第二章 1 『最初の隊列』
第一騎士団の訓練区域には、朝早くから木剣のぶつかる音が響いていた。
広い土床を囲む石畳には白い境界線が引かれ、その外側では古い結界基礎杭が淡い光を灯している。
卓斗は貸し出された訓練着の袖を引きながら、土床の中央へ置かれた大きな木箱を見つめた。昨日は王城の資料室と記録室を行き来し、ようやく眠れたと思ったら、今朝には騎士団の訓練場である。
「異世界に来た翌朝から訓練って、普通に予定詰めすぎなんだが?」
隣に立つティナは、白銀髪に混じる赤い毛先を指で払った。卓斗の疲れた顔へ同情する様子はなく、白銀の瞳で訓練区域の広さと結界杭の位置を確認している。
「昨日の魔獣を押し返した程度で安心されても困るもの。タクは自分の力で転びかけていたでしょう」
「あれ半分くらいお前の説明不足だからな」
「今日は先に説明するわ」
「説明して即発動は、先に聞いた判定に入らないからな?」
卓斗が念を押すと、ティナは面倒そうに眉を寄せた。反論しないところを見る限り、昨夜の約束を忘れてはいないらしい。
少し離れた場所では、恵依がゲブと一緒に結界杭を見ていた。恵依は朝のうちに借りた髪紐で黒に近い茶髪をまとめ、動く時に視界へ入らないよう整えている。
「流川様、確認できた範囲では、訓練区域の衝撃は外周へ流れる構造と思われます。ただし、地下部分までは読み取れていません」
「訓練へ必要な範囲だけ分かれば十分です。始まる前から無理に広げないでください」
ゲブは静かに頭を下げ、広げかけていた白銅の魔素を収めた。誰かの役に立とうとすると限界まで力を使おうとするため、恵依は始まる前から目を離していない。
反対側では、絵麻が黒髪のボブを耳へかけ、第一騎士団員たちの動きを観察していた。足元にいるラールは、土床と石畳の境目を何度も踏み直している。
「あわわっ、絵麻ちゃん。ここ、転んだら絶対に痛いですよ!」
「転ぶ前提で話さないで。あんたが変な場所に壁を出さなければ大丈夫でしょ」
「だ、大丈夫です! 今日はちゃんと見て出します!」
「今日はって自分で言ったわね」
絵麻が冷たい視線を向けると、ラールは口元を両手で覆った。明るく一生懸命なのは確かだが、信頼して任せるには少し不安が残る。
訓練区域の入口から、千佳とナーヴァが歩いてきた。第一騎士団員たちは千佳へ礼を取り、その隣にいる七歳の少女にも同じように道を空ける。
ナーヴァは卓斗たちを順に見たあと、右手首の契約紋や竜精霊の状態へ短く視線を巡らせた。負傷や魔素の乱れがないと確かめると、千佳へ顔を向ける。
「三人。三竜精霊。問題なし」
「承知しました。最初は動きを見るところから始めます」
千佳は三人を土床の南端へ案内した。中央の木箱には左右二本ずつ持ち手があり、大人一人ほどではないが、抱えて走るには重そうだった。
「本日の最初の課題は、この木箱を反対側の白線まで運ぶことです。負傷者か重要物資だと考えてください」
千佳が北側を示すと、三人の第一騎士団員が木剣を持って立っていた。刃の部分には厚い布が巻かれ、腰の筒には色の付いた訓練弾が収められている。
「あの三人を倒せば終わり?」
「倒す必要はありません。木箱へ三本の色印を付けられる前に白線へ入れれば、皆さんの成功です」
「無視して運ぶのもありってことか」
「もちろんです。戦うか、避けるか、誰に任せるかは皆さんで決めてください」
能力は使っても使わなくてもよく、出力も三人自身が選べる。千佳はそれだけ伝えると、細かな隊列や手順を教えず、まず相談する時間を与えた。
