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第三章 18 『岩峡の遭遇』



 岩峡を抜ける風は、三本の帰還路へ別々の音を運んでいた。


 南の住民用路では荷車の車輪が遠ざかり、北の高路では記録箱を積んだ小型車が石を噛む。


 中央の旧軍道だけが止まり、群青の騎士たちは岩壁の上に現れた三人を見上げていた。


 ヴィヴィは右側の崖縁へ腰を下ろしたまま、両脚を揺らしている。


 左側には赤黒い魔素を拳へ纏わせたセルケトが立ち、反対側の岩陰ではイグニールが北路へ下がる調査隊を見据えていた。


「——始めよう」


 ヴィヴィの幼い声が落ちても、ナーヴァは剣を抜かなかった。


 デュランダルの柄へ触れたまま、三本の道と敵三人の位置を順に確認する。


「全隊、そのまま後退。中央は動かない」


 ナーヴァの指示を受け、白と灰の信号札がもう一度振られた。


 住民用列と調査用列は速度を上げず、隊列を崩さないまま岩峡から離れていく。


「逃がすのかよ」


 セルケトは崖の縁から身を乗り出し、後退する二列を見下ろした。


「ウチは待つために来たんじゃねえぞ」


「じゃあ、落ちれば?」


 ヴィヴィはセルケトへ顔を向けず、中央の布陣だけを見ていた。


「でも、どこへ落ちるかは自分で選んでね」


「言われなくても決めてる」


 セルケトは右足で岩床を蹴った。


 崖縁が砕け、赤黒い残光を引く身体が二十メートル近い高さから中央の旧軍道へ落下する。


「中央前列、散る!」


 ローデリヒが叫び、群青の盾兵が左右へ割れた。


 セルケトの両拳が地面へ叩き込まれた瞬間、衝撃が円形に広がり、旧軍道の石畳が半径六メートルほど浮き上がる。


 エルザヴェートの周囲から八本の自律刃が湧いた。


 四本が浮いた石片を細かく裂き、残る四本が衝撃の中心へ斜めに走る。


「へえ」


 セルケトは顔を上げ、右拳で正面の刃を弾いた。


 刃と拳が触れた場所から金属音に似た高い響きが走り、軌道を逸らされた刃が石壁へ細い傷を残す。


「動かねえくせに、ちゃんと速いじゃねえか」


「君は着地の時点で、どこを壊すか決めていたね」


 エルザヴェートは腕を組んだまま、残る自律刃をセルケトの手首と足元へ回した。


「ボクの後ろではなく、軍用列の前へ落ちた。まず道を割って、逃げる二列を戻すつもりだったのかな?」


「喋ってる暇があんなら止めてみろ!」


 セルケトは左足を踏み込み、拳ではなく肩から自律刃の包囲へ突っ込んだ。


 刃は首や胸を避け、肘、膝、足首へ軌道を変えるが、セルケトは回避せず赤黒い魔素を全身へ膨らませる。


 最初の二本が前腕へ当たり、薄く皮膚を裂いた。


 続く三本は軌道を読まれ、肘と膝で強引に叩き落とされる。


 最後の一本が左足首へ回り込んだ瞬間、ローデリヒの重圧がセルケトの踏み込みへ重なった。


「ここから先へは通しません」


 ローデリヒはエルザヴェートの右前方へ立ち、剣先を低く構えた。


 重圧の魔素がセルケトの足場だけへ集まり、砕けた石畳ごと右足を沈ませる。


「重くすんのか」


 セルケトは動きを止めず、沈んだ右足へさらに力を込めた。


「だったら、そのまま踏み抜くだけだ!」


 石畳が再び砕け、重圧を受けたままの右足が地面へ深く刺さった。


 セルケトは固定された足を軸に上体を回し、左拳をローデリヒへ横薙ぎに振るう。


 ローデリヒは剣の腹で受けようとせず、後方へ半歩退いた。


 拳の軌道へ自律刃が二本割り込み、衝撃を受けながら上へ弾かれる。


「ローデリヒ。受けない方がいい」


 エルザヴェートの声に、ローデリヒは視線をセルケトから外さず頷いた。


「威力を確認しました。次は避けます」


