エピローグ
身体が水中に沈んでいく感覚は、すぐに別の感覚に置き換えられた。
肉体が溶け、水と混ざり合うような、経験したことのない感覚に神妻は戸惑いを覚える。
息は――できる。
できると言うより、自分が呼吸しているのかどうかもわからない。
わからないが息苦しいということはなかった。
明らかに普通の水の中ではない。
それでも神妻が慌てなかったのは、これがミユが示してくれた異世界へ行くための方法だというのと、自分の右手に伝わる温もりが安らぎを与えてくれていたからだと思う。
井戸に飛び込む前、確か右手には――
みつ姉がいたはずだ――
「――」
水中から一気に押し上げられ水面が爆ぜる。それと同時に水中から顔を出したのは神妻だった。
次いですぐ隣からみつも同じように現れた。
呼吸困難に陥っていたわけではなかったのに、人間の本能なのか、すぐに二人の肺は新鮮な空気を求め呼吸を再開する。
都会で暮らしてみてわかったことだが、都会と違って村の空気は澄んでいて淀みがない。標高も高く、自然が豊富だからだろう。
そんな村とここの空気は同じぐらい……いや、それ以上に綺麗だと、大きく吸い込んでばかりの肺が教えてくれている。
「井戸の中に沈んでいったのに、何でいつの間にか下から上がってたんだ? みつ姉、大丈夫か!?」
「ん。私は平気。カヅ君も大丈夫?」
「俺も大丈夫っぽい。――ミユは?」
先に井戸に入ったミユのことを思い出し、慌てて周囲を見渡す。
井戸に入る前は日付の変わる夜も深い時間だったのに、今は陽が昇って青空が大きく広がっている。明らかにさっきまでと時間が違う。
だけど今は驚きに思考を止めるのは後にするべきだ。
まずはミユを――と思ったところで、すぐにお目当ての、色の薄い銀髪ゆえに白に近くなっている白銀の髪の少女が瞳に飛び込んだ。
彼女は自分の左膝を両腕で抱え、右足だけを水に浸けて、紫の濃い赤色の瞳をこちらに向けている。
「早く上がらないと風邪ひくわよ」
目を細めて上目遣いに言うのは、既に湖から上がったミユだ。
――そう。ここは湖。
神妻の知っている、どの湖よりも透明度があり、澄んだ水質なのは一目瞭然。最初は湖だとわからなかったほどに美しい。隣にいるみつも衝撃に感嘆を洩らしている。
しかし、ミユの言う通り、いつまでも浸かっていては体温が下がってしまう。
まだ感動に支配されているみつの空いている手を取って、神妻たちはミユのいる陸上へと水を掻き分け向かい、大地を踏み締めた。
「あ、自転車、湖から上げてくれてたのか。サンキュ、ミユ」
「ふふ。あなたたちと同じでびしょびしょに濡れてるけどね」
冷静に装いつつも、さっきから不自然なほどミユがチラチラと話題に上がった自転車に赤紫色の瞳を忙しなく動かしている。
何となく、それに触れるのは躊躇われてしまい、より優先しないといけない話が今はたくさんあったこともあり、今は触れずに後回しに。話の続きを優先する。
「あなたたちと同じって、まるで他人事みたいに言ってるけどミユだってそうじゃないのか?」
神妻とミユのやり取りを聞きながら、みつはすぐに神妻の疑問が間違いだと気付いた。
「ねえ、カヅ君。ほんとにミユちゃん、濡れてないみたいだけど……ほら」
みつに促されてミユを見ると、湖に足を浸けて白い太股を晒している右足を除けば、みつの言う通り確かにミユの衣服はまったく濡れた形跡が見当たらない。
「カヅマ、今、私の足をじっと見なかった? そんなに私が濡れていなかったことがお気に召さなかったのかしら?」
「い、いや、別にそんなことは――」
女の子が濡れるなんて言葉を使っているのを聞くと、なんだか淫靡な響きが――
「変態」
「うぐっ……」
心の内を覗かれてしまったのかというぐらい的確な言葉が、神妻の内心を鋭く切り裂いた。止めを刺されてしまい言葉に詰まってしまう。
「何を驚いているのよ。カヅマだって濡れなくて済む方法があるじゃない。それも今からでも遅くないわ」
「?」
濡れてしまった後に濡れなくて済む方法。
言ってることが理解できない。濡れる前に濡れないようにする方法なのか、濡れた後にすぐ乾かす方法なのか。ミユの口振りだと、どちらも違う気がする。
けど、服やズボンが濡れて肌にへばりつく気持ち悪い感触から解放されるなら、是非ミユの知る方法に肖りたい。
「忘れたの? カヅマには呪いが掛けられているのよ。指の一本折るなり、腹を斬るなりしたら、保存された状態に肉体も身に付けている物の状態も過去に戻るわ」
