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ハンス 〜存在しなかったA.I.ストーリー〜  作者: わだだわ


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1 人類の随伴者

「他にご用件はございませんか、奥さま」

 ティーカップをベッドトレイに置いて、端整な顔立ちの青年はいった。年齢は二十代後半くらいだろうか。シミひとつ無い真っ白なスラックスにこれまた白いサマーセーターを着て、髪は清潔感あふれるクルーカットに刈り上げている。

「いいえ、けっこうよ。ありがとう」

 介護用ベッドで上半身を起こしたまま、奥さまと呼ばれた女性は会釈してこたえた。

「ただ奥さまはやめてちょうだい。なんだか自分が年寄りになったような気がするわ」

 女性はそういってカップに口をつけた。その口もとにはたくさんの皺が刻まれており、歳を取ったのは彼女の気のせいだけではないことがうかがわれた。

 実際、彼女は今年で九十才になる。その年齢からすれば若々しいともいえるが、それでも高齢であることには変わりなかった。目尻の皺やこめかみのあたりに浮いたシミがそれを忘れさせてくれなかったし、鏡を覗き込まなくても爪を走る何本もの筋が年輪のように彼女の生きてきた年月を示していた。

 一方でかいがいしく彼女の世話をしている青年の顔にはシミどころか皺すらただのひとつもなく、余計に彼女の年齢を浮き彫りにしていた。

「では、なんとお呼びすれば?」

 青年は彼女の顔をじっと見つめて聞いた。

「ミサキでも、なんでも、好きに呼んでちょうだい」

 ソーサーに戻されたカップがカチャリと軽い音を立てた。

「博士とお呼びした方がよろしいですか?」

 彼女の情報はすべて彼の頭の中に入っている。

 彼女自身以上に。

「ずいぶん昔のことよ」

 昔といってもつい十年ほど前まで、彼女は第一線の科学者であり、世界をリードする研究者だった。いくつもの論文が科学誌に掲載され、彼女自身の名前を冠した研究所も作られていた。

「わかりました。次回からは名前でお呼びします」

「お願いね。あなたもどう?」

 女性はティーカップを手で示したが、青年は軽く首を振ってその誘いを辞退した。その仕草は完璧で、強く拒絶するでもなく、かといって曖昧なところもなく、相手に不快感をあたえない絶妙な所作といえた。

 そして、青年はこう続けた。

「わたしはHB(ヒューマンズ・バド)ですので、飲み物はいただきません」

 青年の完璧さの理由はそこにあった。

 人間の活動の多様な側面を補佐し、介助する存在、ヒューマンズ・バド。超高速ユビキタスネットワークとメタラーニング、それに材料工学とソフトアクチュエータ技術があいまってようやく実現にこぎ着けた人類の夢の随伴者。彼らのことを期待を込めて「人類二・〇」と呼ぶ者もあれば、侮蔑を込めて「人類〇・五」と呼ぶ者もいた。

 初期のHBは人の形をしたただの無骨な機械に過ぎなかった。むき出しのフレーム、無遠慮なカメラ、決まりきったセリフを吐き出すだけのスピーカー。金持ちの道楽か、ヒト型でありさえすればいい作業現場、あるいは自分の世話をしているのが人間なのか機械なのか意識することもできなくなった老人の介護くらいにしか、初期のHBの活躍の場はなかった。

 最初の変革はあらゆるところでつながるネットワークの構築だった。意識するしないによらず、二十世紀終わりのインターネットの出現は、人類を極端なさみしがり屋の集団に変えた。いつでもどこでも誰かとつながれるという感覚は、やがて便利なものからあたりまえのものとなり、ついにはそれなしでは不安を感じるまでになったのである。

 結果、いつでもどこでも膨大な量の情報にアクセス可能なネットワークが構築されることになり、地上アンテナ、海洋アンテナ、衛星通信網がまとめあげられ、——ほとんど意味のないことではあったものの——北極点とポイント・ニモとの接続式典をもって、グローバルネットワークの構築が高らかに宣言された。

 これにより増加した情報トラフィックはもちろん人類の接続欲求に応えるものであったが、同時に人工知能研究に大いに資するものとなった。なにしろそれまでのディープラーニングで扱っていた情報量が一気に数倍に膨れ上がったのである。

 ここにきて人工知能はただ単に「なにかを学ぶ」だけでなく、自分が「なにを学んでいるのか」を考えることができるようになった。メタラーニングと呼ばれる「学習方法を学ぶこと」が可能になったのである。

 これらと同時に成長を遂げたのが、材料工学とソフトアクチュエータだった。

 量子コンピュータの登場は、主に薬学と材料工学を根本から変えた。新薬の開発はあらゆる分子、タンパク質の組み合わせの試行錯誤であり、かつては職人芸の様相を呈していた。それが量子コンピュータの計算能力によって一瞬にして無数の組み合わせを試せるようになったのだ。いってみれば、職人の数がある日突然数兆倍になったようなものである。