「確認で受けんなよ、真面目騎士!」


 卓斗は中央後列から思わず声を上げた。


 右手首を使えないため、左手だけを開き、飛散する石片を斥力で軍用列の外へ逸らしている。


「卓斗。前へ出ない」


 ナーヴァはセルケトへ向けていた視線を動かさずに命じた。


「出てないって。石飛ばしてるだけ」


「左肩の出力も上げない」


「分かってる」


 ティナは卓斗の隣で白銀を足元へ広げ、崩れた石畳の摩擦と傾きを一定に保っていた。


 斥力で逸らした石が味方側へ跳ね返らないよう、進行方向の空間密度だけを僅かに上げている。


「タク。右上」


 ティナの警告と同時に、岩壁上のヴィヴィが卓斗へ視線を向けた。


「また呼んだ」


 ヴィヴィは楽しそうに笑った。


「その名前、ティナが呼ぶ時だけ反応が違うね」


 卓斗の眉間へ深い皺が寄った。


 左手に集めていた黒が一瞬だけ膨らみ、近くの小石を地面から浮かせる。


「その呼び方、やめろって言ったよな」


「嫌なんだ?」


「当たり前だろ」


 卓斗はヴィヴィを見上げたまま、浮いた小石を自分で地面へ戻した。


「それはティナの呼び方だ。お前が試すために使うな」


「試してるって分かるんだ」


「分かるから余計ムカつく」


 ティナは卓斗の横顔を見たが、間へ入って呼び方を止めることはしなかった。


 卓斗が自分の言葉で拒絶し、力を暴発させずに戻したことを確認してから、ヴィヴィへ白銀の瞳を向ける。


「次に同じことを言えば、観測ではなく挑発と判断するわ」


「もう挑発してるよ」


 ヴィヴィは悪びれずに答えた。


「ティナが怒る場所と、卓斗が怒る場所が同じか見たかったの」


「同じじゃない」


 卓斗が低く言い切った。


「俺が嫌だからやめろって言ってる」


「うん。記録した」


 ヴィヴィは満足そうに頷いた。


 卓斗の怒りそのものではなく、ティナの意思へ寄りかからず自分の拒絶として言葉にした点を見ている。


 その間にも、セルケトはローデリヒの重圧を踏み抜き、中央の軍用列へ一歩ずつ距離を詰めていた。


 エルザヴェートの自律刃は殺傷を避け、拳の軌道と足場を削り続けるが、セルケトは傷を気にせず前進する。


「止めるだけじゃ足りねえぞ!」


 セルケトは両拳を合わせ、胸前で赤黒い魔素を圧縮した。


 二つの拳が離れた瞬間、衝撃が正面へ扇状に放たれる。


「盾列、伏せろ!」


 ローデリヒの号令で前列が膝をついた。


 自律刃が横一列に並び、衝撃波の正面を細かく切り分ける。


 完全には消せなかった圧力が左右へ流れ、岩壁と軍用荷車の幌を激しく揺らした。


 卓斗は左手の斥力を荷車の前面へ薄く広げ、車輪が後退しない程度にだけ押し返す。


「ティナ、足場!」


「右後輪だけ硬くするわ」


 ティナは荷車の右後方へ白銀の硬化面を作った。


 車軸が斜めに浮く寸前で止まり、積まれた軍需箱が崩れずに済む。


「それ以上は使わないで」


「分かってる」


 卓斗は斥力を切り、左肩へ走った鈍い痛みを呼吸で散らした。


 自分から前へ出ず、荷車と騎士の位置だけを守る。


 中央の攻防へ視線が集まった瞬間、北路の斜面で護衛騎士の一人が声を上げた。


「右側、接近!」


 イグニールが岩陰から消え、北の高路へ降りていた。


 巨体に似合わない速度で斜面を駆け下り、三台に分散した記録箱の中央車へ向かっている。


「絵麻さん、北!」


 恵依の声を受け、絵麻は反射的に右手を上げかけた。


 右脇腹へ鋭い痛みが走り、空間座標が一瞬だけ揺らぐ。


「飛ばさない!」


 ラールが絵麻の前へ出て、白鋼を北路の手前へ展開した。


 幅四メートル、高さ二メートルほどの透明な固定面が斜面と旧軍道の間へ立ち上がる。


