貴族の矜持は、もういらない
門前に残ったのは、唖然としたリリィと、拍子抜けしたノクスだけだった。
取り立て屋グリードは、怯えながら姿を消した。
「……終わったな」
つい先ほどまで、ノクスはずっとグリードを恐れていた。
それなのに、こんなにもあっけなく立場が逆転するとは。
長く背負っていた鎖が外れたように、胸の奥が軽い。
「リリィ、大丈夫か?」
「……! は、はい……! なんていうか、びっくりしすぎてしまって……。ノクス様があんなふうに戦えるなんて、私まったく知らなかったです……!」
「まあ、腐っても貴族だからな。幼少期に一通り叩き込まれてる。貴族の嗜みって奴だ」
「嗜みって……。そんなレベルの強さじゃなかったですよ!?」
リリィは茶色のツインテールを揺らしながら、ノクスを覗き込んできた。
グリードに圧勝できたのは、ループという特殊な力のなせる技が大きい。
しかし、それをリリィに打ち明けるつもりはなかった。
リリィにループの真実を打ち明ければ、彼女を混乱させ、苦しめることになりかねない。
だから、この秘密は胸の内にしまっておくべきだと思っている。
「グリードさんなんて、私より衝撃を受けていましたよね。……って、そうです! ノクス様、どこかお怪我はされていませんか!?」
「問題ない。俺は無傷だ。グリードの奴は今晩辺り、ひどく腹を壊しそうだがな」
飄々とした態度でそう口にすると、ようやく落ち着いたのか、リリィは安堵したように胸を撫で下ろした。
「……本当に心配しましたよ。まさかノクス様が、あんな思い切った行動に出られるなんて……。あまりの驚きで、心臓が止まってしまいそうでした……!」
「ごめんごめん。今度からは、何をするつもりなのか先に伝えておくよ」
「えっ!? まさかまた、危険なことをするおつもりなんですか!?」
「時と場合によるな」
「そんなぁ……。私の心臓がいくつあっても、持ちませんよ……!」
そう言いながらぷくっと頬を膨らませる。
「黴パンを武器に戦った人なんて、きっとノクス様が世界初ですよ?」
「かもな。――さてと、そろそろ買い出しに行くとしようか」
「えっ? 買い出し……ですか?」
「ああ。最後に残っていた黴パンは、さっきグリードに食わせてしまったからな。このままでは次の食事にありつけない」
「で、でも……あの、お金がそのぉ……」
リリィは途中で言葉を詰まらせ、不安げに目を伏せた。
アルヴェイン家の金欠は悲惨な有様だった。
屋敷に残された品を売却する以外に現金を工面する方法がなく、代々受け継がれてきた調度品や装飾品の大半は既に手放してしまっている。
今や屋敷の中を探しても、まともな値の付きそうな物はほとんど見当たらない。
その厳しい現実を痛いほど理解しているリリィは、だからこそこのような反応を示したのだ。
そんなリリィの様子を見たノクスは、意味ありげに微笑むと懐から財布を取り出した。
「金ならさっき手に入った」
ノクスは、戦利品ともいえる革財布をリリィの前でゆっくりと揺らしてみせた。
◇◇◇
「――あれが例の悪逆貴族か。まだ生きてたのかよ。あんな悪逆非道な奴が、よくもまあ街中を歩けるもんだ」
「あの一族は代々腐敗の温床だったそうだ。名門貴族を名乗りながら、裏では非道な商売を重ねていたんだから。今の惨めな没落ぶりも、先祖からの悪行の報いってところだろうよ」
「正直、もっと早く落ちぶれてもおかしくなかったくらいよ。さっさと地獄に落ちればいいのに」
市場に来た途端、そんな陰口が次々投げつけられた。
人々の態度からは、ノクスという存在に対する根深い嫌悪と軽蔑の念が露骨に滲み出ている。
まるで、ノクスの存在そのものが穢れているかのような振る舞いだ。
「……本当に、ひどい言われようですね。すべて偽りなのに、私、悔しくて……」
「放っておけ、リリィ。誰に何を言われようと、気にしないのが一番だ」
街の人々にアルヴェイン家がここまで恨まれるのには理由がある。
すべては兄ジークハルトの策略のせいだ。
アルヴェイン家は王都の主要な食糧供給を担う貴族として、長年に渡り重要な役割を果たしてきたのだが、ジークハルトはその立場を逆手に取って、悪意ある計画を練ったのだ。
