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第1章:最後の守人

朝の六時、いつもの時間に目が覚めた。古保留斗郎(こぼる とろう)は、妻の寝息を聞きながらそっとベッドを抜け出した。カーテンの隙間から差し込む春の柔らかな光が、机の上に置かれた古びた手帳を照らしている。四十年以上、毎日欠かさず記入してきた業務日誌だ。


「おはようございます」


洗面所の鏡に向かって声を出す。返ってきた声は、いつの間にかずいぶん枯れていた。六十四歳。定年まであと一年。鏡に映る顔には、システムと共に歩んできた時間が刻まれている。


白髪交じりの髪を整え、いつもの濃紺のスーツに袖を通す。ネクタイの結び目を整えながら、斗郎は今日のスケジュールを思い返した。全社DXプロジェクトのキックオフミーティング。考えただけで胃が重くなる。


「行ってきます」

「お気をつけて」


妻の優しい声に送られ、斗郎は家を出た。駅までの道すがら、桜の花びらが舞っている。まだ肌寒い空気の中、斗郎は歩きながら深いため息をついた。


大手金融システム会社・帝都システムズ。その本社ビルに到着すると、まだ七時前だというのに、すでにロビーには人の姿があった。


「おはようございます、コボルさん」


警備員の山下(やました)が、いつものように声をかけてきた。「コボルさん」。会社でのあだ名は、彼が主に扱うプログラミング言語「COBOL」から来ている。若い頃は少し照れくさく感じたものだが、今では愛着さえ感じている。


「山下くん、今日も早いね」

「いえいえ、コボルさんの方がいつも早いですよ」


エレベーターに乗り込む前、斗郎は地下のマシンルームに向かった。毎朝の日課だ。重たい扉を開けると、そこにはメインフレームコンピュータが静かに佇んでいる。かつては数十台あった大型計算機も、今では数台を残すのみとなっていた。


「おはよう」


誰もいない空間で、斗郎は機械に語りかける。画面には昨夜のバッチ処理の結果が表示されている。一晩の決済処理も無事に完了していた。これで今日も、日本中の金融取引が滞りなく進められる。


オフィスフロアに上がると、すでに何人かの社員が出社していた。斗郎の机は、システム管理部門の一番奥にある。周りには若手エンジニアたちが座っているが、彼らの画面には見慣れないクラウドサービスの画面が映し出されている。


「おはようございます」


淡々とした挨拶を交わし、斗郎は自分の席に着く。電源を入れると、おなじみの青い画面が立ち上がる。COBOLで書かれた基幹システムの管理画面だ。キーボードを叩く音が、静かなオフィスに響く。


九時、会議室に集められた社員たちの前で、営業本部長の榊原(さかきばら)が声高らかに宣言した。


「本日より、全システムクラウド化プロジェクトを開始します」


プロジェクターに映し出された資料には、「DX推進による競争力強化」「レガシーシステムからの脱却」という文字が躍る。斗郎は無意識のうちに、また深いため息をついていた。


「一年以内の完全移行を目指します」


その言葉に、会議室がざわめいた。一年。四十年かけて築き上げてきたシステムを、たった一年で置き換えようというのか。斗郎は手帳を開き、黙々とメモを取り始めた。


プロジェクトリーダーに指名されたのは、システム開発部の瀬川千尋(せがわ ちひろ)だった。三十二歳。クラウドネイティブな開発経験が買われての抜擢だという。彩度の高いブルーのスーツに身を包んだ瀬川が、颯爽と前に立つ。


「私たちの世代が、この会社のシステムを次のステージへと導きます」


若手社員たちから、小さな拍手が起こる。斗郎は静かにペンを走らせ続けた。四十年の経験が告げている。この規模のシステム移行で、想定外の事態が起きないはずがない。


会議が終わり、個別のチーム編成が始まった。斗郎は現行システムの説明役として呼ばれたが、若手たちの視線は明らかに冷ややかだった。


「正直、レガシーな考え方は邪魔になるだけです」


瀬川の言葉が、まるで意図的であるかのように斗郎の耳に届く。


「老害の意見なんて聞いてられないよね」


誰かがそうつぶやくのが聞こえた。その後ろで、若手エンジニアたちが小声で笑い合っている。


「ねぇ、あのコボルさんって呼び方、ダサくない? コボちゃんの方が似合ってるよね」

「あー、わかる。なんかもう、化石みたいだもんね」


嘲笑とも揶揄ともつかない笑い声が、斗郎の背中に突き刺さる。彼は黙って自分の席に戻り、再びキーボードに向かう。画面に映る青い光が、少し揺らめいて見えた。


その日の夕方、斗郎は再び地下のマシンルームに降りていった。静かに唸るメインフレームの前で、彼は手帳を開く。


「まだまだ、君との付き合いは終われないよ」


キーボードに手を置くと、かすかに指が震えているのに気がついた。老いなのか、それとも感情のせいなのか。深く息を吸い込み、斗郎は今日も変わらぬリズムでタイピングを始めた。


春の夕暮れが、マシンルームの小窓から差し込んでいた。

老人プログラマーの悲劇

https://suno.com/song/514001b2-84b4-4a93-8265-6025b92d8848


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