マリアンナの後悔
私はここで何をやっているんだろう。
手元にある小説の表紙を見ながらふと思う。
どうしてこうなったのか。
自分は転生者だ。ここが前世でプレイした乙女ゲームと同じ舞台だと分かった時、どれほど心が躍ったか。そして絶対に第一王子ヴィクトルを“攻略する”と決めた。
前世の記憶を思い出したのは、ラムリエ商会で偶然あのペンダントを手にした時だった。
大きなハートのペンダントはゲームにおける重要なアイテム。何かに引っ掛かったところ助けて貰うイベントや、ライバルの悪役令嬢に取られそうになって攻略対象に助けて貰うイベントなど、なくてはならないアイテムなのだ。
そして入学式。
桜の花が舞う学園の門を見た瞬間、喜びのあまり泣きそうだった。それでもどこかまだ半信半疑で、手始めに誰よりも早く起きるウィロビーとのイベントが起きるか試してみたら、いとも簡単に起きた。大興奮のままヴィクトルとのイベントを起こそうとしたが起きなかった。1日1つなのかと思い、次の日に条件の合ったトーマスとのイベントを試すと、これまた起きた。
マリアンナは大喜びした。
明日から「シナリオ通りにヴィクトルを攻略してやる」と意気込んでいたのに。
それなのに、ヴィクトルとのイベントは条件が揃っても一向に起きないし、彼の婚約者であり悪役令嬢のルディローザも全く自分に絡んで来ない。起きるのはどうでもいいトーマスとウィロビーとの親密イベントばかりだ。
自分から絡みに行こうにも、ヴィクトルにもルディローザにも友人や護衛が四六時中付いている。彼女の前で何度も無理矢理いじめられた風を装って泣いてみたが、不思議な顔で見られただけだった。今となっては、思い出しただけでものたうち回りたい程に恥ずかしい。
ルディローザも転生者なのかと思い、「ハートのペンダントを持っている」と聞こえるように言ったことがある。
無反応。それどころか自分に興味のかけらも示さない。
勝手に上がっていくウィロビーとトーマスの好感度。イライラしだした頃に、突如ウィロビーの『婚約破棄イベント』が起きたのだ。起きるのは1年の終わりのはずなのに。
もしかしてと思ったのはその時だ。そしてトーマスの婚約破棄イベントで確信した。難易度が簡単な順に攻略していけばいいのだと。一番難しいのはジェルバートで、その次がグレアラン。けれどこの2人は最悪攻略出来なくてもいい。隠しキャラを出したい気もするが、何よりヴィクトルを攻略する方が重要だ。
結果は失敗だった。
トーマスの婚約破棄イベント後、初めてのヴィクトルとのイベントが起きた時には「いける」と思ったのに。そのあとのイベントは起きなかったものの、攻略対象が揃いも揃って自分といてくれるから、攻略出来ると思ったのに。甘い言葉はなくても、優しい視線を向けてくれていると。
そう思っていたのに。
ペンダントが人を惑わす劇薬って何よ。
罪を明らかにする為に近付くよう仕向けたって何よ。
悪役令嬢じゃなくて私が修道院送りって何よ。
王子の婚約者になりたいと言ったのが私で20人目って何よ。
御妃教育って何よ。
こんな展開、ゲームにはなかった。
おかしい。絶対に何かがおかしい。
全員攻略しようなんて一瞬でも考えたのが駄目だったのか。
一番おかしいのはあの女、ルディローザだ。
どうして私がこんなところで彼女に日本語を教えないといけないのか。
いや、もう最近は教えているのか教えられているのか分からなくなってきた。
どうして彼女から漢字を訂正されないといけないのだ。はっきり言って、前世で漢字は苦手だったのだ。意味が通じればそれでいいじゃないかと現世でも思うほどだ。
はっきり拒絶しようにも刑罰にこれも含まれているというし、何より彼女が怖かった。初めて恐怖で泣いたほどだ。
娯楽のない、ブルエーム国一厳しいと言われる修道院に今すぐに入れてくれと口に出してしまうほど。
語学が関わると、こんなに人は変わるのかと空恐ろしくなるほど。
もうすぐ来る時間だろうか。
階段に視線を向けてから気付いた。昨日来たばかりなのだから、今日は来ないはずだと。
マリアンナは1人バツの悪い顔をした。
もう一度小説を見つめる。
認めたくはないが、この時間が段々苦痛ではなくなっている。腹が立つことに、彼女が持ってくる本は面白いのだ。前世でも現世でも興味のなかったファンタジーや伝記でさえ、ついのめり込んで翻訳を忘れることが何度もあった。
これ以外他にすることがないからだ。マリアンナは自分にそう言い聞かせていた。
新しい漢字を書く度に、子供のように嬉しそうな顔をするルディローザに悪い気がしなくなっていたことも。話す相手が1人しかいないからだ。
ふと昨日のことを思い出して、何ともいえない気持ちが胸に広がった。
「あんた、最近綺麗になったわよね。もうあの王子とキスくらいした?」