「忘れてたけど、覚えてても絶対にしてたまるか!! 誰が服を乾かすために自傷行為をしないといけないんだ!? したらバカすぎるだろ!? しないけどな!!」
「冗談よ。――残念」
冗談と言いつつ、本気が垣間見えたので、どちらに気持ちが寄ってるのか怖い。なんとなく想像はつくけど知りたくない。
「カヅ君とミユちゃん、すっごい仲良しね。お姉ちゃん、嫉妬しちゃうかも」
「……五年前と仲良しの質が変わっちゃったけどな」
「もっと仲良くなったのね!」
今の話の流れでその結論に達した自称姉の思考力を神妻は本気で疑った。
空を仰いで溜め息を一つ。
「異世界……か――」
井戸に入る前の数分前の夜空と、今見える青空とではまったく正反対の空模様。そのことが神妻に違う世界に来たのだと強引に実感させる。
ひょっとしたら隣にいるみつも同じことを考えているのかもしれない。神妻に釣られるように、みつも頭を上げて陽の光を浴びている。
「なぁ、ミユ。ここは異世界で間違いないんだよな?」
「ええ」
「だったらマナを感じたりするのか?」
神妻に掛けられた【個別時間逆行】の呪いを解くためには大量のマナを必要とする。神妻たちのいた世界――現代にはそのマナが致命的に不足しているという。その為、マナを求めて異世界に渡ったわけだが。これでマナが無かったらこの世界に来た意味がない。
「…………マナなら、空気に混じって十分に漂っているわ。
うん……マナに愛された、魔法を使う者にとって優しい世界のようね」
「じゃあ、早速呪いを解けるんだな? なんだ。せっかく、こっちは緊張していろいろ準備したのに無駄になったな。あっけなかったけど、でもその方が良いか」
拍子抜けする展開になったが、苦労するより全然この方が良い。
しかし、神妻の思惑はミユの次の言葉にあっさりと否定される。
「それは無理」
「何で!?」
「普通の魔法を使う分には、この世界でマナに困ることはまずないわ。
けど、神妻に掛けられているのは普通じゃない。時を歪めて保存された時間に能動的に戻す、言わば大魔法。時間という時の流れに逆らえない人間を、時に縛り不老不死に到らす。人類にとって究極とも言える力よ。
周囲に駄々漏れてるだけのマナでは質も量もまるで足りない」
「それじゃあ、カヅ君を元に戻せないの!?」
食らいつきそうな勢いで、自分のことのように必死な形相を見せるみつがミユに寄ろうとする。それをミユは掌を前に突き出し制止させた。
「普通にマナが存在してる世界なら、必ず魔法が発展しているはずよ。そうでなかったら、この世界の人間はバカね。……つまり、そういう次元だってこと。
魔法が使われているなら、どこかでマナを研究したり貯め込んだりしている場所もきっとあるわ。特定の土地なんかに蓄えられている場合もあるしね。
――私たちはそこを探すのよ」
してやったりと満面の笑みを浮かべるミユは見るからに機嫌上々なようだ。ただし、今も落ち着きがない。よっぽど自転車が気になるのか? どこにでもある二十七インチ自転車なのに。
「なるほどな。……で、どこに行ったら良いんだ?」
ミユの口許がさらに緩まる。陽光に照らされ美しく煌めく銀髪を宙に靡かせて、ミユが自分の後ろへ振り向いて言った。
「こっちへ来なさい」
自転車を置いたまま、言われた通り神妻とみつはミユの背中を付いて行く。
すると、少し歩いてすぐに行き止まりに辿り着いた。目の前は崖だ。落ちたら一溜まりもないのは見ればわかる。
「落ちたいなら止めはしないけど、見るのはそっちじゃないわよ。あれを見なさい」
おっかないことを当たり前のように言うミユが視線で示す方角を同じく視線で追う。
崖から見える一面の景色は森が広がっていて、一部だけ森を切り抜いたように樹木の生えていない一帯がある。そこは集落らしく家が立ち並んでいる。中には煙突から煙を吐き出してる家が見えることから、人が生活してるのは間違いなさそうだ。
「そんな気はしてたけど、ここってファンタジー系異世界なんだな。
いや、まだそう決めるのは早いか。林なんてどこの異世界にもありそうだし。
そこんとこ、ミユ答え合わせしたいんだけど?」
「さぁ」
「へ?」
「マナを感じる世界を選んだだけで、後の基準はなんとなくだもの。
ま、あそこに行けばわかるんじゃない?」
驚きびっくりの勘任せだと仰ったぞ、この人。
「マナの有る無しっていう一番大事なところを抑えていてくれたのは助かるとして、他の判断材料はまさかの勘という衝撃発言!?」
「ふん、まぁね」
ミユは得意気に言った。
ミユが得意気に言った。
――誰も誉めてねぇ―!!