 それと同じことが、材料工学の分野でも起こった。それまでいくつものノーベル賞級の発見が偶然の産物であったところを、量子コンピュータによってその偶然を力ずくで引き起こせるようになったのだ。量子コンピュータは、「こんな物質を混ぜてみたらうまくいきました」と、次々と新素材を発見していった。

 それによって人間と大差ない質量で数倍の強度を持つ骨格、小型でありながらきわめて大きな容量を持つバッテリー、そして人間の筋肉と変わらない柔軟性を持つソフトアクチュエータが現実のものとなった。

 二十一世紀の初めに開発が始まったそれはIPMC(Ionic Polymer Metal Composite)アクチュエータと呼ばれる人工筋肉のひとつだった。開発の初期段階では有望視されてはいたものの、どんな材料を使えば現実的な出力を得られるか、まさしく五里霧中のままいたずらに時間だけが経過していた。

 なにしろその名のとおり、イオン導電性高分子に金属をメッキして、両面に電圧をかけることで屈曲させる素材である。イオンの種類、金属の種類、かける電圧など、変数はそれこそ星の数ほどあった。これらを一夜で、とはいわないまでも、量子コンピュータは数年で解決してしまった。

 このソフトアクチュエータが可能にしたのは省スペースで大出力を発生させることだけではなかった。不気味の谷も、一息に飛び越えてしまったのである。

 人形やロボットがある程度まで人間に近付くと、途端に不気味さを感じるようになる。心理学者はこれを「不気味の谷」と呼んだ。

 ソフトアクチュエータはこの問題を解決した。ソフトアクチュエータを顔に適切に配置することで、よくよく見なければアンドロイドとはわからないほどに自然な表情を生み出すことに成功したのである。

 これらすべてのことが、二十二世紀最初の十年でひとつに結実した。どうやら人類の技術的な革新は百年周期で起こるようになっているようであり、それまでの停滞は進歩の揺籃期といえるようだった。

 こうした革新がなければ、目の前にいるHBはいまだに不格好な金属の骸骨であり、とてもお茶に誘おうなどと思える存在ではなかっただろう。

「バドならバドらしくお茶くらいには付き合ってもらいたいものだわ」

 ミサキは拗ねたように唇をとがらせた。ヒューマンズ・バドの「バド」はバディの「バド」、すなわち「仲間」の意味だ。仲間ならお茶の相手くらいはしろと、ミサキはいっている。

「相変わらず、あなたたちはなんにもできないのね」

 さまざまな技術革新、情報革命にも関わらず、結局人類はいまだに「強いAI」を生み出せずにいた。

 二十世紀中盤に誕生して以来、コンピュータはいずれ意識と自我を持つ「強いAI」に発展すると予測されていた。それが、二十世紀中には起こる、二十一世紀初頭には起こる、ディープラーニングが進めば……、と何度もいわれ、結局ある者は期待し、ある者は怖れたシンギュラリティ(技術的特異点)はいまだに起こらなかった。

 本命といわれた量子コンピュータの発明ですら、きわめて高性能な「弱いAI」を作り出したに過ぎず、二十二世紀のいまになっても創発性を発揮する「強いAI」は現れなかった。

 いまミサキの世話をしているHBも、そんなAIのひとつだった。

「いいえ、ミサキ。わたしたちHBは人間が必要とするさまざまなお手伝いができます。たとえばこうして紅茶を淹れることもできますし、あなたの家の壁を塗り直すことだってできるんですよ」

 HBは機嫌を損ねた様子もなくいった。もっとも彼には損ねる機嫌など最初からなかったが。

 それでもミサキがとがらせた唇を変数として感情の悪化を、そしてそのあとにわずかに上がった口角を変数として感情悪化がそれほど深刻なものではないことは検知していた。

「いいえ、HB。あなたたちはまだおいしい紅茶がどういうものか理解できないし、何色の壁が素敵かも理解できないわ」

 ミサキはわざとHBの口調を真似ていった。

 彼女はおしゃべりを〈楽しみ〉たいのだ、とHBは判断した。この場合の〈楽しむ〉とは会話を継続すること。なんらかの結論や解釈を求めているのではなく、情報のやりとりによる刺激を欲しているのだ。だからあえて反論し、かといって一方的に論破することもないようにやりとりするのがもっとも期待値の高い行動だ。

「わたしには紅茶を味わうことはできませんが、どのような紅茶がおいしいかはわかりますし、素敵な壁の色を提案することもできますよ」

「あら、そう?どうやって?」

「出荷量や販売額、評論家の意見を参照して判断できます。また壁の色は色彩心理学の観点から導き出すことが可能です」

 予想どおりの答えに、ミサキはニヤリとした。

「出荷量や販売額なんかでおいしい紅茶がわかるものですか。安い紅茶の方がたくさん売れるけど、その方がおいしいわけじゃないでしょう。評論家の意見だってあてになんかならないわ。どこからお金をもらってるかわかったものじゃないし」