「一枚だけです!」


「それでいい!」


 絵麻は転移ではなく、北路の先へ残していた座標標識だけを起動した。


 護衛騎士の足元と記録車の車輪位置が淡く光り、互いの距離を見失わないための目印となる。


「全員、その光より前へ出ないで!」


 イグニールは固定面の前で止まらず、右肩をぶつけた。


 鈍い衝撃音が岩峡へ響き、白鋼の面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。


「硬いな」


 イグニールは砕けなかった壁を見て、血赤の瞳を細めた。


「その小さいのが作ったのか」


「名乗ってない相手に教えると思う?」


 絵麻はラールの肩越しに睨み返した。


 右脇腹を庇いながらも、座標標識を維持する位置から動かない。


「絵麻ちゃん。二回目は無理です」


 ラールは白鋼の亀裂を見て、正直に告げた。


「分かってる。次に来たら、壁じゃなくて位置ずらす」


「転移は緊急時だけ」


 ナーヴァの声が中央から飛んだ。


「今が緊急時じゃないって?」


「まだ護衛が残ってる」


 北路の護衛騎士たちは固定面の後ろで盾列を組み直していた。


 退路も途切れておらず、記録車は低速のまま後退を続けている。


「……分かった」


 絵麻は空間を広げず、標識の維持だけへ集中した。


 イグニールは白鋼の面へ左手を当て、亀裂から漏れる魔素を舐めるように観察した。


 胸元の心臓紋が脈打ち、赤黒い魔素が指先へ集まる。


「喰えそうだ」


「ラール、触らせないで!」


 絵麻の警告を受け、ラールは固定面の形を自分側へ引いた。


 透明な壁が一枚の板から三本の杭へ変わり、イグニールの手を挟まずに接触面だけを消す。


「形が変わるのか」


 イグニールは空振りした左手を見て笑った。


「心臓を取れば、それも使えるか?」


「取らせるわけないでしょ!」


 絵麻が声を上げると、イグニールは標的をラールから絵麻へ移した。


 能力を出した者と指示を出した者のどちらが契約者か、視線だけで測っている。


「面倒だな。二つ喰えば分かるか」


「絵麻ちゃんには触らせません!」


 ラールは三本の杭を斜面へ打ち込み、イグニールの進路を狭めた。


 完全に閉じれば北路の退避も妨げるため、人一人が通れる間隔だけを残している。


 恵依は中央と北路の攻防を同時に見ながら、ゲブへ短く指示を出した。


「ゲブ。能力解析ではなく、魔素が増えた時刻だけを取ってください」


「承知しました、流川様」


 ゲブは白銅を広げず、セルケト、イグニール、ヴィヴィの周囲へ細い感知点だけを置いた。


 魔素の性質や感情へ踏み込まず、出力の増減と位置の変化を記録する。


「セルケトと呼ばれた女性は、衝撃直前に拳と胸部へ魔素を集中させています」


 ゲブは中央の攻防を見ながら、確認できた事実だけを伝えた。


「イグニールと呼ばれた男性は、接触時に指先と胸元の紋様が同時に反応しました」


「接触した魔素を奪う、または解析する可能性があります」


 恵依は推測欄へ二つの可能性を分けて書いた。


「確定はしません。ラールさんの白鋼は、接触時間を短くしてください」


「はい!」


 岩壁上のヴィヴィは、恵依とゲブの記録方法にも視線を向けていた。


 能力名や性質を急いで決めず、見えた行動だけを積み上げる姿勢に、紅い瞳が僅かに細まる。


「すぐ決めないんだ」


 ヴィヴィの呟きを、ミレーネが拾った。


「決めつけてほしかった?」


 ミレーネは記録紙を持ったまま、ヴィヴィを見上げた。


「間違えた方が壊しやすいから」


「残念。こっちには恵依がいるからね」


「その紙の人も、よく見てる」


「褒めても情報は渡さないよ」