大事なことなので脳内で助詞を変えて二回言い、心を落ち着かそうとして……失敗した。
「はぁ……。異世界スタートでいきなり疲れたけど、まずはこの世界に住む人から情報収集って線で良いのかな? あの村から始めようか」
「そうね。食料と寝床は真っ先に確保したいわ」
「うんうん、さんせ~い! うら若き乙女が野宿なんて絶対に嫌!」
三人意見が一致したところで、当面の目標を得ることができた。やることさえはっきりすれば、後は真っ直ぐ突っ走るだけだ。
ただし、言葉通りこのまま真っ直ぐ突っ走ったりしたら崖から落ちてしまう。回れ右して、湖まで来た道を戻ろう。置いたままの、手に入れて一日も経っていない愛車を回収しなくてはならない。
そう言えば、自転車から離れてからミユの調子が戻った気がする。いい加減、話に触れても良いかもしれない。
「考えてみたら買ってばかりのおニューの自転車、いきなり水浸しになったんだっけ……。これから当分活躍してもらわないといけないのに、錆びたりしないだろうな」
「さすがにすぐに錆びたりしないんじゃないかなぁ」
湖へ向かって歩きながら神妻がみつと他愛ないやり取りをしていると、ふと、ミユが神妙な顔をして言いにくそうにこちらを伺っているのに気付いた。
「どうかした? ミユ」
「ん……チャ、リってあれよね? カヅマが持ってきたタイヤが二つ付いたやつ」
「ああ。さっきはチャリなんて言ったけど自転車のこと?」
「じ、てんしゃ……」
発音が怪しい。まさかとは思うけど、これはひょっとすると――
「自転車、乗ったことないのか、ミユ?」
「――」
どうやら当たりだったらしい。
ずっとミユが自転車を気にしていたのはつまり――
自転車に可笑しいところを見つけたとか、壊れた部分を発見して黙ってたとか、そんな理由があるわけじゃなく、ただミユにとっては物珍しかった――それだけのこと。
「ミユ、乗ってみるか? 自転車に」
「――」
普段は切れ長のミユの目がわかりやすいほど歓喜で大きく開いた。そういう顔をされると神妻も悪い気はしない。
「最初は一人で乗るのは難しいだろうから、まずは二人乗りをお勧めするよ」
「そういうものなのね。ええ、お任せするわ」
弾んだ声で言うミユの後に、凄い早さでみつが顔を神妻に向けて、
「ちょっと待って! それって、もしかして私だけ歩きなんじゃ……、ううん、走り!?」
「最近、体重を気にしてたから、ダイエットにちょうど良いじゃないか」
「してません!! だいたいカヅ君と再会してから、そんな話したことないじゃない! ダイエットが必要なのは本当だけど……」
後半部分は声が小さすぎて聞き取りづらい。
「俺も鬼じゃないから、荷物は籠に入れて良いよ」
神妻からの理不尽な優しさにみつが憤慨する。そこに――
「ねぇ、ミツ。ミツも自転車に乗れるのよね?」
ミユから聞かれ、みつは質問の意図がわからずにきょとんとしてしまう。それは瞬きを数回する内に理解に達し解消を迎え――
まさか、ここから自称姉に反撃の狼煙を上げられようとは――
「うん、乗れるよ! だから私がミユを乗せてあげる!」
「え――」
「なら、ミツにお願いするわね」
「え~っ!」
どうやら形勢逆転してしまったらしい。
そうこう言ってる間に湖に戻り、目的の自転車が目視できる距離に。
近付くと、未だ自転車のサドルには水気が帯びている。神妻は「仕方ないなぁ」と口では言いながらも、内心はそうでもなく、リュックから水に濡れるのを免れていたタオルを取り出した。この時知ったが、リュックの中身は全然とまではいかないものの、意外とあまり水が入り込んでいなかったらしい。
取り出したタオルで二人の座る場所を丁寧に拭き取ってあげる。
本当のところみつを走らせて、自分が自転車に乗るという選択肢は最初から省いていたので、結果的にこれで良かった。
「カヅ君は五年経っても、やっぱりカヅ君ね」
「……そうね。やっぱりカヅマだわ」
神妻の姿を見ていた二人から、各々そんな言葉が漏れた。