卓斗は木箱と三人の騎士を見比べた。全員で箱を持てば速く運べるが、妨害を止める者がいなくなる。かといって、一人で運ぶには重い。
「西野が前で止めて、俺が箱を運ぶ。流川は後ろから全体を見る感じでどう?」
「私が一人で三人止めるの?」
「全員倒さなくていいんだって。近づいたやつだけ頼む」
「簡単に言ってくれるわね」
絵麻は不満そうだったが、前へ出る役割自体は嫌ではないらしい。木箱から五メートルほど先へ立ち、いつでも空間を縮められるよう足を開く。
恵依は木箱の後ろへ回り、三人の騎士と退避地点までの距離を確認した。ゲブはその横、ティナは卓斗の左側、ラールは絵麻のすぐ後ろへ位置を取る。
「では、始めます」
千佳が手を下ろすと、短い鐘が鳴った。卓斗は木箱の二本の持ち手を握り、土床を踏みしめて北側へ運び始める。
最初に動いたのは、中央の騎士だった。絵麻との距離を正面から詰める一方、左右の二人は石畳寄りへ開き、木箱の側面を狙う。
「流川、どっちから来る?」
恵依は三人の足運びと木剣の角度を同時に追った。右側の騎士は卓斗へ視線を向けているが、左側は絵麻が動いた瞬間に木箱へ抜けるつもりらしい。
「左右の二人が木箱を狙っています。中央は西野さんを引きつける役目です」
「だったら先に中央を退かす!」
絵麻は返事を終えるより早く土床を蹴った。足元の空間を縮め、一気に中央の騎士の懐へ入る。
騎士は木剣を横へ振ったが、絵麻は身体を沈めて布刃の下を抜けた。背後へ回り込み、空間の歪みで相手の足元をずらす。
中央の騎士が体勢を崩した瞬間、左側の騎士が木箱へ走った。絵麻は一人を倒すことへ意識が向き、木箱との距離が十メートル以上に開いている。
「西野さん、追わずに戻ってください!」
恵依の声を聞いたラールは、絵麻と木箱の間を守ろうとして白鋼の魔素を広げた。硬質な光が斜めの壁へ変わり、左側の騎士の進路を塞ぐ。
「できました! これで通れません!」
「俺らも通れないんだけど!?」
防壁は木箱の進路まで横切っていた。卓斗は衝突する直前で足を止め、重い木箱を土床へ下ろす。
その隙に右側の騎士が腰の筒から訓練弾を取り出した。色の付いた柔らかい球が、緩い弧を描いて木箱へ飛ぶ。
恵依は弾道だけでなく、中央から戻る騎士、絵麻の位置、ラールの防壁、退避地点までを一度に解析しようとした。情報が重なり、どれを先に止めるべきか判断が遅れる。
「成瀬くん、訓練弾が来ます。ですが左側の騎士も防壁を回り込もうとしていて、中央の騎士は西野さんの後ろから――」
「とりあえず飛んでるやつ押す!」
卓斗は木箱の前へ右手を出し、訓練弾へ斥力を向けた。だが、中央の騎士を追って戻ってきた絵麻が、その範囲へ横から踏み込む。
「西野、そこ入ってくんな!」
「急に押そうとしないでよ!」
卓斗は斥力を放つ直前で止めた。訓練弾は木箱へ当たり、表面に一つ目の赤い色印を残す。
ゲブは遅れを取り戻そうと、三人全員へ白銅の共鳴線を伸ばした。卓斗の斥力、恵依の解析、絵麻の空間魔素を同時につなごうとしたため、淡い線が途中で震え始める。
「流川様、全員の魔素を合わせれば、動きを補える可能性があります」
「ゲブ、今は広げないでください。私たちの動きが揃っていません」
恵依が止める間にも、左側の騎士が防壁を回り込んだ。木剣の布刃が木箱へ触れ、二つ目の青い色印が付く。
