46. 戦闘演習(2)
目を閉じて精神を集中すると、観覧窓の向こうからかすかにギャラリーのざわめきが聞こえる。最初にこの演習室を使い始めた時は、まさかこんなことになるとは思っていなかった。ただ、人目を避けて術の訓練をしていただけなのに。衆人環視のもとでこの国の第二王子と戦闘演習をすることになるなんて、皮肉なものだ。
リディアは構えた杖を、どん、と床に突き立てた。自分たちの目の前に立ちふさがる騎士をにらみつける。
空間魔術の特訓を始めてから、十日余り。もちろんすべての術を使いこなすことなんてできなかったけれど、この訓練で上達したことがある。その一つが、重力制御だった。
指に力をこめながら、ぐっと思念を集中させる。念じることはただ一つ――騎士の体を浮かせること。一瞬だけでもいい。動きを止めることができれば、トキワが敵陣に飛び込んで行くことができる。フレイが、王子に術を仕掛けることができる。
視線の先で、騎士がはっと何かに感づいたようにこちらを見た。リディアは唇の端を持ち上げる。――今頃気付いても、もう遅い。
「トキワ、今だよ!」
その瞬間、大柄な騎士の体は、彼の意志に反してふわりと宙に浮き上がっていた。指数本分のわずかな高さで、体が不安定に上下する。騎士はあわてて足を踏ん張り、体勢を直そうとした。だが浮かんだままの状態では、体の均衡は戻らない。
――どんなにもがいても、彼が地に足をつけることは叶わない。なぜなら今、彼の体にかかる重力はすべてリディアの支配下にあるのだから。
「ナイス、リディア」
ひゅうと短く口笛を吹いて、トキワが騎士の目の前を駆け抜けた。向かう先ににいるのは、唖然とした表情の白魔術師ジョザイア。俊敏な動作で一気に距離を詰めて、トキワは逆手に持った短剣で躍りかかった。
がきり、と奇妙な音が演習室に響く。白魔術師はかろうじて短剣の一撃を杖で受け止めて、じりじりと後ずさった。そのまま何度か打ち合い、窓側へ追いつめられて行く。
「これ、で、いい、でしょ。フレイ」
騎士の巨体を術で浮かせたまま、額に脂汗を浮かべてリディアは弟に問いかけた。
約束通り、騎士と白魔術師に隙を作った。今なら、部屋の隅で詠唱を続けるギルトラッド王子に、攻撃が届くはずだ。
目が合うと、黒髪の弟は短くうなずく。
「ああ。これでやっとあいつに届く。……引きずり出してやる」
『氷の矢』。フレイがそうつぶやくと同時に、空中にこぶし大の鋭利な氷の塊が現れた。最も基本的な攻撃魔術の一種だ。一つ一つの威力は高くないが、だからこそ素早く連続して詠唱することができる。
部屋の奥、炎の禁術の詠唱を続ける王子を目がけ、その氷塊はまさに矢のごとく放たれた。
「……くっ」
ギルトラッドのすぐ脇に、氷の矢が突き刺さる。間一髪で避けたのだろう、王子は横方向に跳び退っていた。忌々しそうに眉を寄せ、フレイをにらみつける。だが、そのくらいでひるむような弟ではない。
「まだだ」
フレイは次々と『氷の矢』を呼び起こし、打ち続ける。作り出された鋭利な氷は、すべて正確に王子を狙って飛んだ。あっという間に彼を追い込む。
それでも、王子は禁術の詠唱をやめようとはしなかった。立て続けに襲いくる氷塊をぎりぎりで避け、術の構築を続ける。
その光景を見て、リディアはいつか見学した彼の戦闘演習の様子を思い出した。
(これ、あのときと同じ……)
あのとき、ギルトラッドは一人で複数の人間と戦い、繰り出される術をずっと避け続けて最後に禁術を放っていた。攻撃を避けながら詠唱ができるなど大した芸当だ、と思った覚えがある。
ただし、それはあくまで一人で敵と対峙するための戦い方だ。守ってくれる護衛も、補助者もいないときの戦い方。三対三で戦っている今のこの状況にはそぐわない。チーム戦でもっとも避けなければいけないのは、各個撃破されることなのだから。
ギルトラッドが禁術の詠唱などやめて、騎士と白魔術師のフォローに回れば、あちらは簡単に形勢を挽回できるだろう。それだけの実力が彼にはある。だが、王子は端から二人を助ける気がないようだった。自らの禁術に固執し、ただ詠唱を続けている。そこには、連携、という意識は欠片も見えなかった。
