【毒いちご】
自我の成長を統率し、思考を奪っている世界。
数ある街はどれも高い壁に囲まれていて、〝外〟が一切見えないようになっていた。その〝外〟で摘んできた小さな赤い果実。
名前を、〝毒いちご〟と言う。
「正体はただの野イチゴ」
「……食べさせないため、か」
「その通りだ。くっくっく、あの世界の誰かがこの毒いちごを食べて──その味に目覚めた時、果たして何が起きるんだろうな? ──興味が湧かないか?」
統制された世界。
そこに落とされる、ひと粒の〝甘酸っぱさ〟──それまで思考をしてこなかった市井の自我に一体何が芽生えるのか。
そしてそこに暮らす〝僕〟はどのように変化するのか。
ぞくりと肩が震え、右手が宙を掻く。
「くっくっく、まあそのうち見に行ってみようか」
ぱくぱくと毒いちごを口内に放り込んでいく館長を横目に、僕も毒いちごに手を伸ばす。ルビーの宝玉のようなちいさな粒が何十個も連なって、ひとつの巨大な宝珠になっているきれいな果実だ。
歯を立てると小粒がぷちぷちと弾けて、ベリーの芳香が甘酸っぱい果汁とともに口内を満たす。──おいしい。たまらなく、おいしい。
配給弁当に歯車クッキーに──味のない食糧しか与えられていないあの世界の人々が口にしたならば。
きっと、革命が起きる。
「館長さま、こちらベリージャムにしたいのですけれど」
「ああ、構わん。いっぱい摘んできたからな」
僕がね。
「雑用、貴様何を呆けておる。無能が」
「えっ」
今なんでいきなり罵倒された!?
「ヨーグルトなりビスケットなり用意せんか」
「食べ合わせ持ってきてほしいなら素直にそう言えよ」
罵倒から入らないと頼み事のひとつもできねぇのか。
「雑用が口答えとは──なかなかいい身分であるな?」
「雑用になった覚えねぇけどな」
「雑草の方がいいか、雑草」
「執事さん僕のこと嫌いだろ」
「いいや?」
我輩は〝我輩〟を陶酔するほどに愛しておるが何か問題でも?
──そんな、ナルシストも滅多に言わぬであろう台詞を素面でぬかして執事さんはしれっとすました顔をする。
「……〝僕〟に興味ないんじゃなかったのか?」
「ない。我輩がどんな〝我輩〟であったか、一切合切興味ない。何故ならば、今の〝我輩〟でも我輩は寵愛してやまぬからである」
「…………」
ナルシスト──と、そうひとことで済ませるには執事さんは威風堂々としすぎていて、けれど自信家と呼ぶには偏執的すぎた。
「ゆえに雑草、驕慢な貴様のことも嘲弄はしても嫌悪はしやせんよ」
「雑草定着させようとすんな」
「凌辱してやりたいとすら思う」
「きが くるっとる」
ただ傲慢なだけの執事さんかと思ったらむちゃくちゃやべぇやつだった。
思わず執事さんから距離を取ってしまう僕に、執事さんは気を悪くした風でもなくふっと吐息めいた笑みを吐き出すだけであった。
「面白いとつくづく思う──ここにいるのは〝ワタシ〟だ。〝ワタシ〟しかいない。だというに、ひとりは陶酔しきった自己愛に狂っていて、ひとりは自分自身を拒絶し拒否しきっていて、ひとりはツッコミの素養ありだが流されるだけ」
面白い、とくぐもった笑い声を上げる館長に──お望み通り、静かに手刀を入れてやる。
「お前が一番特異だからな、言っておくが」
〝魔女〟
それも世界を渡り歩き、挙句世界の狭間に図書館を創ってしまえるほどの。
うん、館長が一番おかしいし面白い〝僕〟だと思う。
「くっくっく、ワタシからしたら魔女でもないくせにここに紛れ込んできたお前たちの方がよっぽど奇特だがな──〝ワタシ〟たち」
ぶちり、と館長の歯に挟まれて毒いちごが弾ける。
〝僕〟を探し渡り歩く魔女。
〝僕〟を見失い彷徨う雑用。雑草ではない。
〝僕〟を拒絶し佇むメイド。
〝僕〟を愛し嘲弄する執事。
共通点はただひとつ──〝僕〟を知らないということだけ。
時間の概念がなく、それどころか外さえ存在しない閉ざされた図書館に集った、四人の〝僕〟を知らない〝僕〟ら──
果たして一体、どうなっていくのか。
僕にはわからないし、〝僕〟らにもわからなかった。
「おい雑草。いつまで我輩を待たせるつもりなのだ? 丁寧に、一から百まで、貴様が立ち上がって一歩を踏み出すところから、一字一句省くことなく貴様の取るべき行動を説明してやらねばならんか?」
「…………」
とりあえずもうしばらくは僕の扱いは改善されそうにない。
……改善される気が全くしないけれど。