グラシェ・デパート(5)
東館で買いそろえたおしゃれな普段着に身を包み、南館のレストランに向かいながら、イーディスは少しばかり考えごとをする。
戦うことを考えなくていい貴重な時間だ。
ルーチェは未だにちょっと照れながらも、嫌がらずに可愛い着こなしに慣れようとしている。
ネリネは文句の一つも言わずに買い物に付き合ってくれる。
自身も何も考えずに楽しめばいいだけの状況なのだけど、つい考えてしまう。
イーディスはローゼンハイムの王宮に入って以来ずっと、魔物どもと戦い国と民と王族を守るために、身体と心と技を鍛え抜いた。
周りの評価は別として、自分なりに努力してきたと言い切ることができる。
『胸キュン大変身』を遂げてから長い時間を経て、身体の扱い方にもすっかり慣れた。
もちろん体力には自信があった。ろくすっぽ練習もしていないが、素早い動き方にもそれなりに対応できることは分かっている。
うまく人ごみの間をすり抜けつつ、山ほど並んだ商品を事細かに選びながら歩くのだから、それなりに疲労するだろうと覚悟も決めていた。
その自分が、『デパート』と名の付く建物を歩くだけで、ほんの少しでも疲労を感じるなどとは……イーディスは欠片も思いもしなかったのだ。
『グラシェ・デパート』ご自慢のレストラン街は、東西南北に分かれて配置された建物の中央広場に位置している。
広場は大きな吹き抜けになっており、一つ一つの店には仕切りや壁が存在しない。
夏の海岸線に出現する食べ物屋の群れと同じように、色とりどりの大きなパラソルが屋根と目印とを兼ねている。
楽しげな中央広場の様子に大いに心を惹かれつつ、昼食を食べて眠くなってしまう前に買い物をしようと頑張った。
だが、半日で回り切れるほど、この城塞都市のようなデパートメント・ストアは狭くなかった。
もと姫騎士と若き魔導師見習いの魏姉妹は、ついにおいしそうな料理とデザートの前に降伏を余儀なくされたのだった。
「ああー疲れたぁ……」
イーディスはネリネおすすめの店の椅子にもたれて休息を求める。
「お疲れさま、お姉ちゃん……ってゆーかちょっと待って、いま“疲れた”って言ったの!?」
ルーチェが耳を疑って小さな叫びをあげた。
疲れた!
そう、彼女は確かに疲れたと言った。
ルーチェの反応もさもありなん、イーディスはこれまで一言も疲労を表現しなかった。
現在は十四人となったローゼンハイム公王家十六姉妹が耳にしたら、皆が一斉に驚くことだろう。
でも……。
今のイーディスは、もう騎士ではない。王族ではない。姫ではない。
『シャロン』という、養父が与えたミドル・ネームも。『ローゼンハイム』の家名も、捨て去ってしまったのだ。
最近は鍛錬も休みがちだ──なぜなら、改めて鍛錬し直さねばならないほど武術の腕前も体力も鈍ってはいないからだ。
ひたすら最強を目指していた頃とは、事情も状況も違う。
使命感や強い気力や、もっと強い責任感とかいうものを、彼女が楽しむこの旅行はまったくと言っていいほど必要としない。
そんなものはもう、イーディスがごく自然に振る舞うことの妨げには決してならない。
「昼食がお済みになりましたら、先に南館のお部屋にご案内いたしましょう」
思わずこぼれた言葉を耳にしたネリネが、またも気を利かせた。
デパート南館はかつて商店街にわずかに開かれていた酒場や宿を一カ所に集めた宿泊・休憩所だ。
優れた係員がその仕事をいつの間にこなしたかは不明だけれど、南館に入っている一流の宿に一部屋を確保してくれていたのだ。
「ネリネさんも一緒に食べましょうよ……お食事は皆で食べた方がおいしいです……」
半分眠りに落ちてしまったかのような口調で、イーディスが持ち掛ける。
「では、お言葉に甘えます。とりあえず目が醒めそうなドリンクをお持ちしますね」
「あぁ……すみません、お願いします」
くたびれたクッションみたいなイーディスの体勢を、義妹も係員も咎めはしない。
もし今の彼女が世界一の戦士だったとしても──戦士ならば殊更に、極上の休息が与えられなければならない。
もと姫騎士を疲れと眠気から解放できるとすれば、スパイスをたっぷりと利かせた炭酸飲料だけ。
ニコニコ笑顔で戻って来るネリネの手に、そのドリンクが機嫌よく運ばれて来る。
2021/1/29更新。