最終譚 - 来
「大変大変! 大変よ清香!!!」
初夏の夜会から数日――
ひなは、今日も大変賑やかだった。
大変なの! と、朝食の後片付けをてきぱきとこなす清香のいる台所へ、ひなは目を真ん丸にして飛び込んだ。
「どうされました、ひな様。キャラメルでもこんもり届きました?」
「ま……! なんて素敵なのでしょう……!」
うっとりと頬に手を当てるひなに、さーて、あとは食器を片して……と踵を返す清香。
その清香の腕をがしっ! と掴む。
「違います」
「あら」
「なんと! チョコレートボンボンの缶が……空っぽなのでございます!!!」
なんということでしょう! と、チョコレートボンボンの丸缶を清香へ向けながら、わなわなと震えるひな。
清香も、思わず目を丸くした。
「……昨日買ったばかりでは?」
「そうなのでこざいます! これは大事件です!!」
もしや泥棒さんが!? と震えるひなに、清香は手をぽんと合わせた。
「それでしたら、恐らく居間に」
えっ? とひなは目を瞬いた。
「あ――……食べたけど」
そう廉が言い切るか否かというところで、ひなは膝の上に飛び乗り、むにっと廉の両頬をつまんだ。
「廉様、なぜ私のチョコレートボンボンを?」
「いつお前のになったよ?」
「私のでなければ、誰のチョコレートボンボンなのです?」
「俺です」
「なんと――」
「好きなんですよ」
そう言って、にや、と艶っぽく笑いながらひなに顔を近づける廉。
さらっと腰に手が回される。
まま……とわずかにひなの頬が染まった。
「甘くて」
「れ、廉様」
「飲みながら、じっくりと――」
そう言いながらさらに顔を近づけると、廉は誘うように唇をそっと合わせる。
「――……味わうのが」
「廉様……」
「ああ、また食べたくなってきましたが」
「……ま……――」
ガン!!!
と、清香の持つ丸缶が廉の頭に勢いよく振り下ろされた。
「まだ朝です」
「……っ……!!!」
色気……!!! と、いつものように真っ赤な顔を覆うひなであった。
「……なるほど、酒の当てに……」
「廉様、丸くなりますわよ」
むすっとしながら、ちょいちょいと廉の腹をつつくひな。
すかさず廉は、ぎゅっと抱き寄せる。
「ひなほどでは」
「いい……いけません廉様!」
再び清香は、丸缶を廉の頭に振り下ろす。
「そそ、そういえば清香も最近は一緒に飲みますものね!」
「お酒は嗜みますが、さすがにチョコレートボンボンを肴にはいたしません。私が好きな肴は、乾きものでございますので」
「かわきもの……」
ひなは、ぱちぱちと目を瞬いた。
「わかりました!」
次の瞬間、勢いよく廉の膝から飛び降りる。
「お任せください! りょ、良妻でありいい奥さんである私が、さささっ! とお菓子と肴を買いつけて参ります!」
そう息を巻くと、ひなは自信満々に手を胸に当てた。
えっ……と固まる廉と清香。
るん! と弾むように玄関へ向かおうとするひなに、廉も後を追うようにすっと立ち上がる。
「俺も一緒に参ります」
「えっ、廉様も?」
目を真ん丸にしているひなの前へ歩いていくと、流れるように、ちゅ、と軽く口づける廉。
ぽ、と頬を染めるひなに、甘い笑みを向けた。
「良妻であり俺の可愛い奥さんであるひなに、俺の好きな肴を教えておかなければいけませんからね」
「おれのかわいいおくさん!」
きゃわ! と身をよじるひなを引き寄せながら、廉は嬉しそうに髪にも口づけを落とす。
いつものように自然と甘く戯れ出す2人に、今日も愛されてますなぁ……と小さくため息をつくと、清香は廉へ顔を向けた。
「……廉様。ひな様を好き勝手解き放ってはなりませんぞ。寄り道に次ぐ寄り道が発生し、大変なことに――」
「ああ、その辺は新婚旅行で心得ましたよ」
すると、むすっと頬を膨らませたひなが、清香へすん……と細い目を向ける。
「清香は一体私が何歳の頃のお話をしているのですか」
「23歳ですが?」
えっ? と目を瞬くひなと清香が、きょとんと見合う。
あらまあ随分と最近のお話でしたのね……とひなは恥じらうように頬に手を添えた。
清香は再びわざとらしく大きく息を吐くと、ずいっと2人の背を押した。
「いいから、行くのであれば早く行ってください」
「……はい」
清香の剣幕に、2人は思わず声を揃えたのだった。
