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第七話

豪田のいびきがリズムを刻むホテルの部屋で、私は音もなく身支度を整えた。  時計の針はまだ6時を回ったところだ。  「ケセラセラ」と開き直ったとはいえ、シラフに戻った頭で、事後の気まずさと正面衝突する勇気まではなかった。私は書き置きも残さず、逃げるように部屋を出た。


 電車に揺られながら、私は少し楽観視していた。  あの豪田のことだ。昨夜のあの見事な「幹事ロボット」ぶりを見れば、何事もなかったかのように振る舞うスキルは持っているはずだ。職場では、大人の距離感で接してくるだろう。そう高を括っていた。


 しかし、出社して彼と顔を合わせた瞬間、その予想は粉々に砕け散った。


「お、おは……っす!!」


 給湯室ですれ違いざま、豪田は私を見るなり、漫画のようにビクッと跳ね上がった。  視線は泳ぎ、顔は赤面し、挨拶は裏返っている。  そして、逃げるように踵を返すと、フロア中に響く大声で電話をかけ始めた。 「あー! お世話になっておりますぅ!! 御社の件ですがぁ!!」  声が大きすぎる。そして、受話器を持つ手が震えている。  全然「うまく」やれていない。  あの熱血営業マンの仮面の下にあるのは、とてつもなくピュアで小心者な素顔だったのだ。私は自分の席で、パソコンのモニターに隠れて吹き出しそうになるのを必死で堪えた。


 定時後。  私はタイムカードを押すと同時に、逃げるように帰ろうとしていた豪田を捕獲した。 「豪田さん」 「ひっ!?」 「……ご飯、行きませんか。このままだと、明日から仕事しづらいでしょう」  彼は観念したように肩を落とし、「……はい」と蚊の鳴くような声で頷いた。


 連れて行ったのは、会社の近くの定食屋だった。  向かい合わせに座った彼は、カツ丼に箸もつけず、意を決したように頭を下げた。


「山野さん……昨日は、本当に申し訳ありませんでした!!」


 店内の客が一斉にこちらを見る。 「声が大きいです、豪田さん」 「あ、すみません……でも、俺、最低です。付き合ってもいない女性に、あんな……しかも、酔った勢いでなんて、男としてあるまじき行為で……」  彼は顔を真っ赤にして、しどろもどろに弁解を続けた。 「正直に言います。俺……その、あれが初めてで……舞い上がってしまって……」


 私は、味噌汁を吹き出しそうになった。  30過ぎの、あのガタイのいい男が、童貞?  昨夜のあの必死さ、あの余裕のなさは、そういうことだったのか。  笑いがこみ上げてきて、止まらなかった。私の人生で、こんなに笑ったのはいつぶりだろう。


「……笑わないでくださいよ」 「ごめんなさい。でも、おかしくて。……だって、奇遇ですね」  私は、目尻の涙を拭いながら言った。 「私も、初めてだったんです」


 豪田が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。 「えっ……山野さんが? いや、でも、すごく綺麗だし、大人だし……」 「いろいろ、事情があってね」  工藤さんとの悲しい未遂事件のことは伏せ、私は微笑んだ。  昨夜のあれは、泥酔した男女の過ちなどではない。30代の不器用な二人が、遅れてきた卒業式を挙げただけのことだったのだ。


 豪田は、しばらく呆然としていたが、やがてその目に強い光を宿して、私を真っ直ぐに見つめた。 「……責任、取らせてください」 「え?」 「俺が初めて奪ったんですから、一生、責任持ちます。山野さん、俺と付き合ってください。いや、結婚を前提に、お願いします!」


 プロポーズのような告白だった。  彼の目には、一点の曇りもなかった。  私は、自分の中の「爆弾」のことを一瞬考えた。でも、不思議と怖くはなかった。この人の前では、私はただの「山野さん」でいられる。そんな気がした。 「……はい。よろしくお願いします」


 それからの展開は早かった。  「ケジメを通したい」と言う豪田の希望で、私たちはすぐに私の実家へ挨拶に行くことになった。  父は、突然連れてきた大柄で騒がしい男に最初は驚いていたが、豪田が直立不動で「お嬢さんを幸せにします!」と叫んだ時、その隻眼を細めて笑った。


「お父さん、少し二人で話させてくれませんか」  豪田はそう言って、私を席から外させた。  襖の向こうから、二人の話し声が聞こえる。何を話しているのかはわからない。私の「力」のことを、父が話しているのかもしれない。  でも、聞こえてくるのは、深刻な沈黙ではなく、豪快な豪田の笑い声と、父の穏やかな相槌だった。


 しばらくして、襖が開いた。  二人は、まるで長年の友人のように打ち解けた顔をしていた。 「夢香。いい男を見つけたな」  父の言葉に、私は胸がいっぱいになった。


 帰り道、豪田と並んで夜道を歩いた。  彼が、そっと私の手を握ってきた。その手は温かく、力強かった。  爆発は起きない。私の心拍数は上がっているのに、破壊の衝動ではなく、ただ甘やかな幸福感だけが全身を巡っている。


 結婚。  一生縁がないと思っていた言葉。  自分は化け物で、誰とも関わらずに死んでいくのだと信じていた。  けれど今、私の目の前には、私を全力で守ろうとしてくれる人がいる。


「……幸せだなぁ」  思わず口をついて出た言葉に、豪田が「俺もっす!」と、また大きな声で答えた。  夜空を見上げる。  今の私なら、どんな未来も愛せる気がした。この幸せの頂点が、ずっと続くと信じて。

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