卓斗は木箱を持ち直し、残る一人から距離を取ろうとした。そこでティナが白銀の魔素を足元へ流す。
「タク、慣性を薄くするわ。これなら早く動ける」
「待て、今からやるって意味じゃ――」
説明を最後まで聞く前に、卓斗の身体が前へ滑った。持ち上げかけた木箱から手が外れ、卓斗だけがラールの防壁へ肩から突っ込む。
白鋼の壁は壊れなかったが、鈍い衝撃が卓斗の身体を返した。土床へ尻餅をついた直後、最後の騎士が木箱へ黄色い訓練弾を当てる。
終了を告げる鐘が鳴り、三人の騎士が動きを止めた。木箱には赤、青、黄の印が並び、開始地点から七メートルほどしか進んでいない。
「はい、終わりです。見事に全員違うことしてましたね」
卓斗は肩を押さえながら立ち上がった。訓練弾は当たっていないのに、味方の防壁へ一人で突っ込んだせいで一番痛い思いをしている。
「ティナ。説明してから俺の返事待つって工程、抜けてんだけど」
「先に説明はしたわ」
「ネットの規約くらい読ませる気ないじゃん」
ティナは意味が分からないという顔をしたが、すぐに言い返さなかった。卓斗が求めているのは、言葉を聞かせることではなく、そのあとに選ばせることだと理解し始めている。
千佳は色印の付いた木箱を見たあと、三人が立っていた場所へ視線を巡らせた。失敗を責めるのではなく、何を目的に動いたのかを一人ずつ確認していく。
「西野さんは、正面の騎士を倒そうとしました。流川さんは全員の動きを把握しようとし、成瀬さんは飛んでくる攻撃をすべて押し返そうとしました」
「どれも必要じゃないの?」
「必要になる場面はあります。ただし、今回の成功条件は木箱を運ぶことです。皆さんは別々の勝利を目指していました」
絵麻は倒しかけた中央の騎士と、ほとんど進んでいない木箱を見比べた。勝負には勝ちかけていたが、課題としては何の意味もない。
恵依も、自分がすべてを説明しようとしている間に状況が変わったことを理解していた。情報が多いほど役に立つのではなく、必要なものを選ばなければ味方を迷わせる。
「全員が同じ目的を分かっていれば、細かな行動まで言葉で縛る必要はありません。まずは、何を守れば成功なのかを揃えてください」
千佳はそれだけ伝え、三人に相談する時間を渡した。騎士たちも開始位置へ戻り、次の訓練弾を腰の筒へ補充する。
卓斗は土を払いながら、絵麻と恵依を見た。日本から一緒に連れて来られ、この先も行動を共にする予定なのに、いまだに名字で呼び合っている。
「てか、これからずっと三人で動くなら、名字で呼ぶのやめる?」
「急にどうしたのよ」
「連携とか親睦とか、その辺。毎回よそよそしいのも普通にやりづらくない?」
恵依は少し意外そうに卓斗を見た。彼の口から親睦という言葉が出たこと自体が予想外だったらしく、表情がわずかに緩む。
「分かりました。では、これからは卓斗くんと呼びます。私のことも、恵依で構いません」
「了解、恵依」
すぐに名前で呼ばれた恵依は小さく瞬きをしたが、訂正はしなかった。残る絵麻は腕を組み、二人のやり取りから顔を逸らす。
「別に、呼び方なんて何でもいいけど。じゃあ、卓斗。私のことも絵麻でいいわ」
「了解、絵麻」
「確認みたいに連呼しないで」
「自分で呼べって言った直後なんだが?」
絵麻は返事の代わりに木箱へ向き直った。先ほどより肩の力が抜け、卓斗と恵依の近くへ自然に立っている。
三人は二度目の目的を、木箱を白線へ入れることだけに絞った。絵麻は妨害役を倒し切ろうとせず、木箱へ近づいた者だけを止める。恵依は退避経路を脅かす動きだけを解析し、卓斗は木箱へ届く攻撃へ斥力を限定する。