川沿いに続く藤の屋根の遊歩道を、ひなと廉は大きな風呂敷包みを片手に、まったりと手を繋ぎ歩いていた。
藤の花が満開に咲き誇り頭を垂れ、その隙間から差し込む温かな日差しが2人を柔らかく照らしている。
延々続く藤の天井を、ほう……! とうっとり見上げるひな。
去年も、恐らくその前も、毎年見ているはずなのに初めて見るかのように感嘆の声を漏らすひなへ、廉は楽しそうに視線を落とした。
「夏が近づいてきましたね」
「そうでございますね……! うっかり夏蜜柑の水羊羹とさくらんぼのゼリーを買ってしまいましたものね!」
「そこですか」
あはは……! と笑う廉に、まあなんと尊い笑顔……と見惚れるひな。
その視線に気づいた廉が、わざと手に触れるように握り直すと、どきっとひなの胸が鳴る。
ひなの反応を見ながら、廉は楽しそうに続けた。
「他に、何をうっかり買いつけたんです?」
「……ボンボンに……枇杷の洋酒ジャムに……冷酒と、甘夏の果実酒と……お洒落な硝子細工の一輪挿しと、涼しげな風鈴と――」
「道理で俺の風呂敷が破れそうなくらい重いわけですね」
「やはり……あの夏らしい金魚さんのモダンな風呂敷も買いつけるべきでしたでしょうか」
「多分ですが、そういう問題ではありません」
「……すみません」
「清香さんに、また怒られますねぇ」
「また…………私は、すぐ清香を呆れさせてしまうのです」
はは……! とまた、廉が笑い声を上げた。
「いいんじゃないですか? 清香さんは多分、それが楽しいんでしょう」
「そうでしょうか」
「そんなひながお好きなんでしょうからねぇ、清香さんは」
楽しそうな廉を、ひなはじっと見上げる。
「廉様は……怒りませんのね」
「もちろん。結婚する前にも言いましたけど、ひなの好きなようにすればいいですから」
ぽわ、と頬を染めるひなに、すっと向き合う廉。
人目を盗むように、軽くちゅ、とキスを落とす。
真っ赤になったひなを見て、嬉しそうに目を細めた。
「俺も、好き勝手やりますから」
「……ですから、廉様はすぐ………………その…………く、口づけを、するのでございますか?」
「そうですよ」
「新婚旅行の後から……私と、いつも一緒に出掛けようとするのも……」
「はい」
「ててて……手を……触れて歩くのも……――」
「はい。俺が、したくてしてます」
「ま……」
両手が塞がっており、真っ赤な顔を隠せず、恥じらうようにちょんと俯くひなを、愛おしそうに見下ろす廉。
「ひなは、ずっと慣れませんね」
「……慣れた方が……良いのでしょうか……?」
「えっ?」
小声でそう呟くと、ひなはもじもじと小さく身をよじる。
「ずっと……先生と文子さんのような……落ち着いた空気こそが、夫婦であるのではと……思っているのでございますが……。私は、廉様とおりますと…………その……廉様の、かっこよいお顔を見るたびに、廉様に少しでも触れるたびに……どきどきと、胸が高鳴って、心が浮わついてしまうのでございます」
廉は目を見開くと、息を止めた。
「1年前……ここで、廉様が『結婚してみますか』と、言ってくださいましたね」
「……はい」
「結婚というものに憧れておりました私は、その時、本当に夢見心地でございました。そのあと、何度も何度も…………ここを通るたびに、あの時の廉様のお顔や声とともに、きゅっと胸がいっぱいになった心地を思い出して、どきどきと胸が高鳴ってしまうのです。……今もでございます」
「――!」
「それはきっと、ずっと……変わらないような気がするのです。だめでしょうか……それはいい奥さんではありませんか……?」
そう言って、困ったように見上げるひなに、廉は思わず手を口に当て、はぁ……と小さくため息をつく。
「ひなはほんと…………突然俺の息の根を止めにかかってきますね……!」
「息の根を!」
廉はおろおろと視線を泳がせるひなの頬に、そっと触れた。
どき! とひなの身体が小さく跳ねる。
「俺も……早く慣れてしまいたいと思いながらも……いつまで経っても、ひながどんどん可愛くなる一方ですよ」
「どんどんかわいくなるいっぽう……!」
「ひな」
「は、はい……!」
ひなは、どきどきと廉を見上げた。
ふっと廉が優しく微笑んだ、次の瞬間――ふわっと1度、大きく風が吹いた。
「これからも、ずっと、変わらない夫婦でいませんか?」
「……――!」
