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第六話

期末の打ち上げに参加するなんて、何年ぶりだろうか。  普段なら「家の用事で」と即座に断るイベントだ。酒は感情の起伏を激しくする危険な水。わざわざ火薬庫の前でマッチを擦るような真似は避けてきた。


 けれど、今回ばかりは好奇心が勝った。  あの「歩く活火山」こと豪田が、アルコールという燃料を注入されたらどうなるのか。上司に説教を始めるのか、それとも店の備品を壊すのか。安全な場所からその爆心地を見届けたい、という野次馬根性だった。


 しかし、居酒屋の座敷で私が目撃したのは、予想を180度裏切る光景だった。


「部長! 今期は私の力不足で、多大なるご迷惑を……! 本当に申し訳ございませんでした!」


 乾杯のビールを一気に飲み干した直後、豪田はいきなり上司の前に直立不動で頭を下げた。昼間のあの噛み付き犬のような態度はどこへやら、完全に「忠犬」のそれだった。  それだけではない。  先輩社員のグラスが空けば、滑り込むようにビール瓶を持って駆けつけ、見事な角度でお酌をする。隅っこで所在なげにしている新入社員がいれば、「お、何飲んでる? ここの唐揚げ美味いぞ」と声をかけ、輪に入れる。  まるで、よくできた幹事ロボットだ。昼間の彼が嘘のように、周囲の空気を読み、潤滑油として動き回っている。


(……何、あれ)


 拍子抜けしたと同時に、少し感心してしまった。彼もまた、社会という戦場で生き残るために、別の種類の「迷彩服」を着ているのだ。


 私はなるべく気配を消してウーロン茶を啜っていたが、そんな私にも、幹事ロボットのセンサーは反応した。 「山野さん、大丈夫ですか? 俺らみたいなのが騒がしくて、すみません」  豪田が、申し訳なさそうに焼き鳥の皿を差し出してきた。 「いえ……豪田さんこそ、昼間とは随分違いますね」  つい、本音が漏れた。彼は少しバツが悪そうに頭をかいた。 「あー、まあ、昼間は『営業の豪田』を演じてるんで。こっちが素ですよ。小心者なんで、酒の席くらいは皆様のご機嫌伺いをしないと、明日から生きていけないっす」  そう言って豪快に笑った顔は、昼間の暑苦しさとは違う、人懐っこい少年のような顔だった。


 飲み慣れない酒と、彼の意外な一面に当てられたのか。  私は、自分が思っていた以上にペースを誤っていたらしい。  一次会が終わり、二次会のカラオケへと流れる段になった時、私の視界はぐにゃりと歪んだ。


「……山野さん? ちょっと、大丈夫ですか!」


 遠くで豪田の声がした。誰かの肩に支えられている感覚がある。 「すんません、俺、山野さん送ってきますわ! 三次会、先行ってて下さい!」  彼は営業部の主要メンバーとの三次会を蹴って、酔いつぶれた地味な派遣社員の介抱を選んだようだった。


 タクシーの後部座席に押し込まれた私は、もう自分の体の制御が効かなくなっていた。  隣に座る豪田の体温が、妙に心地いい。彼の腕が、揺れる車内で私が倒れないように支えてくれている。  優しさ。純粋な、下心のない気遣い。  それが、泥酔した脳味噌に、ダイレクトに響いた。


 ――私、この人のこと、好きかもしれない。


 六年間、埃を被っていた感情のスイッチが、アルコールの力で強制的にオンになった。  ダメだ。このままじゃ、爆発する。  そう思った次の瞬間、私の体は勝手に動いていた。


「……んむっ!?」  豪田の驚いた声が、私の唇で塞がれた。  私は彼に覆いかぶさり、むさぼるようにキスをした。濃厚な、理性を吹き飛ばすようなキス。  タクシーの運転手が「ひえっ」と小さな悲鳴を上げたのが聞こえた気がする。


 そこからの記憶は、霧がかかったようにおぼろげだ。  どうやってタクシーを降りたのか、どうやってホテルの部屋に入ったのか。  覚えているのは、熱いシャワーの感覚と、獣のように絡み合った体の感触。そして、爆発への恐怖すら感じる暇もなく、深い意識の底へと沈んでいったことだけ。


 ……  …………


 翌朝、目が覚めると、知らない天井があった。  隣には、いびきをかいて眠る豪田がいた。  私は飛び起きて、自分の体を確認した。五体満足。部屋も、吹き飛んでいない。工藤さんの時のような、破壊の痕跡はどこにもなかった。


「……あはっ」


 乾いた笑いが漏れた。  なんだ。そういうことだったのか。


 母さんが言っていた「無」になる、相手と一体になるという境地。  それは、禅の修行のような高尚なものではなく、単に「泥酔して前後不覚になる」ということだったのかもしれない。  意識がなければ、感情のコントロールもクソもない。爆発のトリガーを引く「私」という主体そのものが不在なのだから。


「……ケセラセラ、か」


 私は、窓の外の朝焼けを見ながらつぶやいた。  なるようになる。世の中、案外そんなものかもしれない。  36年間、爆弾を抱えて怯えて生きてきたけれど、その安全装置は、コンビニで売ってる缶チューハイ数本で起動するような、拍子抜けするほど単純なものだったのだ。


 隣で豪田が「んあ……?」と寝ぼけた声を上げた。  さて、この後どうなるだろう。気まずい朝を迎えるのか、それとも。  どちらに転んでも構わない。  私はもう、自分が化け物だなんて思わない。ただの、酒癖の悪い36歳の女だ。


 そう思ったら、急に、これからの人生がとてつもなく楽しいものに思えてきた。  私は豪田の寝顔を見下ろし、ニヤリと笑った。さあ、第二ラウンドと行こうか。今度は、シラフで。

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