第49話 夜風
「えっ……? うわっ!?」
「危ない――っ!」
突如降り注いだ声に視界が仰天、足をもつれさせた事に気付いたのはその直後だった。ミゼリアさんの手を掴もうとするも伸ばした手はむなしく空を切り、間を置かずしてお尻に痛みが走る。
「っつ……! 痛った……」
「大丈夫……!? ケガはない?」
「は、はい。なんとか……」言いながら差し伸べられたを手を掴んで立ち上がり、「っていうか、今の声って……?」
お尻を手で払いつつ首を振ると、黒い羽根が風に舞い、ひらひらと揺れながら地べたへと軟着陸した。
声の主は頭上にいる。脳裏をよぎる直感は、はたしてすぐに的中した。
『――悪ィ悪ィ! 急に声掛けられちゃあ誰だってそーなるわな!? ホントゴメン、いやマジゴメン! オレちゃんなんでも』
「……タオジェン」
『アッ、ッス』
女の人の腕にとまったのは一羽の”カラス”。カラスが、人間に解る言葉をしゃべっている。
聞く限りでは非常に流暢で、その声は端的に”騒がしい”、あるいは”喧しい”と形容してよさそうだった。
けれどいったい、どうしてカラスが喋れるんだろう――? ふと浮かんだ疑問をかき消したのは、先ほどと同じくぴしゃりとこのカラスを咎めた、冷たい声だった。
「タオジェン。まずはこの子に謝って」
『驚かせてしまいスイマセンデシタ。おケガはアリマセンカ?』
唐突な片言ぶりに印象がカラスから言葉を覚えたてのインコに変化する。
もしかしたらこの人たちは旅の大道芸人か何かなのだろうか。そう思いかけて、私は努めて冷静に言葉を返す。
「……だ、大丈夫です。お尻打っただけなんで」
「お洋服も大丈夫? 破れてたり……」
「ありがとうございます。それも平気ですから……ええと、ミゼリアさん」
カラスの方は女の人をミゼリアさんと、その逆に女の人は、カラスの方をタオジェンと呼び合っていた。
おそらくそれが二人――というより、一人と一羽の名前なのだろう。
ミゼリアさんの名を呼んだのを皮切りに、私たちは少し遅めの自己紹介をし始める。
「タオジェンは私のペットなの」というセリフを聞けば、驚きを隠すのは無理があった。人の言葉を話すカラスがペット。その事をいったん頭の隅に追いやって、私は気を取り直すように横髪を右耳の上にかける。
「私は氷見坂瑠稀。この街の『サジメロアオイ』ってカフェで働いてます。もし寄る機会があったら、ぜひ」
初対面の人に自己紹介する時は、お店の名前もさりげなく出す。
シドウさんから教わった客足を伸ばすためのテクニックだが、効果は今のところ実感できていない。
「…………そう。考えておくわ」
加えて目を伏せ、悩むような長めの間を置いて返事をするミゼリアさんの姿を見れば、手応えの無さを感じるには十分だった。
うっすらと漂い始めた気まずさに耐えかね、別れの挨拶を切り出そうとすると、
「待って、ルキ」
「……? はい……?」
桜色の瞳がほのかに揺れ動く。
「……いいえ。なんでもないわ」
言葉を探しているのか、伝えるべきことを決めあぐねているのか。こちらに伸ばしかけた手がゆっくりと下ろされる。
どこか、冷たい温度を孕んだ言葉だった。
再び街を散策するうちに日は暮れて、私はレンタルしていた服を返して家路につく。
『瑠稀?』
『観劇後の余韻に浸りたいから夕飯、私の分いらない』
『ってみんなに言っておいて』
イセスタに葵さんからのメッセージが届いたのは、ちょうどカフェに着いた頃合いだった。夕飯を済ませて食後の時間を迎えれば、各々が自由な過ごし方で就寝までの時間を潰し始める。もちろん、私も例外じゃない。
「目線右、左で、肩、肩、伸ばしてっ……こう」
動きやすい服装に着替え、屋上で確認程度に振り付けを確認する。ご飯を食べた後に動くのは体に悪いため、本当に確認程度だ。
「……鏡があればなぁ」
日に日に増していった欲望の雫がこぼれ落ちる。
これまではスマホでダンスの録画をしたり、部屋にある姿見を活用したりと、身近にあるものを利用して振りの確認をしてきた。しかし前者は録画するという都合上リアルタイムでの確認が出来ず、後者では手や足先の動きが見切れてしまう。
工夫にも限度がある。ちょっとした不満と言えど、毎日練習していれば嫌でも意識せざるを得なかった。
「ファイ、シックス、セブン――っ、今のターン遅い……!」
それでも、考えていても仕方ない。