 ミレーネはヴィヴィの視線がどこへ動いたかまで記録した。


 ヴィヴィが自分から戦わず、相手の選択と連携を見ていることは分かるが、それが魔素能力によるものか性格によるものかはまだ区別できない。


 中央では、セルケトが自律刃の一斉攻撃を両腕で受け止めていた。


 刃は皮膚を裂いても深く入らず、傷が増えるほど赤黒い魔素が濃くなる。


「痛い方が上がるのか?」


 卓斗は荷車の陰からセルケトを見た。


「怒りに反応している可能性はあります」


 恵依が答えた。


「ただし、負傷自体が出力条件とは限りません」


「怒らせない方がいい?」


「挑発は避けるべきです。でも、感情を刺激しないために防御を緩めるのは逆効果です」


「難易度高いな」


 セルケトは自律刃を押し返し、エルザヴェートへ一直線に踏み込んだ。


 ローデリヒの重圧が両肩へ乗るが、今度は足を止めず、重さごと前へ運ぶ。


「剣姫!」


 セルケトの右拳がエルザヴェートの顔面へ迫った。


 ローデリヒが割り込むより早く、六本の自律刃が拳の周囲へ螺旋状に絡む。


 拳の軌道が外側へ逸れ、衝撃がエルザヴェートの左を通り抜けた。


 背後の岩壁が直径三メートルほど抉れ、砕けた石粉が群青の外套へ降りかかる。


「当てる気はあったね」


 エルザヴェートは一歩も動かず、セルケトの拳を見た。


「当然だろ」


「でも、ボクの後ろにいる兵へ衝撃が流れる角度は避けた」


「たまたまだ」


「そういうことにしておこうか」


 エルザヴェートは笑みを戻した。


 セルケトが民間人を狙わず、戦える者だけを選んでいる事実を見抜いても、そこで油断はしない。


 自律刃がセルケトの両手首へ集まり、拳を外側へ開かせる。


 同時にローデリヒの重圧が膝裏へ集中し、セルケトの姿勢を一瞬だけ崩した。


「今です!」


 ローデリヒの声に合わせ、盾兵四名が前へ出た。


 倒すためではなく、セルケトと軍用列の間へ厚い盾壁を作る。


「邪魔だ!」


 セルケトは片膝をついた姿勢から拳を振り上げた。


 盾壁が衝撃で浮き、前列二名の足が地面から離れる。


 卓斗は左手を盾兵へ向け、背中側から弱い引力をかけた。


 飛ばされた二人の身体が中央へ戻り、後列へ激突する前に足をつく。


「助かりました!」


 盾兵の一人が振り返らずに叫んだ。


「次は自分で耐えて!」


「無茶を言いますね!」


 卓斗は返事を聞きながら左手を下ろした。


 肩の奥に鈍い熱が溜まり、指先が僅かに震えている。


「タク。もう一回で止める」


 ティナが卓斗の左手を見た。


「分かってる」


「本当に?」


「今のナーヴァみたいな確認いらんって」


「必要よ」


 ティナは卓斗の足元へ白銀を薄く残し、前へ出ようとする重心だけを戻した。


 北路では、イグニールが三本の白鋼杭の間へ腕を差し込んだ。


 ラールは接触される前に中央の杭を解除し、左右だけを斜めに倒して進路を狭める。


 イグニールは右へ避けず、倒れてくる杭を左肩で受けた。


 白鋼の固定力が肩へ食い込み、巨体が半歩沈む。


「重くはねえ。動かねえだけか」


 イグニールは杭を掴まず、身体を捻って抜けようとした。


 固定された形そのものが空間へ残り、肩だけが擦れて皮膚を裂く。


「ラールさん。解除してください」


 恵依が声を飛ばした。


「相手が自分から傷を作っています。血液や接触面を残す目的かもしれません」


「はい!」


 ラールは即座に二本の杭を消した。


 イグニールは支えを失って前へ一歩出たが、すでに調査用列との距離は四十メートル以上へ開いている。


「逃げるのが早いな」


 イグニールは北路の先を見た。


「追えば?」


