第1章/2
そんなことをしている間に、時刻は零時を回っていた。
「有栖、今日は泊ってけ」
「いいの?」
「こんな時間に女子高生を一人で帰らせるのは後味悪いからな」
不本意だがな。
「ふふっ」
「なんだよ?」
「なんでもなーい」
「?」
二人分の布団を素早く準備する。その間、有栖はソファの上で猫のようにごろんとしていた。少しくらいは手伝ってほしいものである。
そして、零時半ごろ。俺たちは横になった。
「そういえばさ、佳彦くん」
「ん?」
有栖は目を合わせず声を掛けてくる。
なんだこのシチュエーションは。まるで修学旅行の夜みたいじゃないか。
「佳彦くんって童貞なの?」
「は?」
俺は勢いよく布団から飛び出す。
「お前、急になんてこと訊いてんだ!」
「うわ、こわ。ごめんて、別に変な意味じゃないよ」
「じゃあどういう意味だよ」
返答によっては、ここから追い出してしまおうか。
「なんていうか、女性慣れしてない……みたいな」
「はあ」
それだけで童貞と決めつけられても、いささか早計というかなんというか。
「まあなんだ。童貞かどうかはさておき、女性慣れしてないってのはそうかもしれねえな」
「というと?」
何の悪びれもしない有栖に、俺は呆れながら溜息を吐いて言葉を続けた。
「長々と語るのもあれなんでな。手短に言うが、女子とはいい思い出がないんだ」
「ふむ」
「イジメられてたわけじゃないんだが、イジられてはいた」
「それは高校生の時の話?」
「ん? ああ」
何で時系列の話をしてないのに分かるんだよ。
そんなことを内心ツッコみながら話を続ける。
「まあ、個人的には胸糞な高校生だった」
「ふーん? でもなんだかんだ、卒業はしてるわけだ」
「まあな。まあそれも先生のおかげかな」
「……先生?」
おっと口が滑ってしまった。まあここまで来たら隠す必要もないか。
「ああ、俺の恩師だよ」
「恩師、ねえ?」
そう恩師。少なくとも俺がそう呼べる人物は後にも先にもあの人だけだろう。
「遊馬雪……高校教師でありながら、生徒の前で煙草を吸って、一見ぐうたらしているようにしか見えない人だよ」
「……それは所謂ダメ教師というやつでは」
「はは、まあそうだな。でも、生徒一人一人に真剣に向き合う人だったよ。かくいう俺も救われた人間の一人さ」
「ふぅん?」
何だか興味の薄い反応をされてしまったので、このあたりでやめておくか。
「さあさあ、もう寝るぞ。明日の学校をどうするかくらいは考えておけよ」
「はぁい」
有栖は小さく返事をして、その数秒後には寝息が聞こえてきた。
寝付くのが早い! 正直羨ましいばかりだ。俺は日頃の疲れが溜まっているせいか、不眠症に悩まされている。そうは言っても寝なければ明日のバイトに支障が出かねないので無理やりにでも寝ているわけだが。ちなみに目覚めはかなり悪い。
まあ、そんなこと考えてる暇があったらさっさと寝ろって話しなんだけどな。いや待てよ? 寝るというより目を瞑るって表した方が正しいのかもしれない。
有栖の方を向いてみる。――口から涎を垂らして幸せそうな寝顔だ。全く、そんな顔を見てしまったら俺の悩みなんかどうでも良くなってしまう。
「……眠るか」
彼女の瞑った目を見つめながらこちらも目を瞑る。そうすると意識が静かに、そしてゆったりと闇の中に落ちていくのを感じた。
翌日。朝早く起きて、朝食を作っていた。
普段なら朝は食べないのだが、今日は有栖がいるから仕方ない。まあでも俺なんかに女子高生の食の好みなんて分かるはずもない。だからシンプルに味噌汁や卵焼き、納豆に漬物を準備してみた。……これはどう考えても三十代のいい大人が好みそうな、ザ・和食だ。
「…………」
冷蔵庫を見たらこれくらいしか作れそうになかったから仕方がない、ということにしておこう。
