
歓声。
その瞬間、白石が口を開いた。
「あの、ちょっと広岡くん休ませた方が……」
空気が止まる。
ほんの一瞬。
短い沈黙。
だがその一秒が、異常に長く感じられた。
誰もすぐ返事をしない。
そのあと、田中が笑った。
「大丈夫っすよ白石さん。まだ全然元気じゃないですか」
市村も笑う。
「広岡、死にそう?」
冗談のつもりだった。
広岡は反射的に首を振る。
「だ、大丈夫です……」
その瞬間、白石は何も言えなくなった。
本人が大丈夫と言った。
周囲も笑っている。
ここでさらに止めれば、自分だけが空気を壊す側になる。
その恐怖が、彼女を黙らせた。
小畑は、そのやり取りを全部見ていた。
そして気づいてしまう。
今、この場には“止める人間”がいない。
白石は引いた。
佐伯は黙っている。
中川原は寝ている。
社長も部長もいない。
つまり、自分しかいない。
止めるなら、自分だ。
その認識が、小畑の胸に重く落ちる。
だが同時に、別の感情が邪魔をする。
(今さら止めるのか?)
(ここまで飲ませておいて?)
(空気冷えるだろ)
その感覚。
それが最悪だった。
“場の空気”が、人命より優先され始めている。
小畑はそれを理解しながら、動けない。
広岡が再びグラスを持つ。
手が震えている。
明らかに。
しかし周囲は笑う。
「酔っ払いすぎ!」
「広岡かわいいな!」
誰かがスマホを向ける。
動画が回る。
笑い声。
歓声。
その中心で、広岡の呼吸だけが少しずつ崩れていく。
小畑は初めて、胸の奥に嫌な感覚を覚えた。
これは“いつもの飲み会”ではない。
だが、その感覚を認めた瞬間、自分たち全員が加害者になる。
だから認めたくない。
認めないまま、空気は進む。
そしてその空気は、もう誰にも止められなくなっていた。