 ヴィヴィが崖上から尋ねた。


「追わせて、どこへ戻るか見るのも面白いよ」


「今からじゃ遠い」


 イグニールは舌打ちせず、中央のエルザヴェートへ視線を戻した。


「それに、石の方が近い」


 胸元の心臓紋が強く脈打った瞬間、エルザヴェートのネックレスが青白い光を返した。


 岩峡の地下からも低い振動が立ち上がり、ガルドで記録された欠損と同じ波形が足元を通る。


「地下反応です!」


 恵依は記録紙を押さえ、魔素の流れを追った。


「ガルドより強い。三人の出力が上がった直後に増えています」


「候補戦中と同じ?」


 卓斗が尋ねる。


「似ています。ただし、今は領地核の近くではありません」


 ゲブは白銅の感知点を地下へ一つだけ落とした。


「流川様。岩峡の下にも旧導線があります。三方向から魔素が集まり、東へ抜けています」


「追わないでください」


「承知しました。位置だけ記録します」


 地下の振動に反応し、エルザヴェートの自律刃が一斉に地面へ刃先を向けた。


 セルケトへ向いていた六本まで攻撃対象を失ったように静止し、次の瞬間、岩床へ突き刺さろうとする。


「止まれ」


 エルザヴェートの声が鋭く響いた。


 十二本の自律刃は地面へ触れる直前で止まった。


 刃先と石畳の間は指一本ほどしかなく、青白い光がネックレスから刃へ細くつながっている。


「エルザヴェート様!」


 ローデリヒは主君へ振り返った。


「大丈夫だ。まだボクの命令を聞いている」


 エルザヴェートは腕を組んだ姿勢を崩さず、刃一本ずつの位置を確かめた。


「ただ、地下へ行きたがっている」


 ヴィヴィはその変化を見て、初めて両脚を止めた。


「やっぱり、その石だ」


「何を知っている?」


 エルザヴェートが問いかけると、ヴィヴィは笑みを戻した。


「まだ知らない。でも、石が刃を動かした。地下も動いた。候補者が戦うと、もっと大きくなる」


「この地下異常は、お前たちの仕掛け?」


 ナーヴァはヴィヴィを見上げた。


「どうだろうね」


 ヴィヴィは濁すように答えた。


「私たちかも知れないし、違うかも知れない」


「答えないんですね」


 恵依が確認すると、ヴィヴィは頷いた。


「うん。必要がないから」


「なぜですか?」


「今は剣姫を見たいから」


 ヴィヴィの答えに嘘があるかは判断できない。


 それでも、地下の第三者はサリギアが動いている可能性が、初めて相手の口から示された。


「恵依。記録だけ」


 ナーヴァが告げた。


「今は信用しない」


「はい」


 恵依はヴィヴィの発言を事実欄ではなく、未確認証言の欄へ書き込んだ。


 セルケトは自律刃が地下へ向いた隙を見逃さず、エルザヴェートへ再び踏み込もうとした。


 だが、ヴィヴィが崖上から片手を上げる。


「セルケト。終わり」


「は?」


 セルケトは一歩目で止まり、苛立ちを露わにヴィヴィを睨んだ。


「まだ全然壊してねえぞ」


「見たいものは見たよ」


「ウチは見に来たんじゃねえ!」


「でも、地下が動いた。石も反応した。次はもっと大きい場所で見ればいい」


 ヴィヴィは立ち上がり、服についた砂を払った。


「ここで続けると、住民用と調査用が逃げ切る前に岩峡が崩れるかもしれない。春に、石を取る前に壊すなって言われてるでしょ」


「……チッ」


 セルケトは拳の魔素を消さなかったが、前進も止めた。


 戦いをやめたいのではなく、任務の優先順位へ従っている。


「イグニールも戻って」


「心臓は?」


「今日は要らない」


「俺は要る」


「使えるか分からないのを取って、顔だけ増やすの?」


 ヴィヴィが問い返すと、イグニールは北路の護衛騎士と技師を順に見た。


