助けられた日
ブレイズボアが地面を蹴った。
巨体がこちらへ向かってくるたびに、足元から重い振動が伝わってくる。
さっき倒した個体と大きさはほとんど変わらない。まともにぶつかれば、身体強化を使っていたとしても無事では済まないだろう。
でも、さっきとは違う。
後ろには逃げ場を失った女性と子供がいる。
ここで俺が避けるだけでは、あの2人にブレイズボアが向かうかもしれない。
なら、こいつの意識を俺から逸らすわけにはいかない。
「こっちだ!」
声を上げながら、俺はブレイズボアの正面へ走った。
逃げるように見せるのではなく、あえて近づく。
相手も俺を狙ったまま速度を上げた。
距離が一気に縮まる。
まだ。
もう少し。
角が届きそうになる直前、俺は身体強化を脚へ集中させた。
地面を強く蹴り、身体を右へ滑らせる。
巨大な頭がすぐ横を通過した。
その瞬間、剣を振る。
狙ったのは前脚だった。
風を刃の周囲へ薄く纏わせる。
さっきと同じやり方だ。
だが。
ガキンッ!
硬い音が響いた。
「なっ……!」
剣が弾かれた。
さっきの個体より毛皮が硬い。
いや、よく見ると前脚の周りだけ黒い何かが薄くまとわりついている。
魔力だ。
こいつも、自分の身体を強化している。
「魔物まで身体強化するのかよ……!」
ブレイズボアが勢いのまま身体を回した。
太い後脚がこちらへ飛んでくる。
剣で受ける。
ドンッ!
腕が痺れた。
身体ごと数メートル押し飛ばされる。
何とか転ばずに着地したものの、両腕がじんじんしている。
「ルーク様!」
少し離れたところからバルトの声が聞こえた。
見ると、バルトももう1匹と戦っている。
助けてもらう余裕はなさそうだ。
いや。
助けてもらう必要はない。
俺が倒す。
ブレイズボアの口元から、白い煙が漏れ始めた。
炎が来る。
俺は剣を握ったまま左手を前へ出した。
さっきは水で防いだ。
同じことをすれば、おそらく防げる。
でも。
今度は別の方法を試す。
ブレイズボアが口を開いた。
炎が吐き出される。
その瞬間、俺は風を放った。
正面から押し返すのではない。
炎の横から、強い風を当てる。
炎の軌道が大きく曲がった。
俺の横を熱気が通り抜け、近くの木へぶつかる。
燃え始めた木を横目に、俺は走った。
ブレイズボアは炎を吐いた直後で、まだ次の動きに移れていない。
今なら。
剣を両手で握る。
だが、さっきと同じように斬っても弾かれる。
なら。
魔力で守られていない場所を探す。
首。
脇腹。
腹。
違う。
目。
そこだけは、どんな魔物でも硬くはできないはずだ。
ただし、真正面から狙えば角がある。
どうする。
一瞬だけ考える。
その間にも距離は縮まる。
俺は地面へ風を叩きつけた。
身体が浮く。
イリスから正式に教わった魔法ではない。
風で物を押せるなら、自分を押すことだってできるはずだと思って練習してきた。
まだ空を飛ぶなんて無理だが、一瞬だけ高く跳ぶくらいならできる。
「うおっ……!」
思っていたより高く上がった。
少し焦る。
下にはブレイズボア。
俺を見失ったのか、頭を左右に振っている。
今だ。
落下する勢いを利用し、剣を構えた。
風を纏わせる。
狙う。
右目。
「はあっ!」
振り下ろした剣が、深く突き刺さった。
「フゴオオオオオッ!」
耳が痛くなるほどの叫び声。
ブレイズボアが暴れ、俺の身体も大きく振り回される。
剣から手を離した。
地面へ転がる。
すぐに起き上がる。
ブレイズボアは、目に剣を刺したまま狂ったように暴れていた。
まだ死んでいない。
それどころか、怒りでさらに危険になっている。
こちらを見つける。
残っている片目が、完全に俺を捉えた。
「まだ来るのかよ……」
さすがにしぶとい。
俺には武器がない。
剣は魔物の顔に刺さったままだ。
ブレイズボアが突っ込んでくる。
魔法。
使うしかない。
俺は両手を前へ出した。
火では駄目だ。
こいつ自身が火を使う。
水でも、致命傷にはならない。
なら。
風。
できるだけ細く。
できるだけ一点へ。
この前、採石場で練習した時。
圧縮した風は、硬い木板を深く抉った。
あの時より。
もっと細く。
魔力を集中させる。
頭の中で、一本の線を思い描く。
前世の知識が、こういう時に役立つことがある。
ただ、その考え方を誰かに説明するつもりはない。
どうしてそんな発想をしたのかと聞かれても、偶然思いついたと答えるだけだ。
今は。
目の前の魔物を倒すことだけ考える。
「行け!」
風を放つ。
目には見えない。
ただ、空気を切り裂くような音が響いた。
ブレイズボアの動きが止まる。
額に。
細い線。
少し遅れて。
血が流れた。
巨大な身体が前へ傾く。
俺は慌てて横へ飛ぶ。
ドンッ!