(……それなら、私たちが負ける道理がない)
リディアは、騎士にかけていた重力制御を解いた。瞬間、絶妙のタイミングで背後からトキワが騎士の背中に襲いかかる。白魔術師はすでに杖を奪われ床に倒れ伏していた。
(だって、こちらはこんなにも息が合う)
半ば恍惚としながら、リディアは目の前の戦いを見守った。フレイとトキワ。二人がどう動くか、リディアには手に取るようにわかった。二人を支援するために自分はどうするべきか、それだけを考えて動く。何も難しいことはなかった。呼吸を合わせるように術を使う、それだけでいい。身の内には奇妙な高揚感があった。演習室の中に渦巻いた高い魔力がさらにその気持ちを高ぶらせる。
視線の先で、フレイの攻撃魔術がついに王子の体を捉えた。鋭利な氷塊がギルトラッドの肩口を深く突き刺す。ぐ、とうめき声をあげ、彼は背後の壁に叩き付けられた。そのまま、壁に体を縫い止められる。透明な氷の上を、赤い血がぬるりと滑り落ちた。――攻撃を避け続けていた王子も、こうなっては動くことはできない。
ようやくあきらめたのか、それとも痛みで声を発せなくなったのか。彼はやっと術の詠唱をやめた。演習室に渦巻いていた炎の魔力がすっと鎮まる。
「これでもう、いいだろう。終わりだ」
フレイの声が、静かに戦闘の終了を告げた。すでに、白魔術師と騎士は意識を失って演習室の床に崩れ落ちている。最後の一人、ギルトラッドも荒い呼吸で壁に寄り掛かっていた。対するリディアたち三人は、多少傷は負っているものの、比較的無事な姿でしっかりと立っている。誰が見ても、この状況では勝敗ははっきりしていた。
「……なぜ、禁術を使わない?」
ギルトラッドが顔を上げ、鋭い目つきでフレイをにらみつけた。
「『氷の矢』など、誰にでも使える下級の術ではないか。フレイライム、君はもっと上級の術を使えるはずだ。それに、君たちは姉弟でずっと何か特別な術を訓練していたのだろう。どうして、それを使わない?」
フレイは一瞬面倒くさそうに眉を寄せた。
「必要がなかったからだ。……それより、もう、いいだろう。これ以上俺たちの邪魔をしないでくれ」
簡潔に言い捨て、出て行け、とばかりに演習室の入り口を指差す。
入り口脇の観覧窓からは、多くの見物人が演習室内の様子を興味津々と見守っていた。多くの視線を浴びて、ギルトラッドの頬にかっと朱がさす。
「俺の……負けだとでも?」
「この状況でどう見えるか、気になるなら見物人に聞いてみたらどうだ?」
淡々と答えるフレイに、王子は、ぎり、と歯を噛み締めた。その手には、いまだ杖が握られている。
ふと、背筋に悪寒が走ってリディアは周囲を見渡した。演習室には、今なお高い魔力が満ちていた。そのほとんどは、先ほど王子が禁術の詠唱で呼び寄せた炎の気。一旦は治まったはずのそれらがざわついている。
「”将が気を失うか降参すれば負け”と言ったはずだ。俺はまだ、降参などしていない……」
ゆるゆると、ギルトラッドが壁から身を起こした。血まみれで、それでも杖にすがって立ち上がるその姿は、ある意味壮絶だった。リディアは無意識に自らの杖を構えた。耳の内で、激しく警鐘が鳴り始める。――これは、危険だ。
「こんなことは認めない……俺はまだ、負けていない……」
王子が低くつぶやくたび、室内の魔力が渦を巻き始める。炎の気が彼のもとに集まっていく。尋常でない濃度の魔力が場を支配していた。
「負けていない、負けるはずがない、俺は誰にも劣っていない……」
渦巻く魔力の中心にいるギルトラッドは、いまや完全に理性を失っているように見えた。血を流し続けながら、またも禁術の詠唱を始める。
魔力の暴走。とっさにそんな言葉が頭をよぎって、リディアは弟に目をやった。目配せの意味を正確に受け取って、フレイもうなずく。魔力が暴走した状態でこんなに殺傷力の高い術を使えば、何が起こるかわからない。こうなっては、気絶させ意識を奪うほかはないだろう。急いでもう一度攻撃魔術を唱え、ギルトラッドを止めようとした。
――けれど。逆上した王子が禁術を放つ方が、一瞬だけ、早かった。