 能力を確かめ切れていない相手を奪うより、次の侵入に使える立場を選ぶ方がいいと判断したらしい。


「次は選ぶ」


 イグニールは白鋼杭の消えた斜面から離れ、反対側の岩壁へ跳び移った。


「顔と道は覚えた」


 ラールはイグニールが離れても白鋼を出さず、絵麻の隣で北路の距離を確認した。


「追いません」


「うん。今は追わない」


 絵麻も座標標識を一つずつ閉じた。


 右脇腹の痛みは残っているが、転移を使わずに退路を守り切っている。


 セルケトは最後までエルザヴェートから目を離さなかった。


 両腕に残る細い傷から血が流れているが、本人は気にした様子もない。


「次は逃げんなよ、剣姫」


「ボクは一歩も逃げていないよ」


 エルザヴェートは腕を組んだまま答えた。


「君の方が帰るんだろう?」


「次はその口ごと殴る」


「楽しみにしておこう」


 セルケトは岩壁を蹴り、ヴィヴィのいる崖上へ戻った。


 着地の衝撃で崖縁が再び崩れるが、ヴィヴィは足元へ落ちた石だけを見て笑う。


「卓斗」


 ヴィヴィは今度は呼び方を変えた。


「何だよ」


 卓斗は警戒を解かず、岩壁上の少女を睨んだ。


「その名前なら返事するんだね」


「当たり前だろ」


「じゃあ、次もそう呼ぶ」


「次がある前提なの普通に嫌なんだが」


「あるよ」


 ヴィヴィは紅い瞳を細め、ティナ、ゲブ、ラールの順へ視線を動かした。


「今度は、もっと力を重ねるところを見せてね」


 卓斗は答えなかった。


 自分たちの関係を観測対象として扱う言葉へ嫌悪を覚えたが、ここで怒りに任せて引き寄せれば、ヴィヴィの望む反応を渡すことになる。


 ティナも白銀を広げず、卓斗の横へ立ったままヴィヴィを見返した。


「私たちは見せるために力を使わないわ」


「知ってる」


 ヴィヴィはあっさり答えた。


「だから、見たくなるんだよ」


 三人の姿が崖の向こうへ消えた後も、ナーヴァはすぐに追撃を許可しなかった。


 ゲブが残留魔素を広く読もうとする前に止め、ミレーネと恵依へ敵が消えた方向だけを記録させる。


「追わない。全隊の帰還を優先」


 ナーヴァは中央の騎士たちへ命じた。


「負傷確認。崩落確認。地下反応は触らない」


 ローデリヒは前列を回り、セルケトの衝撃で足を捻った盾兵二名と、石片で頬を切った騎士一名を確認した。


 重傷者はおらず、軍用荷車にも大きな損傷はない。


「エルザヴェート様。お怪我は?」


「ないよ」


 エルザヴェートは地面へ向いたままの自律刃を見た。


「こちらの方が問題だね」


「刃を消せますか?」


「試している」


 エルザヴェートが一度目を閉じると、十二本の刃は順番に輪郭を薄くした。


 最後の一本だけが地下へ向いたまま残り、ネックレスの青白い光も消えない。


「ボクの意思だけでは、すぐに消えないらしい」


「領地核の近くではないのに、反応が強まっています」


 恵依は岩峡の地下記録とネックレスの波形を並べた。


「先ほどの三人の出力が引き金になった可能性があります。ただし、ヴィヴィの発言どおり候補者同士の戦闘でも増えるなら、候補戦全体が地下網へ影響しています」


「候補戦を止めるべき?」


 ミレーネが尋ねると、恵依はすぐには頷かなかった。


「私たちだけで止められる制度ではありません。それに、止めれば異常が消えるとも限りません」


「止めるか続けるかを決める前に、証拠が必要」


 ナーヴァは岩峡の三方向を見た。


「まず全員を帰す。次に記録を比べる」


 エルザヴェートは残った最後の自律刃へ意識を向けた。


 数秒後、刃はようやく消え、ネックレスの光も小さく収まる。