地面が揺れた。
ブレイズボアが倒れた。
今度こそ。
動かない。
「……勝った」
全身から力が抜けた。
膝へ手をつき、大きく息を吐く。
魔力を使いすぎた。
頭も少し痛い。
それでも。
倒せた。
「ルーク様!」
声に顔を上げる。
バルトが走ってくる。
その後ろでは、もう1匹のブレイズボアも倒れていた。
「お怪我は!」
「ない……と思う」
「思うでは困ります」
「腕は痛いけど、それくらい」
バルトが俺の身体を確認する。
大きな傷がないと分かると、ようやく息を吐いた。
「無茶をしますな」
「バルトも助けてくれなかったじゃん」
「こちらはこちらで忙しかったのです」
見る。
バルトが倒したブレイズボア。
首が一撃で落とされている。
「全然忙しそうに見えないけど」
「気のせいです」
絶対嘘だ。
ただ。
文句を言っている場合ではない。
俺は後ろを振り返った。
崖際にいた女性が、子供を抱いたままこちらを見ている。
「もう大丈夫です」
声をかけると。
女性の表情が崩れた。
その場へ座り込み、子供を強く抱きしめる。
「ありがとうございます……本当に……」
何度も頭を下げられた。
俺は。
どう返せばいいのか分からなかった。
「旦那さんも生きています」
それだけ伝える。
女性の顔が上がった。
「本当ですか?」
「仲間が治療しています。早く戻りましょう」
女性は涙を流しながら何度も頷いた。
◇
荷車まで戻ると、エドが商人の腹へ布を当てていた。
「戻りましたか!」
「どう?」
「出血は止めました。ただ、早く治療院へ運んだ方がいいです」
男の意識も戻っていた。
俺たちの後ろに妻と子供がいるのを見ると、目に涙が浮かんだ。
「よかっ……た……」
女性が駆け寄る。
「あなた!」
子供も泣きながら父親の手を握る。
家族3人。
全員、生きている。
俺は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
胸の奥に。
変な感覚があった。
嬉しい。
素直にそう思う。
でも。
同時に。
少しだけ苦しい。
「ミリアを思い出しましたか」
いつの間にか、バルトが隣にいた。
「……少しね」
隠しても仕方ない。
1年前。
俺は。
助けられなかった。
何も。
できなかった。
今日。
3人。
助けた。
もちろん。
俺1人の力ではない。
エドが商人を治療した。
バルトがもう1匹を倒した。
騎士たちも周囲を警戒している。
それでも。
俺も。
ちゃんと。
役に立てた。
「もし1年前の俺が、今くらい強かったらって考える時がある」
俺が言う。
バルトは黙って聞いていた。
「でも、たぶん変わらないんだろうな」
魔王軍。
何百、何千という兵。
そして。
父ですら勝てないと言った魔王。
俺がブレイズボアを1匹倒せる程度になったところで。
あの日。
何が変わった。
きっと。
何も。
変わらない。
「そうでしょうな」
バルトは優しい嘘をつかなかった。
「でも」
続ける。
「今日の3人は、今のルーク様だから救えた」
俺は商人の家族を見る。
それで。
いいのかもしれない。
過去へ戻ることはできない。
だったら。
今。
目の前にいる人を助ける。
そのために。
強くなる。
少しずつ。
その考え方が。
