第46話 Another side epilogue -足音-
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――間違いない。お肉の匂いだ。
ドアを開けてかすかに香る匂いが少女の胸を弾ませる。ただいまという声はどうせ聞こえていないだろう。サンダルを脱いで廊下を歩いていけば、その匂いはだんだんと濃さを増していく。リビングのドアを開ければもはや疑う余地はなかった。
ハンバーグが、スキレットの上で芳醇な音色を奏でていた。
つられて空腹のサインが主張するものの、かすかな音ゆえ響きはしない。鋳鉄の持ち手を握っている男を一瞥すると、少女は遅れて挨拶を告げた。
「ただいま」
「ん……? ああ、おかえり。大変だったね、今日は」
「うん。でもエイミーとアルフが一緒にいてくれたから」
「分かってる。いつも世話になりっぱなしだね、あの二人には」
キッチン脇に置かれている皿には既にサラダが盛り付けられていた。特製のドレッシングまでが回しかけられ、その隣に焼き上がったばかりのハンバーグを添えればメインディッシュが完成する。食器は手を洗った少女が並べてくれた。調理開始から食事に至るまでの時間調整も完璧で、もたつくことなく夕飯の準備が整ってしまった。
「マヤ、ご飯」
「うん」
掃き出し窓から見える夕闇、きらめき始めた小さな星々。ベランダに出れば煌々《こうこう》と明かりを灯す街並みが一望できることだろう。けれど今見たいとは思わない。彼女にとって優先順位の第一位は、食卓に並べられたハンバーグなのだから。
「「――いただきます」」
声が重なり、食事とともに団欒のひと時がやってくる。
「学校、どうだった? 普段と変わりなく?」
「うん。でも」マグカップに注がれた飲み物を口にしてから、「見学のおねえさんが二人来て、私たちの授業、見学してったよ」
「……おねえさんなのに、マヤ達の授業を?」
「エイミーが無理やり連れてきたから、仕方なくって感じだった」
「ああ……びっくりした。随分、変わった子達なんだなって思っちゃったよ」
実際、その二人が転移者である事を考慮すれば変わっていると言えるのかもしれない。しかし少女の通う学校を見ても、異世界全体に視野を広げてみても、転移者と呼ばれる者達の存在はありふれたものになりつつある。
他にも今日あった出来事は何か、そういえば来週はテストが控えているけど、勉強ははかどっているのか――ありふれた内容の会話が二、三、繰り返されると、
「パパ」
少女の視線が皿の上、わずかにしか減っていないサラダへと落とされる。対照的に、ハンバーグは残すところふた口といった減り具合だ。
「野菜多い。減らして」
「うーん……? 気持ちはわかるけど、栄養が偏ると色々よくないよ?」
「今日のお弁当でいっぱい食べた」
「つまり?」
「帳尻合わせ」
「そのしわ寄せ、後から来ない?」
「……しわよせって何?」
こりゃ参ったな。内心独りごちて、男は頬を緩ませる。やけに難しい言葉はエイミーから教わったものだろう、しかしそれに付き合ったばかりに梯子を外されてしまった。
好き嫌いはよくないものであると男は理解している。だが、理解と納得は並び立たない事もある。
好き嫌いをしないのはきっと正しい事だけれど、正しさには窮屈と、不自由さが付きまとう。男はそれが嫌だった。縛られる事や可能性を狭められることを嫌い、何よりも正しさは、正しくない人を救わない――考えたところで、男は言葉遊びをやめた。
おもちゃをおもちゃ箱にしまうように、今思考したすべてをまとめて記憶のゴミ箱に放り捨てる。こんなものは、明日には忘れているであろう感情と言葉が立てたさざ波に過ぎない。
「半分にしよっか」男は自分の皿の空いたスペースを差し出し、「これでもまあ、帳尻合わせにはなるでしょ」
「うれしい。ありがとう、パパ」
はたして甘やかしたしわ寄せは自分とこの子、どちらに下るだろう。
調味料にもならないその考えは、どっさりと引っ越しを済ませたサラダの下に埋もれてしまった。
◆
時を同じくして、セントシャールの街に店を構えるとあるカフェの一角で。テラス席から眺める街並みは、夜特有の街灯に照らされた風景に様変わりしていた。
満月と星たちが浮かぶ暗色の天井、人と人の話し声、足音――流転する音たちに耳を澄ませていると、ふと掛けられた声の方に意識が向いてしまう。カフェの店員が、トレーに注文したものを乗せて運んできてくれたのだ。
ご注文は以上ですか、ありがとうございます、大丈夫です、分かりました、それではごゆっくりどうぞ。定型文的なやり取りを経て、テーブルの上に置かれたバゲットサンドとカフェラテに視線が注がれる。
やや大きめに切り分けられたバゲットの間からはチーズやトマト、レタスにベーコンといった具材が顔を覗かせ、振り掛けられたバジルが辛みのある、それでいて食欲をそそる刺激的な香りを漂わせている。
「……いただきます」
彼女がバゲットサンドを手に取ろうとした時だった。
『――なあなあ! やっぱさァ、夕方に見たアレ間違いねェッて! 人影バッチリ、特徴ピッタリ、見覚えシッカリ! 視力イチ億のオレちゃんが言うんだから』
「……はぁ」
『あ待ったッ! イチ億は盛った、盛りました! でもたぶんその半分くらいじゃねえかなぁウン――』
その事に対してついたため息ではない。ないのだが、説明するのも億劫だった彼女はバゲットサンドに挟んであるレタスをちぎり、スライスされたトマトとともに足元へ転がした。
「白い髪に、襟足の長い髪型。線の細い華奢な体つき……たしかにあなたの言うとおりね。全部、わたしの記憶にあるものと同じよ」
返事の代わりに咀嚼音がテーブルの下から聞こえてくる。それでいい。これで落ち着いてご飯にありつけるし、足元にいる彼が見たものを疑う気もない。口数が多く、その上おしゃべりで、やかましくて、けれど見間違いや見落としの類は今まで一度もしてこなかった。
ならば彼が見た人物は間違いなく――
「……まさかこんなところにいたなんて。でも」
鈍い音を立ててテーブルが震動したかと思うと、足元から痛々しげなうめき声が聞こえてくる。おおかた頭をぶつけたのだろうが、彼女は頭の中を整理するのに忙しかった。
「本当にあなたなのかしら――サジ」
吐き出した息が薄く、夜空に溶けていく。




