プロローグ「火事」
――ルノート。お父さんはね、もう帰ってこないの。
どうして?
――大丈夫。あなたもダイアも・・・お母さんもみんな一緒にまたやり直せるから。
やり直すって?
――大丈夫・・・ええ。きっと大丈夫だからね。
ルノートにとって家族はとても大事な存在だった。いつの日か、父が職を失い生活が徐々に苦しくなり始めて、父の様子が段々と狂っていっても尚、彼は――そして彼の妹のダイアもまた、決して父のことを恨んだりしなかった。母が目の前で暴行され、ルノート自身もまた暴力を振るわれても。
唯一、母親の庇護下にあったダイアは手を出されなかった。
暴力と酒のにおいばかりする日々が繰り返されていた。そんなある日のこと。妙に落ち着いた表情の母が、ルノートへ声をかけた。
ルノートは夜遅くになっても姿が見当たらない父のことを心配していた。いつも家にいて酒を浴びるように飲み、彼を好き勝手いたぶるというのに。
――やり直すにはどうしたらいいか、お母さんね、すっごく色々考えたの。
母はとても落ち着いていた。どこか恐ろしいくらいに。
ダイアは自室で眠っている。
冬に突入しだした季節の独特な肌寒さが、薄暗いリビングに居座るルノートの全身を駆け巡る。
狭いリビングの真ん中にどかっと配置された真四角の茶色いテーブルを介して、母と対面し、手元にあるお茶が中途半端に残ったコップを視界の端に据えながら、ルノートは居心地が悪そうに足を何度も組み直す。
――絶対に幸せになれるから。だから・・・全部お母さんに任せてね。
母は依然として無表情だった。しかし、ルノートは彼女のほんの些細な変化に気付いていた。母は声だけでなく、手まで震わせている。
ルノートは幼いながらもその年にしては賢かった。母が父に何をしたのか。父がなぜ帰ってこないのか。そして、彼女の発言の意図。
おおよそ察しがついていた。
「お母さん――」
ルノートはゆっくりと口を開く。
「お父さんを殺したの?」
彼の一言が、母が今まで保っていた平静をぶち壊した。
――何を言っているのかしら。お母さんがそんなことするはずないでしょ。
慌てたように目線を泳がせる母。腕を組み、指をトントンと腕に叩きつけながら苛立ちをも露わにする。
ルノートは動じることなくまた口を開く。
「それは嘘だよね、お母さん」
突如として母が力強くテーブルを殴りつけた。テーブルがガタっと大きく揺れる。眠っているダイアの部屋にまで届きそうなほど、音は響いた。
――ごめんなさい。
母の力ない声。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい・・・。
母の中の何かが決壊した。ぶつぶつと、呪詛を唱えるように言葉を零し続けている。
彼はそんな彼女を前にしながら、ふと、テーブルの上で倒れたコップを見やった。中途半端に入っていたお茶がテーブルの上に広がって、床にまでお茶の雫を垂らしている。
母へ視線を戻す。彼の言い放った言葉一つで酷く取り乱した様子を、どこか深みを帯びた瞳で眺めていた。
「お母さん、大丈夫だよ。ぼくはお父さんのことも好きだったけど、それ以上にお母さんがずっと大好きだから――ぼくがお母さんを幸せにしてみせるよ。ダイアのことも、全部ぼくが幸せにする!」
ルノートは言い終えて、母の元へ寄る。子供のように小さく震える彼女の頭をそっと、その華奢な手で撫でた。
母の体の震えが止まる。
――ルノート・・・。
母は彼の名を呼ぶ。母はとても愛おしそうに、そして暗い満足感を露わにする如く目を細めた。
――私も大好きよ、ルノート。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日。ルノートは目を覚ました。小学生になったばかりの彼は、毎朝目覚まし時計のけたたましい音で目を覚ます。しかし、まだ目覚まし時計は鳴っていない。
五感が冴えてきて、そしてようやく自分が目を覚ました理由に気が付いた。
においだ。焦げ臭いツンとしたにおいが、彼の意識を覚醒させたのだ。
ふと、母のことを思い浮かべる。母は父を殺した。それは彼女の反応からして間違いない。父の死体でも燃やしているのだろうか。しかし、一軒家とは言え近所にまでそのにおいは伝わるはずだ。あの母が誰にでも理解がつくそんな馬鹿な真似をするとは到底思えない。
ルノートは訝しみながら、ベッドを降りる。裏起毛の長袖シャツに長ズボンという冬専用の寝間着を身に着けているにも関わらず、寒さが彼を襲った。冬の入り始めとは思えないその温度感に、ルノートは思わず身震いする。
眠たげな眼を擦りながらゆっくりと部屋のドアまで歩いて、ドアノブに手を掛ける。
焦げ臭いにおいが鼻を苦しめる。
「くさい・・・」
呟きながらドアを開く。その瞬間、更なる臭気が彼を襲った。鼻を摘まみながら廊下を進む。
ルノートとその妹のダイアの部屋は二階、両親の寝室は彼の部屋を出て廊下を右手に進んだところにある。一応、ルノートは両親の寝室を覗き込んだ。
閉め切られたカーテンのせいで真っ暗だ。そんな闇の中でも、母の姿も父の姿も見当たらないことが窺える。
