第2章:消えゆく言語
「レガシーシステム」――その言葉が会議室に投げかけられるたび、古保留斗郎の眉間にわずかなしわが寄った。
「このCOBOLで書かれた基幹システムは、すべてクラウドネイティブなアーキテクチャに移行します」
プロジェクトリーダーの瀬川千尋が、大きなディスプレイに映し出された移行計画を指し示しながら、どこか高圧的な口調で説明を続けた。会議室の空気は若手エンジニアたちの熱気で満ちていた。
「レガシー」――その一言で片付けられる現実に、斗郎は深いため息を押し殺した。彼らは知らないのだ。このシステムに刻まれた数十年の歴史を。一行一行のコードに込められた、数えきれない改善の痕跡を。
「古保留さん」
瀬川の声が、斗郎の思考を中断させた。
「はい」
「この移行に関して、何かご意見は?」
その言葉の裏には明らかな皮肉が込められていた。周囲の若手たちの視線が、一斉に斗郎に向けられる。彼らの目には、「また始まるよ、お爺さんの昔話が」という諦めの色が浮かんでいた。
「データの整合性チェックの仕組みは――」
「その点については、すでに最新のバリデーションフレームワークで対応することを決定しています」
斗郎の言葉を遮るように、瀬川が即答した。若手たちの間から小さな笑い声が漏れる。
会議を終えて自席に戻った斗郎は、モニターに映るCOBOLのソースコードを黙って見つめていた。画面の輝度を上げても、文字がぼやけて見える。老眼が進んでいるのを実感する瞬間だった。
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その夜、斗郎は自宅の書斎で新しい戦いに挑んでいた。
"Cloud Native Applications require a different mindset when it comes to architecture and deployment..."
英語の技術文書とにらめっくらを続ける斗郎の額には、軽い汗が浮かんでいた。オンライン翻訳を駆使しながら、必死に内容を理解しようとする。しかし、クラウドネイティブ、マイクロサービス、コンテナ化――新しい概念を表す言葉の嵐に、頭が追いつかない。
「まだ起きてるの?」
妻の和子が心配そうな顔を覗かせた。時計を見ると、すでに深夜0時を回っていた。
「ああ、ちょっとね」
斗郎が疲れた目をこすると、和子が温かい緑茶を差し出してくれた。
「あなた、これ覚えてる?」
和子が手にしていたのは、くたびれた革製の手帳だった。
「それは...」
開くと、びっしりと手書きのメモが詰まっている。日付、時刻、エラーコード、対応内容――40年に渡るシステム障害の記録だった。斗郎の文字は、年代とともにわずかずつ変化していた。
「押入れの整理をしてたら出てきたの」
和子は優しく微笑んだ。
「懐かしいなぁ...」
手帳をめくると、1980年代の記録が目に入る。
『83年7月15日 23:45 - 取引データの不整合発生。原因:メモリ領域の確保失敗。対応:バッファサイズの動的調整機能を実装』
まるで日記のように、その時々の苦労や成功が細かく記されていた。若かった自分の必死の思いが、インクの染みとなって紙面に残っている。
「この時はなぁ...」
懐かしさに浸る斗郎の声を、和子は静かに聞いていた。
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翌日のオフィス。
「古いメインフレームの撤去が決定しました」
システム管理部長からの一報に、斗郎の体が僅かに震えた。
「いつですか?」
「来月末です。新システムへの移行準備のため、スペースを確保する必要があるそうです」
何か言いかけた斗郎の言葉を遮るように、瀬川が近づいてきた。
「古保留さん、クラウド移行についての説明会を開催します。ご参加を」
その口調には明らかな冷たさが含まれていた。斗郎は黙って頷いた。
説明会場となった大会議室。若手エンジニアたちが、最新のクラウド技術について熱心に議論している。斗郎は後方の席で、黙って説明を聞いていた。
「これからのシステム開発は、アジャイルとDevOpsが基本です」
瀬川の声が会議室に響く。スライドには、斗郎には見慣れない図やチャートが次々と映し出される。
「レガシーシステムは、この新しいアーキテクチャの足かせとなります」
その言葉に、斗郎は静かに目を閉じた。レガシー。その一言で、40年の歴史が否定される。日々の運用で磨き上げてきた知見が、時代遅れのものとして切り捨てられる。
説明会の後、斗郎は静かにシステム室へと足を運んだ。そこには、まもなく撤去される運命のメインフレームが、今日も忠実に稼働を続けていた。青白いモニターの明かりが、薄暗い室内をほのかに照らしている。
斗郎は、メインフレームのコンソールに向かって座った。画面には、日々の取引を淡々と処理し続けるCOBOLプログラムのログが流れている。キーボードに手を置くと、かすかな震えを感じた。
「長い間、お疲れさま」
独り言のような声が、静かな室内に吸い込まれていった。
夜遅く、オフィスに残って作業を続ける斗郎の元に、瀬川が近づいてきた。
「まだ残っていたんですね」
「ああ、ちょっとした確認があってね」
「いつまでも古いシステムに固執していては、会社の発展の妨げになります」
瀬川の言葉は容赦なかった。
「私たちは前を向いて進まなければならない。古い技術に縛られている場合ではないんです」
斗郎は黙って画面を見つめ続けた。瀬川の足音が遠ざかっていく。
深夜のオフィスで、斗郎はふたたび英語の技術文書と格闘していた。老眼鏡を掛け替えながら、必死に新しい技術を理解しようとする。しかし、画面の文字は相変わらずぼやけて見えた。
そっと取り出した古い手帳。ページをめくると、懐かしい記録が目に飛び込んでくる。
『95年12月31日 23:58 - 年末最後の決済処理を無事完了。チーム全員で万歳』
その横には、若かりし頃の同僚たちとの写真が貼られていた。笑顔の面々は、もうほとんどが退職している。
斗郎は静かに手帳を閉じ、モニターに向き直った。
「まだ、終わりじゃない」
小さくつぶやいた言葉が、空っぽのオフィスに響いた。明日も、この技術の壁に立ち向かう。それが、最後の守人としての、自分の責務なのだから。
老人プログラマーの悲劇
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