俺の中に馴染み始めていた。
◇
領都へ戻ったのは、夜だった。
商人はすぐに治療院へ運ばれた。
後から聞いた話では、命に別状はないらしい。
屋敷へ戻ると、父がまだ起きていた。
執務室へ呼ばれる。
「報告は聞いた」
「早いね」
「バルトから先に使いを寄越させた」
なるほど。
父は机の前に座ったまま、俺を見る。
「3匹だったそうだな」
「うん」
「1匹を1人で?」
「ほとんどは」
「そうか」
それだけ。
相変わらず褒めるのが下手だ。
「何かないの?」
「何がだ」
「息子が魔物倒して、人助けて帰ってきたんだけど」
「無事に戻った。それで十分だろう」
「もっとこう、よくやった、とか」
父が少し考える。
「よくやった」
「言わせた感じがすごい」
「なら聞くな」
思わず笑った。
父も。
ほんの少しだけ。
笑った。
「ルーク」
「ん?」
「強くなったな」
今度は。
頼んでいない。
その言葉に。
少し。
驚いた。
「まだ父上には勝てないけど」
「当然だ」
「そこは謙遜しないんだ」
「事実だからな」
腹が立つ。
でも。
父の言う通り。
俺は。
まだまだ。
弱い。
世界には。
バルトより強い人間もいる。
父より強い人間も。
そして。
魔族には。
さらに強い奴らがいる。
魔王は。
その頂点。
遠い。
それでも。
以前のように。
その距離を。
絶望するだけではなくなった。
1日。
少しずつ。
近づけばいい。
◇
翌日の午後。
俺はイリスへ、ブレイズボアとの戦いを話した。
剣に風を纏わせたこと。
風で跳んだこと。
最後に圧縮した風を撃ったこと。
全部。
話し終えると。
イリスは。
深いため息をついた。
「何?」
「どこから注意すればいいか考えています」
「勝ったよ?」
「勝てば何をしてもいいわけではありません」
「はい」
怒られる。
予想通り。
でも。
その後。
イリスが少し考える。
「ただ」
俺を見る。
「やはりルーク様は、剣か魔法のどちらかに絞らない方が良さそうですね」
意外だった。
「前は絞った方がいいって言ってなかった?」
「普通ならです」
イリスが言う。
「ですが、あなたは剣を使うために魔法を考え、魔法を使うために剣を使っている」
確かに。
俺の中では。
もう。
別々ではない。
「魔法使いになるつもりも、剣士になるつもりもないから」
「では、何になるつもりです?」
聞かれて。
少し考える。
以前なら。
自由になりたい。
そう答えた。
今も。
変わらない。
ただ。
そのために。
どう戦う。
答え。
もう。
決まっている。
「何でもできる奴」
イリスが。
数秒。
黙った。
「子供みたいな答えですね」
「14歳なんだから子供だろ」
「こういう時だけ年齢を使うのは卑怯ですよ」
笑う。
俺も。
笑った。
でも。
本気だった。
剣を失っても。
戦える。
魔力が尽きても。
戦える。
誰かが傷ついたら。
少しは治せる。
逃げるなら。
逃げられる。
守るなら。
守れる。
どんな状況でも。
選択肢を残す。
それが。
俺の目指す強さだった。
前世では。
選択肢がないと思い込んで。
ずっと我慢した。
今度は。
違う。
この人生では。
できるだけ。
自分で。
選ぶ。
そのために。
剣も。
魔法も。
俺には。
必要だった。