ひなは息を呑むようにすうっと1度息を吸うと、大きく目を見開く。
じわ……と滲んだ涙をぱぱっと慌てて拭うと、はい……! と、心の底から嬉しそうにそう声を漏らした。
その表情は、1年前より一層曇りなく柔らかく艶やかで、今まで見たどの笑みよりも愛おしく。
ひなの涙をそっと拭う廉の表情は、今までのどの表情よりも優しく、甘く、穏やかだったという。
そうして、ひなと廉がまた少し、そっと距離を縮めた風薫る早夏の1日から、さらに数日が経った頃――
小さな事件が起きていた。
「ひな様廉様、おはようございま…………す?」
カッコウが爽やかな心地よい鳴き声を響かせる、とある朝。
こんもりとベッドの上で丸くなっている上掛けに、清香は珍しく言葉を詰まらせると、目を瞬いた。
何事です? と言いたげな目線を廉へ向ける。
「知らねぇ。起きて布団を剥ごうとしたら、この調子――」
「剥ごうとした?」
「いいだろ、そこは」
2人の視線が、ベッドの上の丸い上掛けへ注がれる。
中から微かに聞こえる、すんすんと鼻をすする声に、いやほんと何事? と清香はぽふぽふと上掛けを叩いた。
「ひな様? 清香にございますが」
「…………うう……」
すると、すんすんと目に涙を浮かべたひなが、ちょこんと小さく顔を出した。
「……ひなはもう……だめにございます……」
「はぁ?」
「ああ、風邪ですね」
ああびっくりした、とさらっと言う清香に、もうひどいです清香! とぷんぷんと怒り出すひな。
風邪? と廉は目を瞬いた。
「ひな様は風邪の時、決まってそう言うのでございます」
「そう言えば……ひな、全っ然風邪引かないよな……」
「そうなのでございます。ですので、風邪を引くというのは、ひな様の中では一大事――」
「もう……! なぜ誰も信じてくれないのですか……! こぅんな辛いの、絶対に風邪ではありません! 私はもうだめなのです……!」
「ひな様の9割は勘違いでできておられますからね」
「もう――」
「大丈夫か? ひな」
眉を寄せ、心配そうにひなを覗き込む廉に、きゅん……! とひなの胸が高鳴る。
「廉様……私は幸せでございました……」
「熱はあるのか?」
「廉様はなんとお優しい……」
「おい、話通じてるか?」
「はい……廉様のかっこよいお顔を見ますと、何やら熱が…………うう、気持ち悪い……」
「気持ち悪い?」
はい……気持ち悪いです……、とまた上掛けの山の中へ戻っていくひな。
この時期に胃腸風邪? と怪訝な顔をする廉の横で、えっ、と清香は動きを止めた。
「まま……ま、待って待って、待ってくださいひな様? それはもしやもしやそれは、風邪とかではなくて……!」
「……えっ? ……――!」
「……――!?」
清香の珍しく大いに驚いたような声に思わず上掛けから再び顔を出したひなは、その清香の表情に、はたと廉と顔を見合わせる。
次の瞬間、ぱあああ……! とひなは表情を輝かせ、廉はそれは大きく目を見開き、息を止めたのだった。
新婚旅行から1ヶ月と少し。
ゆっくりと廉と育んできた愛の結晶が、自身の身体に宿ったのだと気づいた瞬間。
ひなは大粒の涙を流して喜んだという。
変わらずにいようと、あの藤棚の下で誓ったひなと廉。
形こそ変われど、その誓いをなぞるように、いつまでもどきどきと胸を高鳴らせ、頬を染めたり妬いたりしつつ、次に生まれてくる新しい命に悪戦苦闘――いや、翻弄されながらも、2人らしく面白可笑しい家庭を築いていく――
――それはまた、もう少し先の話。
初夏、お互いを認識した運命の夜会から1年間、ひなと廉をここまで温かく見守ってくださり、ありがとうございました!
ひなと廉はもちろん、清香、宗一郎、修吾と文子、皆の日常はまだまだ続いていきますが、物語はこれにて完結です。
動物園旅行で何が起こるのか。
生まれたひな&廉の子供と修吾&文子の子供はどんな成長を遂げるのか。
清香は伸夫とどうなるのか、宗一郎はそもそも結婚するのかどうなのか!?
どうせ廉がやきもち焼くんでしょ、とかこっそり想像していただけると楽しいかと思います。
よろしければ、☆で率直な評価をいただければ嬉しいです。
そしてまた次、別のお話でもお会いできれば、幸いです。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!