食卓の準備を終えた俺は、有栖を起こしに行く。
昨夜気づいたことではあるのだが、彼女はとてつもなく寝相が悪い。どのくらい悪いのかといえば、あえて布団同士を離していたにも関わらず、彼女は俺の布団に潜り込んで来たくらいだ。
暑苦しいったらありはしない。本人にそれはかとなく言ってみようか。
有栖は亀のような体勢になっていた。
……全く、どうしたらそうなるんだ。
「朝だぞ。起きろ」
「……んっ」
俺の声に反応して有栖の身体が動く。ごろんと転がり、大の字になっていた。
「あと、五分……」
「五分もクソもないよ。朝飯出来てるから、さっさと顔を洗ってこい」
「……りょーかい」
分かってるのか、分かってないのかよく分からない返事だ。
「……ったく」
それから五分後、有栖が起きていた。
「おはよぅ」
「ああ、おはよう。てかほんとに五分で起きてきたな」
「まあねぇ」
「褒めてはねえな?」
そんな会話をしながら、彼女を席へ着かせる。
「こんなもんしか作れなかったんだが、嫌いなもんはないか?」
「んー大丈夫、でも一つだけ。ケチャップある?」
「ん? ああ。あるけど、何に使うんだ?」
「納豆に入れるの」
「…………」
驚きを超えて軽く引いてしまった。
「「いただきます」」
俺たち二人は手を合わせ、食事を開始する。
開始と同時に有栖は納豆にケチャップをかけて混ぜ始めた。納豆が見たこともない色に変わっている。備え付けのたれとからしを俺の方に置いたあたり、それらは入れないらしい。
「それ、美味しいのか?」
「うん、美味しいよ?」
有栖はそう言いながら納豆をかけ込んだ。
「佳彦くんもしてみたら?」
「いやあ、遠慮しとく」
「そう?」
何か、彼女の知ってはいけない一面を見てしまったような気がする。
「そういや、今日の学校はどうするんだ?」
「……行かない」
「そっか、まあ詮索はしないけどさ」
「……ありがと」
それは返事と呼ぶにはあまりに小さすぎた。
俺は何かを察して、それ以上は何も言わずに静かに食事を続けた。彼女は、俺のその態度を見て少し微笑むと、素早く残りの朝食を平らげて、台所へ移動する。
「洗い物は私がやるね。食べ終えたら持ってきて」
「……了解、ありがとな」
俺はもうすぐバイト先へ向かわなくてはいけなかったので、正直洗い物をしてもらえるというのはありがたかった。
味噌汁をすすりながら、台所の方へ目を向ける。そこには、さっきのことなどなかったかのように楽しそうに洗い物をしている有栖の姿があった。
良かった。もしかすると悪いことをしてしまったような気がしたから。
人には触れられたくないことなぞいくらでもある。こんな俺にもあるくらいなのだから、彼女にもあって当然なのだ。
「ごちそうさま」
俺は言われていた通り、食器を台所へ持っていく。
「早く準備した方がいいんじゃない?」
「ああ、そうだな。すまん」
「いいのいいの、私が好きでやってることだから」
「ほんとにありがとうな」
「はいはい」
こんな夫婦みたいなやり取りを自分がするとは思ってもいなかったが、これはこれで面白いものだ。
そんなこんなで、俺はバイトへ行く準備を終えて、玄関で靴を履いていた。
「いいか? 戸締りはちゃんとすること。何もねえけど、好きなことしてていいからな。勝手にどこかへ行くんじゃないぞ」
「はーい」
こういう時だけは物分かりがいいんだよな……。
「あ、そういえば」
「?」
「今度の土曜休みだから、買い物に行くぞ」
「何買うの?」
「俺とお前の浴衣だよ。どうせならちゃんとしたいだろ」
「うん!」
「じゃ、行ってくるな」
「行ってらっしゃい」
こうして俺は有栖に見送られてバイトへ向かった。しかし、ああいう笑顔は見てて嬉しいもんだな。やる気が湧いてきた。