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豊臣家による豊国時代  作者: 牧場のオヤジ
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その後の日本史




1603年。豊臣秀頼により日本国が新たに誕生。天皇は在位のままだが天皇位、即ち天皇と同じ権力を持つ位を豊臣秀頼に禅譲。これにより日本国王は豊臣秀頼となる。そして初代内閣総理大臣には徳川家康が就任。内務大臣に細川忠興、建設大臣に加藤清正、国防大臣に羽柴秀次(豊臣姓を返上)、海軍卿兼海軍大将に宇喜多秀家、陸軍卿兼陸軍大将に上杉景勝。統合作戦本部参謀長に黒田長政が就任。そして文学大臣には一般選考で選ばれた大鷹 守が就任した。これが初期の徳川内閣の閣僚の主である。


そして秀頼は他の重臣達を地方に派遣し内政を確固足るものとする。その例が街道の整備、宿場町の建設、橋や河川の公共整備等、多岐にわたる。



その3年後の1606年。秀頼による外征が始まる。この時既に朝鮮や台湾、満州、蝦夷、樺太、ウラジオストク、琉球を州として併合していた。その為、外征先は大国である明である。明を攻略しはじめて9か月後、北京、紫禁城にて講和会議が行われた。この時、秀頼と家康が同席している。この講和会議により日本がアジアの頂点に立つこととなる。そしてその後、東亜細亜共栄連合。通称、東アジア連合が発足。この連合により、アジアから欧米の勢力は駆逐されることとなる。


その後は欧米との一進一退の攻防が続いたが遂に秀頼は西アジアまでその支配下地域を伸ばした。これにより欧州の人々はチンギス・ハーンの再来と恐怖したちまち反戦運動が勃発。欧州各地に広がりついにはアメリカにまで飛び火する。この状況を鑑みた秀頼は欧米に対して講和を打診。その講和を退ける力の国は無く、1635年。この時、秀頼は43歳。(既に後継者の秀政(ひでまさ)に位を譲っている。)欧州のスイスで欧米の勢力主導者達との講和会議が開かれ、戦争の終結。国土の復興。世界連合の創設等を取りまとめる。この世界連合は常任理事国等は設けず、皆、平等の国際連合となる。



これにより、世界全土で戦争が無くなり、平和な時代が幕を開けることとなる。



そして1667年の4月



京都で行われた花見の次の日



豊王 豊臣秀頼 崩御 85歳


天下人豊臣秀吉の後継者としてその覇道を引き継ぎ、現在の日本国を建国した日本の父。そして、アジア解放の悲願を達成し世界を和と豊に導いた英雄。彼の葬儀はかの豊臣秀吉の葬儀を遥かに上回る盛り上がりを受け。天皇家から日ノ本大明神の神号を与えられた。そして全世界からは新時代創世の神、豊臣秀頼と後世まで伝えられることとなる。


そして秀頼がこの世を去ってからも争いは起きなかった。いや、起きそうになったが起こらなかったの方が正しい。それは日本国が磐石の地盤を築いており崩すことが不可能に近いからであった。しかし秀頼のあとを継いだ豊臣秀政はアジアやヨーロッパ、アフリカやアメリカ大陸の国々を独立させる。この時既に全世界でインフラ整備が完了し何処に居ても富の国と成ったからである。その為、国際連合には次々に新国家な加入し現在の2020年までの国数は400国となっている。




秀政の後も豊臣家は滅びず現在まで存続している。そしてそれは日本国も滅びず長い歴史を歩んでいるのである。




読者の皆様。御無沙汰しております。作者の牧場(ぼくじょう)のオヤジでございます。


この豊臣家による豊国時代を読んで頂きありがとうございます。


本当に今まで、ありがとうございました。

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