第9話 最後に残るもの
法廷の空気は、もう「事実確認」というより「収束」に近づいていた。
断片は出尽くし、あとはそれをどう結ぶかだけが残っている。
裁判長が静かに言う。
「本日の最後に、被害者遺族の意見陳述を行います」
空気が一段階重くなる。
広岡直美がゆっくり立ち上がる。
黒い服。
揺れない姿勢。
証言台ではなく、法廷の中央に向かって歩く。
そこに“答え”が置かれることを、全員が理解している。
直美は一度だけ小さく息を吸う。
そして言う。
「翔平は、お酒が嫌いだったわけじゃありません」
静かな声。
「怖かっただけです」
その一言で、田中の表情が動く。
市村が視線を落とす。
白石が唇を噛む。
小畑は動かない。
直美は続ける。
「でも、その怖さは、誰にも届きませんでした」
間。
「届かなかったんじゃなくて、届く場所がありませんでした」
その言葉は責めではない。
構造の話だった。
直美は資料を見ない。
誰の顔も見ない。
ただ、事実だけを言う。
「“みんなで飲んでいた”と言われます」
少し間。
「でも、翔平は“みんな”に含まれていませんでした」
その瞬間、空気が止まる。
“みんな”という言葉が崩れる。
直美は続ける。
「最後まで合わせようとして、最後まで拒否して、それでも戻れなかった人を」
声が少しだけ揺れる。
「それを“場の問題”で終わらせないでください」
沈黙。
裁判長は何も言わない。
ただ記録する。
直美はゆっくり続ける。
「私は、誰か一人を憎みたいわけではありません」
その言葉で、小畑の胸が少しだけ緩む。
しかし次の言葉でそれは締まる。
「でも、“誰も悪くない”とも思えません」
間。
「誰も止めなかったという事実だけが残ります」
その一言が、法廷全体に落ちる。
検察官も弁護士も口を挟まない。
直美は最後に言う。
「翔平の最後の顔を、私はずっと想像しています」
少しだけ視線が揺れる。
「たぶん、笑っていました」
その言葉で白石が目を閉じる。
「でも、それは安心の笑顔じゃなかったと思います」
間。
「“終わらせたくない場を終わらせないための笑顔”でした」
その表現で、小畑の喉が詰まる。
直美は深く息を吐く。
そして静かに言う。
「それでも、止まりませんでした」
沈黙。
それ以上の言葉が出ない。
裁判長が小さく頷く。
「意見陳述として記録します」
木槌が鳴る。
その音は、これまでと違う響きを持っていた。
法廷の外に出ると、田中が小さく言う。
「結局、あの人の言う通りっすね」
市村が答える。
「止まらなかったっすね」
白石は何も言わない。
小畑は空を見上げる。
曇り空のまま。
でも少しだけ薄くなっている。
直美の言葉は「判決」ではない。
それでもすでに、
この場の意味を決めてしまっていた。
小畑は思う。
最後に残るものは、事実ではない。
“誰の記憶として残るか”だ。