ジークハルトは『アルヴェイン家が食糧供給を独占し、民衆を飢えさせた』という巧みな嘘を広めることを画策した。
緻密に偽造された契約書を複数作成しつつ、多くの商人を金で買収することで、自分に都合の良い証言を次々と集めていったのである。
『アルヴェイン領の小麦は、本来なら王都の市民に安定供給されるはずの重要な食糧だった。しかし、アルヴェイン家は収穫物の大半を隠し倉庫に保管し、市場に出さなかった。その結果、食糧不足が発生し、市民は高騰した価格に苦しむことになった。さらに、アルヴェイン家は一部の有力貴族にのみ、小麦を市場価格の数倍の法外な値段で売り、私腹を肥やした』
『市民向けの食糧市場に出回った数少ない穀物は、劣悪な保管状態のまま放置されていたものだ。どれも、適切な管理がされず、湿気や害虫の被害を受けた粗悪品ばかり。それを食べた市民の間では病が広がり、王都の衛生環境はひどく悪化した』
こんな証言がゴロゴロと出てきたのだ。
しかも、実際に、ジークハルトは既成事実を作るため、粗悪な食料を市場にばら撒いていた。
そのせいで多くの罪なき市民が食中毒を起こして亡くなってしまった。
当然、市民の怒りは抑えきれないほどまでに膨れ上がった。
街角では、アルヴェイン家への非難の声が日増しに大きくなっていった。
王都の市場では、怒り狂った市民たちによって暴動が発生し、混乱は瞬く間に広がった。
町の人々は、ジークハルトの巧妙な策略によって、ノクスと亡き父を悪辣な犯人と思い込んでいる。
真実を知らない彼らの目には、ノクスは『民衆から食料を奪い、腐敗した穀物を市場に流して多くの命を奪った冷血な殺人者』と映っているのだ。
激しい憎悪と軽蔑に満ちた態度を向けられるのも、町の人の立場からすれば当然のことだろう。
「さっさと買い出しを済ませてしまおう」
「はい……」
リリィが肩を落としながらこくりと頷く。
しかしノクスたちは、食料の調達さえ叶わかなった。
「あなた方には、林檎ひとつ売れません」
そう言った商人は冷ややかな眼差しを向けながら、扉の前に立ちはだかった。
「なぜですか……! 先日までは普通に売ってくださったじゃないですか……!」
リリィが焦りながら尋ねる。
「先日までは先日までです」
それだけ言うと、ピシャリと扉を締められてしまった。
その後、各所の店々を一通り回ってみたものの、どこに行っても同じような冷淡な対応を受けた。
店主たちは例外なく、アルヴェイン家との取引を拒絶するのだ。
理由を教えてくれないところも共通していた。
ノクスは市場の喧騒の中で足を止め、周囲の様子を観察しながら、静かに目を細めた。
商売の呼び声や人々の会話が飛び交う中、ある違和感が彼の心を捉えていた。
「リリィ、以前は商人たちが取引を断ることはなかったと言っていたな?」
「はい……! 冷たい態度を取られることはありましたが、今のように完全に拒否されるのは初めてです」
「なるほど……」
商人たちの態度が、まるで申し合わせたかのように一斉に変化したのは明らかに不自然だ。
偶然とは考えられない。
さらに気になることに、その理由については、誰一人として口を開こうとしなかった。
(今回の出来事の背景には、何者かの圧力が働いているのではないか?)
ノクスはそんな疑念を胸に、状況を見極めようとした。
まずは人混みを丁寧に掻き分けて、露店の一つ、八百屋へと近づいた。
そして、商人の警戒心を和らげるよう、穏やかな声で話しかけた。
「この芋、通常価格の十倍で買い取らせてもらえないか?」
ノクスの提案を聞き、商人の目が見開かれる。
法外な値段を提示され、商人の心が大きく揺らいだのは一目瞭然だった。
しかし、その動揺は束の間のものだった。
商人はすぐに視線を逸らすと、何か恐ろしいものから逃れるように、無言で荷物の整理をはじめた。
もちろん、ノクスはそんな程度のことで引き下がらなかった。
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