「……そんな話で誤魔化されませんよ。さ、漢字の間違いがないか、再度確認してください」
「チッ」
呆れ顔で上品に笑うルディローザの耳が少しだけ赤いことを、マリアンナは見逃さなかった。
ふぅん、上手くいってるみたいで良かったじゃん。
不意に浮かんだ自分の感想に目を見開いた。悪役令嬢で、恋の邪魔をするライバルだったはずの女。その女だけが上手くいっているのに、どうしてそんなことを思うんだ。マリアンナは慌てて頭を振った。
認めたくないことはもうひとつある。
本当はどこかで気付いていたこと。
攻略対象は一緒でも、ここはゲームとは違うということは。
だって、最初から違う。
ヴィクトルは王太子になるプレッシャーに潰されそうになっているようには全く見えなかったし、攻略したあの2人だって、ゲームのように婚約者を心底嫌ってはいなかった。特別好きでもなさそうだったが。
1番引っ掛かったのは、ヴィクトルの最初のイベントだ。
ゲームでは、偶然ぶつかったヴィクトルに初めて興味を持たれるイベントのはずだった。
シナリオ通りにぶつかろうとしたところ、予定外にジェルバートに阻まれたが、護衛なんだから仕方ないかと考え直した。
それに、そのあとのヴィクトルの台詞はゲームそのままだったから、マリアンナは気にしないことにした。あのヴィクトルから初めて話しかけられた。もうそれだけで舞い上がっていた。
「怪我はない?」
キラキラと輝く王子スマイルと。それが今、自分の為だけに向けられているだなんて。感激のあまり、危うく次の台詞を忘れるところだった。ゲームで見た通りに、がばりと勢いよく頭を下げる。
「す、すみません! ちょっと急いでて前を見ていませんでした!」
「…そんなに急いで、どこに行くつもりだったんだい?」
まるで真意を測るかのように、スッと細められた目。マリアンナは少しだけその目が怖いと思った。好感度が低いから仕方ないと自分に言い聞かせ、シナリオ通りの無邪気な笑顔を作る。
「お腹が空いてて…食堂に行こうと……あ! 王子様にこんなこと…すみません!」
「いや。食堂なら向こうだ。気を付けて」
「はい! 失礼します!」
くるりと背を向けて、元気よく駆け出す。そんなマリアンナの後ろ姿を、ヴィクトルは見えなくなっても見つめたまま動かない――これがヴィクトル最初のイベントだった。
シナリオ通りに校舎の角を曲がる時、マリアンナはちらりとヴィクトルがいた方を見て驚いた。
そこにはもう、彼の姿はなかったのだ。
その時にマリアンナが抱いた気持ちは、悲しみではなく、怒りだった。
思えばその時に気付けば良かった。
マリアンナは最初から、ヴィクトル自身を好きだった訳じゃない。「ゲームなんだから攻略できるはず」と意地になってただけなのだと。
本当に、何をやっているのだろう。
マリアンナは大きな溜息をついてから、ペンを持った。
そして、とうとう修道院へ送られる日。
長かった。
ルディローザからのあの取り調べからやっと解放されるという清々した気持ちの中に、小さな穴がぽっかりと空いている。自分を誤魔化すように、マリアンナはさっさと馬車に乗り込んだ。
ガタガタと揺れる粗末な馬車。見送りなんかもちろんなく、同乗者もいない。マリアンナは小さく溜息をついて、閉じられたままのカーテンを見た。
別に反省はしてない。これからもするだろうとは思えない。前世の記憶とペンダントがあれば、きっと何度でも同じことをすると思う。
後悔は、少ししている。
修道院へ行く日が正式に決まってからというもの、思い出すのは前世の記憶が戻る前のことばかり。
転生したと分かってあれほど喜んだのに。あんなに攻略してやると意気込んだヴィクトルの顔を思い出しても、気付けばあの女の顔が浮かんでいる。
そして楽しかった時のことを想い出そうとして、家族の顔が浮かぶ。ふくよかの枠をはみ出た父。お人好しで騙されやすい母。ひとりっ子だったが、いつも家の中は明るかった。爵位を返上し、田舎に引っ越すと言っていたらしいが、もしかしたらマリアンナの行く修道院の地に住むつもりかもしれない。あの両親ならしそうだと、マリアンナは胸が苦しくなった。
何をしてたんだろう。
思い出す前だって充分楽しかったのに。幸せだったのに。
学園でちゃんと友達が出来るだろうかとか、良い人に出会えて婚約者になれたら…なんてドキドキしつつ楽しみだったのに。
「リセットボタンがあればいいのに」
そんなものがないことなんてもう充分分かっているのに、マリアンナは呟かずにはいられなかった。
修道院に到着して3ヶ月、日本語で書いた手紙がマリアンナに届けられた。
上質な紙には少しだけ懐かしい字が並ぶ。
驚愕を通り越してマリアンナは大笑いした。
「ほんと何なのよ、あいつ…!」
この涙は、絶対に笑いすぎたせいだ。
今のところ、こちらで一旦完結です。
お読みいただき、ありがとうございました!