ダイアは大丈夫だろうか。この酷いにおいのせいで、同じように目を覚ましてはいないだろうかと彼は思う。
ダイアの部屋へ行くと、これまたダイアの姿も見当たらず部屋はもぬけの殻となっていた。
取り敢えず、二階にまで伝ってくる謎のにおいの正体を突き止めなくてはならない。
やはり母が父の遺体を燃やしているのだろうか。だがそれだけではダイアが部屋にいない理由に説明が付かない。
彼は一階へ向かいながら思考する。階段を一歩降りるごとに、更ににおいが濃くなる。降りた先の玄関が見えた。するとどこからか煙が漂ってきた。やはり、何かが燃えているのだ。
「なにこれ・・・」
階段を降りると、ルノートはさらさらとした液体を踏んだ。その途端すぐにスースーとした冷感が彼を襲う。
ルノートは怖くなり、液体の散らばっていない方を探るように足を動かした。だがまたもや同じ液体を踏んでしまう。
液体はどうやら一階全体に散らばっているようで、辺り一面中、玄関から差し込む朝日を浴びててかてかと輝いていた。
彼は一まずリビングの方へと向かった。この液体は何なのか、そして誰が撒いたのか。こんなことルノートよりも幼いダイアにはできないだろう。やはり母が撒いたのか。しかし、一体なぜ。
「おかあさん・・・」
リビングの方から少女の声がした。間違いない、ダイアの声だ。
ルノートは急いでリビングへ入る。
「ダイア・・・!」
リビングへ入ると同時にそれは突然起こった。
ダイアを足元へ抱き寄せながら佇む母の視線と彼の視線が交錯した。疚しいことでも隠すかのように、視線はすぐに外れる。
ダイアは不安げな表情をしながら、母をじっと見上げている。
母がしゃがむ。彼女の手には、ライターが握られていた。
彼女が何をしようとしているのか、ルノートはおおよそ察した。
「やめて、お母さん!!!」
ライターが点火される。液体の溜まりへと火の先を近付ける。すると火は勢いよく産声を上げ、周囲へと凄まじい速度で広がった。
「お母さん・・・!!!」
彼は叫んだ。
火はすぐに家中へと燃え広がった。火災報知器が警報を喚き散らしている。火が母とダイアとの間に隔たりを作った。
「どうして・・・」
ルノートは必死に思考を巡らす。消火器はこの家にない。バケツに水を汲んで火目がけてぶちまけるか。しかしそれでは時間がかかる上に火の勢いを止めることはできないだろう。
考えている内にどんどんと火は広がっていく。遂にはリビング全体を飲み干した。母とダイアはただじっと立ち尽くしている。
「おかあさん、熱いよぅ」
ダイアの泣き声が聞こえる。ルノートは強く唇を噛みしめ、リビングを後にした。血の味が唇から広がった。
立ち上る煙が視界を覆い始める。ルノートはふと風呂場の方からも煙が上がっていることに気付いた。
最初、玄関にまで漂ってきていた煙はこっちの方だったのだろう。おそらく、風呂場では父さんの遺体が燃やされている。
母は全てをなかったことにしようとしている。ようやく、今になって彼女の妙に落ち着いた態度の理由が分かった気がした。
助けを呼ばなくては。彼は裸足のまま玄関を飛び出した。扉が今日に限ってとても重たく感じる。
外は何事もなかったかのようにいつもと変わらない、『日常』と呈すに相応しい景色を広げていた。
一人だけ、こちらの家を覗き込むように立ち尽くしている男性がいた。
長身、白髪交じりで猫背の中年の男。体は骨と皮だけではないかと思わせるぐらいに細い。ルノートはその男に走り寄る。
「お願いします・・・!! 火事です!! 助けてください・・・まだ中にお母さんが、妹が・・・!!」
男はくぼんだ目で彼を見下ろす。
「そうか。大変だな。火事だ。君は火事に見舞われたんだ」
「お願いします、どうか・・・!」
「お母さんと妹が中にいるんだな」
「はい・・・」
すると男は笑みを浮かべ、屈んでルノートの肩へと手を置いた。
「いいかい、君のお母さんと妹はもう助からない。だが、二人はきっと君に生きてほしい。君が幸せになってほしいから消える決断をしたんじゃないかな」
「どういうことですか・・・?」
「君のお母さんはお父さんを殺した、そうだろ?」
「どうしてそれを・・・!?」
一体この男は何者だ。得体の知れない恐ろしさを感じて、ルノートは後退りする。
「私は君のことを全て知っている・・・なぜなら、私は君を迎えに来たのだから」
獣の唸り声のような低い声だった。
「今この中に入ったところで君のお母さんと妹は助からない。それは確実だ。見ろ、すでに二階にまで火が広がっているだろう」
ルノートは言葉を失った。男の言う通り、母とダイアを助けるにはもう手遅れだろう。
焼け落ちたカーテン。部屋の窓から火が見える。
「家族・・・家族って、何ですか」
突如として彼はぼやいた。暗い目が、男を映している。
「もう分かりません・・・ぼくはもう何も・・・」
すると男が突然、右手を差し出した。
「一まず、私のところへ来なさい。将来のことはそれからまた考えればいい」
ルノートは何も考えず、男の手を取った。
彼の行動に、男は口角を吊り上げて笑みを作った。