「ティナ。今度は勝手に身体を変えないでくれ」
「足場の硬化だけなら?」
「それは頼む。押した反動で俺が転ぶの、普通にダサいし」
ティナは短く頷き、まだ白銀の魔素を使わず卓斗の横へ立った。ゲブも恵依が選んだ範囲だけへ共鳴を絞り、ラールは木箱の進路を塞がない位置を何度も確認する。
二度目の鐘が鳴った。
中央の騎士が先ほどと同じように絵麻へ接近したが、絵麻は深追いしなかった。空間を短く縮めて木剣の軌道を外し、そのまま木箱の近くへ戻る。
左右の騎士が同時に開くと、恵依は二人の視線と足運びから狙いを絞った。片方は卓斗を引きつける役で、木箱へ触れるつもりなのはもう一人だけだった。
「絵麻さん、追わなくて大丈夫です。木箱へ来る一人だけ止めてください」
「分かった。恵依は後ろをお願い」
絵麻は木箱へ走る騎士の足元へ空間の歪みを置いた。踏み込む位置が半歩外れ、騎士の木剣が箱の側面を掠めて空を切る。
ラールは木箱の横へ小さな白鋼の板を作り、二撃目だけを受け止めた。通路は塞がれず、卓斗は木箱を持ったまま前進を続けられる。
「やりました! 今度は邪魔してません!」
「褒めるの後! まだ終わってないから!」
中央にいた騎士は絵麻を追わず、進路を変えて木箱の後ろへ回ろうとした。恵依がその動きを追うと、ゲブは解析で選ばれた一人にだけ白銅の魔素を沿わせ、踏み込みへ流れる力を読み取る。
「流川様、中央の方は木箱へ直接触れず、成瀬様を振り向かせるつもりと思われます」
「分かりました。卓斗くんは木箱を運び続けてください。後ろは私たちが見ます」
卓斗は振り返らず、持ち手を握ったまま足を進めた。恵依が相手の目的を絞り、ゲブがその判断に必要な流れだけをつないだことで、最初の訓練のように情報が広がりすぎることはなかった。
反対側から二つの訓練弾が飛んだ。恵依は弾道が木箱へ重なることだけを伝え、ほかの騎士の動きは自分とゲブで追う。
「卓斗くん、木箱へ届く二発だけお願いします。絵麻さんの位置とは重なっていません」
「了解。ティナ、足場頼む」
「硬くするだけよ。今度は余計なことはしないわ」
卓斗の踵の下で土床が白銀に硬化した。踏み込んだ力が地面へ逃げず、右手から放たれた斥力が二発の訓練弾だけを外周へ押し返す。
弾かれた球は高く飛び、訓練用結界へ向かった。卓斗たちはその結果を見届けず、残り五メートルとなった白線へ木箱を運び続ける。
その時、外周の古い結界基礎杭の下で、黒い術式札が負荷を受けた。
白い石材の内側に細い亀裂が走り、外へ逃げるはずだった結界流が横へ傾く。訓練弾は光へ分解されず、結界の表面を滑って急激に加速した。
「止まってください!」
千佳の声で、卓斗たちは木箱から手を離した。加速した訓練弾は訓練区域の端を越え、隣接する王都搬入検査場の石壁へ突き刺さる。
鈍い衝突音が響き、壁の向こうで金属が大きくひしゃげた。続いて、地面を揺らすほど低い魔導獣の咆哮が上がる。
千佳とナーヴァが同時に搬入検査場へ顔を向けた。外周の結界杭では、白い光の下を黒い亀裂が這い、訓練区域の防護線を別の方向へ引き始めている。
「いや、待て待て。今の鳴き声、絶対に訓練の続きじゃないよな?」
卓斗が言い終える前に、搬入検査場の扉が内側から吹き飛んだ。歪んだ檻の向こうから巨大な影が土煙を押し退け、第一騎士団の訓練区域へ一歩を踏み出した。