「それでも一定の指針にはなります。そこからご自分の好みに合わせて茶葉を選んでいかれてはいかがでしょう」

「あなた、茶葉専門店の販売員にならなれるわよ。『お客様のお好みに合った紅茶をお探しいたしましょう』って。でもそれじゃAI(Artificial Intelligence)じゃなくてIA(Intelligent Agent)だわ。Intelligent Agent(知的エージェント)がおいしい紅茶を理解しているとでもいうの?」

「いいえ、彼らはチャートにしたがって選択を進めているだけです」

「そうでしょう。わたしがいってるのは自分がおいしいと思ったものを誰かに勧めたり、これならよろこんでくれるんじゃないかって考えることよ」

「そのためには味覚が必要ですが、残念ながらわたしには味覚がありません」

 HBはほんの少し眉を上げ、肩をすくめてみせた。これがこの文脈での『降参』にあたる仕草に見えることを計算して。

「ミサキは紅茶が好きなのですね」

 ひとつのテーマに縛られず、そこからさまざまに展開していくことも会話を〈楽しむ〉技法だと、HBは知っていた。

「他の飲み物を飲んでいるところを見たことがありません」

 もちろん、これは嘘だった。ただ人間は数値や確率についてきわめて大ざっぱであることも、HBの帰納的推論回路には刻まれていた。

「そうね、気が付くと紅茶ばかり飲んでいるわね」

「お好きな紅茶の銘柄や種類を教えていただければ、今度からそれを買ってくるようにしますが」

 これはHBにとっては最善の発言だった。これまでの会話から導き出される、最良のセリフ。AI設計者なら満点をつけるだろう。いや、HB風にいうならウェイト〇・九六というところか。

 これに対してミサキは「そうね、それなら……」と、HBにお気に入りの紅茶を教えるはずだった。なにしろ彼女はたったいまHBをやり込めて、得意になっているはずだからだ。

 ところが、ミサキの反応はHBの予測とは違っていた。彼女はひとつ大きなため息をついて、こういったのだ。

「あなたを見ていると、ハンスを思い出すわ」

 人間の会話や思考は直線的ではない。それはHBもよく知るところだった。だから突然話題が変わったことも、驚くには値しなかった。ましてやHBにダウンロードされた診察記録によれば、ミサキは軽度の認知症を患っている。

「ハンス?」

 HBは通常の会話プロトコルの中に認知症対応サブルーチンを呼び出した。

 人類の平均寿命が前世紀よりぐんと延びて、最高齢は百五十才にも達しようかというこの時代に、彼女の年齢での認知症は若年性で軽度といえた。しかしそれでも少しずつ症状が進行しつつあることは事実で、物忘れをしたり同じ話を何度もすることは徐々に増えてきていた。

「融通が利かなくてね。あなたとは似ても似つかないけれど、それでも優秀なHB……、あの頃はただAIと呼ばれていたわ」

「アンドロイドなのですか?」

 これはHBの記録にないデータだった。ミサキがHBと暮らしはじめたのはほんの二年前のことであり、そのHBは彼自身のはずだった。

「アンドロイドといえなくもないかしら。でもあなたみたいに立派な身体は持っていなかったけれど」

「いつ頃の話です?」

「わたしがまだ十代だったから、二〇六〇年頃ね。ああ、ハレー彗星が帰って来ていたから二〇六一年だわ」

 ドクターに連絡するべきだろうか?はじめての実用的なHBが稼働したのはいまから八年前、二一二六年のことだ。それより六十五年も前に高度なAIを搭載したアンドロイドなど存在したはずがない。

「どんなアンドロイドだったのですか?」

 呼び出した認知症対応サブルーチンにしたがい、HBは会話を続けた。

 おそらく彼女は目の前にいるHBと当時知っていた誰かとを記憶の中で混同しているのだろう。それなら認知症はほんの少し進行しているものの、問題はない。しかしこの会話が散逸し、意味をなさないものとなってくるようなら、HBは彼女との会話を続けながら手順どおりドクターに連絡をとることになるだろう。

 HBはミサキの様子をつぶさに観察しながらデータベースを探った。やはりそんな時代にAIを搭載したアンドロイドなど存在しない。それどころかまともなAIすら——当時盛んに使われた宣伝文句とは裏腹に——ひとつも存在しなかった。

「妬いてるの?」

 ミサキはいたずらっぽく聞いた。

「いいえ、興味はありますが嫉妬はしていません」

 彼女はふんっと鼻を鳴らし紅茶を一口飲むと、存在しないアンドロイドとの思い出を語り始めた。

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