「ボクの剣なのに、ボクより先に地下を選んだ」


 エルザヴェートの声から、いつもの軽さが消えていた。


「次も止められるとは限らないね」


「だから、一人で抱えない」


 ナーヴァはエルザヴェートを見上げた。


「異常が出たら先に言う。刃が動いたら、ローデリヒとミレーネも止める。卓斗たちも勝手に触らない」


「候補者の剣を、みんなで止めるのかい?」


「必要なら」


 エルザヴェートは一瞬だけ驚いた後、薄く笑った。


「そういう答えを、君は迷わず出すんだね」


「一人で守れる前提にしない」


「覚えておくよ」


 岩峡の安全確認が終わる頃には、住民用列と調査用列は次の中継地点へ到着していた。


 三本の道は一度も完全には途切れず、記録箱も一つとして奪われていない。


 群青本隊は崩れた石畳へ仮の目印を残し、夕方までに東の自領へ向けて移動を再開した。


 地下の欠損記録と、ヴィヴィたち三人の外見、名乗り、確認できた攻撃だけが三方向へ複写されて送られる。


 夜、エルザヴェート陣営の東部候補領にある街道砦へ到着すると、帝都便の伝令が二通待っていた。


 一通はガルド地下に関する古文書の閲覧許可、もう一通は候補戦管理局からの戦況速報だった。


「西の城塞領が動きました」


 ローデリヒは速報の封を開き、地図へ白い旗札を置いた。


「ジークヴァルト・オルタシア陣営が、ハイゼン城塞領を制圧。守備隊の降伏後、避難民を城内へ保護し、周辺二領の補給線も確保したとのことです」


「一日で?」


 絵麻は椅子へ腰を下ろしたまま、白い旗札を見た。


「正確には半日です」


 ミレーネは速報に添えられた配置図を広げた。


「極光で城壁を消し飛ばしたわけじゃない。副官の鏡界で射線を押さえて、外門だけを落とした。守備側が住民区画へ被害が出る前に降伏してる」


「力を見せて、使い切る前に終わらせたんですね」


 恵依は城塞領の記録を読み取った。


「ガルドでの私たちとは、逆の速さです」


「でも、住民は守った」


 ナーヴァは白い旗札を見た。


「強い。速い。壊しすぎない」


「本命候補と呼ばれるだけはあるね」


 エルザヴェートは腕を組み、ガルドの群青札と西の白い旗札を見比べた。


 ガルドの地下異常へ責任を残し、三本の帰還路を整えた二日間に、ジークヴァルトは城塞領を一つ増やしている。


「地下だけを追っていれば、候補戦で置いていかれる」


 エルザヴェートは静かに言った。


「でも、候補戦だけを見れば、地下で何が起きているか分からない」


「両方やるしかない?」


 卓斗が壁際から尋ねた。


「そうなるね」


 エルザヴェートは胸元のネックレスへ手を触れず、青白い石を見下ろした。


「ボクの剣が地下へ向いた理由も、この石が何なのかも調べる。その上で、ジークヴァルトより先へ進む」


「次の目標は城塞領ですか?」


 ローデリヒが問うと、エルザヴェートは白い旗札の南側へある未制圧領を見た。


「すぐには決めない。まず古文書を読む。それから、白耀の騎士がどう領地を守るのか、近くで見よう」


 ミレーネは新しい記録紙を開いた。


 表題欄へ、白耀と刹那という二つの名を書き込み、その下へ岩峡で得た警告を添える。


 候補戦は、もはや四本の旗だけで動いてはいない。


 地下を進む正体不明の流れ、石を狙うサリギア、そして領地を増やし始めた他の候補者が、それぞれ別の速度で帝国を揺らし始めていた。


 街道砦の外では、群青の旗が夜風に鳴っていた。


 最初の領地を得たエルザヴェート陣営は、守る責任と新たな敵を抱えたまま、白い城塞と刹那の影が待つ次の戦場へ進もうとしていた。




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