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残業マン  作者: 伊賀谷
第四章
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ラッキーチャンスがもう一度

「え? あれ。え!」


 ナチュラル・ホワイトの薄手のコートを着て、かきあげたスタイルでおでこを出してまとめているショートヘアの桜花ヒナタがシンヤの方を向いて立っている。

 ネオンの光に彩られた顔は無表情だ。それでもなお、その顔は美しい。

 シンヤはヒナタと風俗店の看板を交互に指さしながらも、しばらく状況が理解できなかった。

 先ほどヒナタは店から出てきた。客のわけがない。考えられるとすれば、ここで働いているということだが。


「ええ!」


 まさか、桜花ヒナタが風俗嬢――。

 シンヤはその答えに辿り着かないように、別の理由を頭の中で構築し続けた。

「これは夢だ」と半ば覚醒している自分が、あてどもなく夢の中の矛盾点を探すように。

 ヒールが地面を突く音がシンヤの耳を打つ。ヒナタが啞然としているシンヤに近づいてきた。


「もう。こっちに来なさいよ」


 ヒナタはシンヤの手を掴んで引っ張った。

 二人は店から離れる方向に歩き出した。


 ――桜花さんと手をつないでいる。


 シンヤの指と絡まるヒナタの細く滑らかな指の感触。少しひんやりしているが心地よい。

 目の前で栗色に輝くショートヘアが左右に揺れて、コートが風になびいている。

 これは現実だ。



 気が付くと、シンヤはファーストフードの店内の椅子に座って、テーブルの上の安いコーヒーから立ち昇る白い湯気を見つめていた。

 向かいの席でヒナタが窓の外を眺めている。

 傍から見たら、女性に説教されている男性の図だ。

 しばらく無言の時間が流れる。

 ヒナタがテーブルの上に何かを置いてシンヤの視界の中に滑らせてきた。


「……ルカ」


 名刺だった。上品なデザインで「ルカ」という名前が印字されている。


「お店ではその名前なの。裏に割引券がついているから、わたしのこと指名しなさいよ」

「いや……」

「あんなところをうろついていたんだから、溜まってるんでしょ。抜いてあげるわよ」

「違うんです」

「なにが違うのよ」

「そういう仕事も立派な職業だと思います。でも桜花さんはおれたちにとっては天使のような人なんです。おれに出来ることがあれば力になります」


 シンヤが顔をあげると、目が合ったヒナタは呆れた顔で笑っていた。


「お金が必要なのよ。夜神さんたちのように大企業の恵まれた正社員の人たちには想像できないでしょうね」


 毎日ボロボロになるまで働かされている社畜が恵まれているとは。その発想はシンヤにはなかった。


「父親がギャンブルで負けた挙句にサラ金に手を出してね。借金返済のためにわたしも風俗で働いているってわけ」

「そんな……」


 平穏な家庭で育ったシンヤにとっては確かに想像できないことであった。世の中にはヒナタのような境遇の人もいるということだ。

 でも、ヒナタは職場では明るく笑顔を振りまいて、主に男どもを幸せにする天使を演じている。その裏には壮絶な人生があったのだ。


「でも、それも今月で終わり。お金の返済の目途も立ったし。ルカは引退よ」

「お店を辞めるんですか」

「うん」


 ヒナタの弾んだ返事に、シンヤは胸のつかえがとれたような気がした。


「このことは職場には内緒にしてよ」

「もちろん」

「ところでさ……」

「はい」

「夜神さん、あれなんなの」

「あれ?」

「なんか変身してたじゃん。夜神シンヤマンだっけ」

「あ、覚えてたんですね」

「当たり前じゃん。忘れるわけないでしょ! ホテルの壁ぶっ壊してたじゃん」

「まあ、そうっすよね。正確には『残業マン』です」

「え、残業? ウケる」


 ヒナタの態度がだんだん柔らかくなってきた。

 思い返せば、ヒナタはシンヤが『残業マン』というか、怪しげな姿に変身したことを誰にも告げずにいてくれた。その証拠に「ホテルスプリングス幕張」での一件は大事になっていない。

 シンヤに気を使ってのことだろうか。それとも何か別の考えがあってのことだろうか。


「これでおあいこね」

「なにがです」

「お互いに秘密を知っているってことでしょ。ここは同盟を組みましょ」


 ヒナタがシンヤに顔を近づける。

 シンヤの視線はヒナタのツヤのある唇に釘付けになった。生唾を飲み込む。

 ヒナタが悪戯っぽい笑顔を見せて、右手を差し出した。

 思わずシンヤはその手を握った。ヒナタがシンヤの手を柔らかく握り返す。

 頭の中はまだ少し混乱しているが、シンヤはヒナタとの距離が近くなったような気がした。一か月前にフラれたことがチャラになったのではないか。心の中に一条の光が差し込んできた。


「でも、まだわたしの方が貸しはあるわよね」

「え」

「だって風俗嬢より『残業マン』の方がバレたらヤバくない」

「そ、そうかも」

「だったらわたしの頼みを聞いて」

「はい……」


 何はともあれ、シンヤはヒナタと会話をしているだけで脳がとろけそうな気持ちになっていた。

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