不満を払拭するように、少し大きめの動きも交えながら自分の動きをチェックしていく。所属していたユニットの、一番馴染み深い楽曲を耳で覚えさせながら。
「スリー、フォー、ファイ、シックス――」
「……ルキ?」
声とドアの開く音に気付いたのは、ちょうどサビ終わりに差し掛かろうというタイミングだった。
「……シドウさん? ……あ。もしかして音、うるさかったですか?」
「いいや? 特に、ってか屋上で何やってんだ?」
「えっと、実は――」
曲を止め、私はシドウさんに説明した。
屋上でこっそりダンスと歌の練習をしていた事。近いうち、メロに私の歌って踊る姿を見せようと考えている事――そして私がここで練習しているのは、メロには秘密にしておいてほしいということ。
ショッキングピンクとレモン色でコーティングされたドーナツを頬張りながら、シドウさんは柵に寄りかかる。
夜風が運んでくるやたら甘ったるい香りの源泉は間違いなくそれだろう。
「ルキ、お前も半分食――」
「いえ、私はお腹いっぱいなので大丈夫です」
「即答かよ……まあ、この見た目だしな。俺ぁ好きなんだが……」
ぼやくシドウさんに笑いかけ、私はポニーテールに結い上げた髪を首の横に流しつつ柵に寄りかかる。頬を撫でる風が火照った体に心地いい。
「シドウさんは、どうして屋上に?」
「ん? ああ。サジが先にシャワー浴びてっから、あがんの待ってるだけだ。ちょうど小腹も空いてたし」
「へぇ……夕飯、足りませんでした?」
「まあ少し。っていうか、先にルキが入っていいぞ」
「え?」
食べかけのドーナツに視線を落としたままシドウさんが続ける。
「さっきまで踊ってたんだろ、ここで? となると汗もかいて、夜風に晒されりゃあ体だって冷える。体調崩したらマズいだろうし、俺ぁ後でいい」
さも当然といった具合に呟かれた言葉に、思わず呆気に取られてしまう。
けれどシドウさんの職業――保健の先生である事を鑑みれば、言っている事は至極当然かつまっとうなものだった。
事実、今の私は多少汗をかき、先ほどから吹く夜風を徐々に肌寒いものと感じ始めている。的確な気遣いを前に、遠慮しようという気持ちは心なしか薄れていた。
「……ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
「ほう。へんほふんあ」
一方ドーナツを頬張ったまま呟かれる言葉は、若干未知の言語に片足を突っ込んでいた。
「……それとよ」咀嚼していたものを嚥下すると、聞き慣れた言語が戻ってくる。「あー……まあなんつったらいいかわかんねえし、唐突だけどよ」
歯切れの悪い言葉を並べてからシドウさんは、
「これから先、元の世界に戻れる方法を見つけて。そんで戻る日が来たとして……出来れば何か、俺らに言葉くらいは掛けてってくれよ」
「……別れの言葉って事ですか?」
口にした瞬間、自分の芯が揺らぐような錯覚に襲われる。
異世界で出会った人たち、経験した出来事、思い出……その全てに、いつか別れを告げなくてはいけない日が来る。
その事実を噛みしめながら、私はシドウさんの言葉に耳を傾けた。
「別れっつうか……きっと俺は、残るもんがあってほしいんだと思う。それが言葉でも、思い出でも、そいつが前に進むための力になってくれれば、って。経験上な」
「思い出……」
「学校の先生やってるうちに、出会いと別れには敏感になっちまった。特に”卒業”の時とかな」
卒業。
その単語に込められていた含蓄は、私にとっても決して無視できるものではなかった。
今しがた耳にした話を咀嚼していると、シドウさんは包装紙をくしゃくしゃに丸めて歩き出す。
「そろそろサジも上がったんじゃねえか? 風邪引かねえようにな、ルキ」
「あっ、はい……! おやすみなさい、シドウさん……!」
背を向けたまま軽く手を上げる動作は頼もしく、反面格好をつけようとしているようにも見えて少しだけ微笑ましい。やがてその後ろ姿もドアの向こうに消え、背を撫でる夜風が私に孤独を運んでくる。
「……卒業」
髪を結い上げていたシュシュを外せば、ほどかれた髪の毛が肩から背中に軽やかに滑り落ちる。その拍子に香ったシャンプーの匂いに、私は半ば無理やり気持ちを切り替えた。
「……うん。シャワー浴びたら、寝よう」
やたらと独り言をつぶやいてしまうのは、頭に浮かんだ”あの日”のせいだろう。
記憶に栓をするように、私は屋上のドアを固く閉めた。