褒められているのか、呆れられてるのか、いまいち神妻には判断できない。二人とも表情を緩めているので悪い反応ではないと思いたいが。どうも神妻の意図に気付いたらしい。そして気付かれることがこんなにも恥ずかしいものなのだと知らされてしまった。
「もう、良いよ」
「うん、ありがとう」
前籠にリュックを入れて、拭き終わった自転車をみつとバトンタッチする。みつも自分のリュックを籠に入れると、ミユの方へ顔の向きを変えた。
「さ、ミユちゃん、後ろに乗って」
「……こ、こう?」
後荷台にさっきまでと別のタオルを敷いた、その上にミユが恐る恐るお嬢様座りをする。初めての自転車でも、神妻と違って股がって座るなんてことはしなかった。前に座るみつの腰に両腕を回してバランスを整える。
「これは……運転するのがミツで良かったと心底思うわ。……本当に良かった」
自転車に乗っている二人の姿をイメージしたのか、ミユが同じことを二回言ったことには、敢えて神妻は触れないでおこうと思った。
「ミユちゃん、しっかり掴まっててね」
「ええ、ミツよろしく。行きましょうか」
「ちょっと待った。……ミユ」
二人乗りで今にも出発しようとしたところで、神妻がミユを呼び止めた。
自転車の前籠に入れている自分のリュックの中に腕を突っ込んで、神妻は目当ての物を探し始める。真っ赤な球体に割り箸が突き刺さった食べ物を取り出すと、そのままミユの前に差し出し、
「これは?」
「リンゴ飴」
「――」
「ミユが覚えているかわからないけど、井戸から出たらリンゴ飴食べさせてあげるって約束してたからさ。冷めてるけど、これはこれで美味しいと思うよ」
「ぁ――」
ミユがゆっくりと手を伸ばし、神妻からリンゴ飴を受け取る。その手の上に空いてる方の掌を被せ、大事そうに自分の胸の前に運ぶミユの姿は、正直神妻にとって予想外の展開だった。
物思いに両目を閉じること数秒、ミユの瞼が重そうに開かれる。
「ありがとう、カヅマ」
礼を言うミユの表情は、まるで憑き物が取れたように清々しい。その姿は神妻に、五年前の夏祭りの夜に井戸を挟んで二人っきりで話した大事な記憶を思い出させた。
口許が緩むのをしばらく止められそうにない。
当たり前のことだが、ミユは五年経っても、やっぱりミユなんだ。
一人は数奇な巡り合わせによって不死者になってしまった自分の身体を元の人間のものに戻すために――
自称姉を語る幼馴染みは、愛しい弟の願いを叶えるために――
最後の三人目は、呪いを掛けた張本人ということから、呪いの解呪を自分が行う必要性を感じたため――
というのは建前で、本懐は時に縛られ無為に過ごした時間を取り戻すため、自らの意思で時計の針を動かす――
井戸の中から出ることを許されず過ごしてきた、白みがかった銀色の髪の少女は目の前の光景に興奮する感情を無理矢理に抑え、こう思う――
初めて自分の瞳に映る本物の外の世界――
なんて景色は彩飾に溢れているのだろう。
なんて空は明るく綺麗なんだろう。
なんて陽の光は温かいんだろう。
なんて――
世界は広いんだろう――
読了ありがとうございます。
本番である異世界に行ってからの冒険に入るまで、随分と長くなりました。
プロットが出来上がる前の当初は3話ぐらいでいけるかなぁと思ってたのが、書き始めたら4倍に……
これが今となっては自分の中で失敗したかなと思っているところです。
異世界ものなのに、本番に入るまでが長過ぎました。
異世界に入り、これからやりたかったことが出来るわけですが、続けていく上で自分の中の最低限の評価点も大きく下回っていたこともあり、このまま続けていって良いか悩んだ末に、今回で完結という形を取らせて頂きました。
最後まで読んで頂いた方には私の力不足で申し訳ないと思う一方と、ここまで読んで頂いて感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました。
次回作の構想はあるので、機会があれば、そちらの方もよろしくお願いします。




