表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【悲報】また夫が浮気してる模様  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 たとえ離れても


 あなたが管理人ですね。


 リンドグレンがそう言った時、閲覧室の空気が変わった。


 順を追って話す。


 宰相府に着いたのは昼過ぎだった。公聴会に向けた証拠の整理が佳境に入っていて、弾劾手続きの補足条文を確認する必要があった。


 閲覧室に入ると、リンドグレンがいつもの席にいた。でも今日は何かが違った。書類の山がない。法令集も開いていない。机の上が片付いていて、手元には茶が一杯あるだけだった。


 冷めている。湯気が出ていない。ずっと前に淹れて、飲まないままにしている茶だ。


「フェルトハイム嬢」


「こんにちは、リンドグレン様。今日は弾劾手続きの」


「少し、お話があります」


 声が違う。事務的でもなく、あの法律論議の時の熱でもなく。慎重に言葉を選んでいる人の声だ。


「閲覧席ではなく、中庭に出ませんか」


 嫌な予感がした。でも予感に名前をつける前に、もう立ち上がっていた。


 中庭は小さかった。


 宰相府の東棟と西棟の間に挟まれた、四角い石畳の空間。真ん中に使われなくなった噴水がある。水が止まって久しいのか、縁の石に苔が張りついている。石のベンチが二つ向かい合っていた。座る人は少ないのだろう。ベンチの表面に落ち葉が薄く積もっていた。


 リンドグレンが落ち葉を手で払って、座るように示した。自分は向かいのベンチに座った。


 距離がある。閲覧室の窓口より遠い。


「フェルトハイム嬢」


「はい」


「あなたが、管理人ですね」


 風が吹いた。噴水の苔の匂いが一瞬だけ濃くなった。


 心臓が跳ねた。驚いたからではない。


 来た、と思った。


 正直に言えば、予想していた。脅迫状を相談した時に「掲示板で被害者支援を」と言ってしまった。私の文体は掲示板上と対面で大きく変わらない。法知識の偏り方、条文への着目点、「証拠保全」という言い回し。


 気づかれるのは時間の問題だった。


「何のことかと聞くべきですか」


 自分でも驚くほど平坦な声が出た。


「いいえ。その必要はないと思います」


 リンドグレンが私を見ていた。


「文体の類似に気づいたのは、脅迫状のご相談の時です。『掲示板で被害者支援を』とおっしゃった時の言い回しが、互助会の管理人の文章と一致していました。それから確認しました。あなたが宰相府を訪れた日と、管理人の投稿が減る時間帯。あなたが閲覧した法令と、管理人が翌日に引用する条文。付箋を貼った判例と、管理人が参加者に共有する判例」


 全部、合っている。


 私が見落としていた符合を、この人は積み上げていた。法務官の目だ。


「あなたも、ですね」


 今度は私の番だった。


「リンドグレン様。あなたが六法全書ですね」


 リンドグレンの手が膝の上で動いた。組んでいた指が、ほどけた。


「何を根拠に」


「付箋の色です。あなたが法令集に貼る付箋は青・緑・黄色で色分けされています。六法全書さんが掲示板で条文を引用する時も、同じ三つのカテゴリに分けて整理していました。判例は緑、成文法は青、施行規則は黄。一致しすぎています」


 少しの間があった。


「それと、条文番号の引用精度です。法令閲覧室に五年いる法務官と同じ正確さで、深夜に条文を引用できる匿名ユーザーが、この国にそう何人もいるとは思えません」


 リンドグレンが息を吐いた。


 長い息だった。ずっと止めていたものを、ようやく吐き出したような。


「そうですか」


 それだけ言って、噴水の縁を見つめた。苔の上を小さな虫が歩いている。


 沈黙が落ちた。


 中庭は静かだった。遠くから書記官たちの声が微かに聞こえる。風が落ち葉を少しだけ動かした。


「リンドグレン様」


「セオドアです」


「え?」


「セオドア・リンドグレン。それが私の名前です。管理人殿にお伝えするのは、これが初めてですね」


 セオドア。


 名前を知った。六法全書の、名前を。


「リコリスです。フェルトハイム家のリコリス。六法全書さまにお伝えするのも、初めてです」


 中庭の風が、少しだけ暖かかった。緑の月の空気。


 でも、この温かさに浸っている場合ではないことを、二人とも分かっていた。


「リコリスさん」


 名前で呼ばれた。初めて。


「一つ、お伝えしなければならないことがあります」


 セオドアの声が、また慎重になった。法務官の声に戻っていく。


「私は宰相府の法務官です。互助会に匿名で法的助言を提供していたことが公になれば、提出された証拠が『官僚の恣意的な操作によるもの』と疑われる可能性があります」


「分かっています」


 分かっていた。セオドアが六法全書だと確信した時から、この問題には気づいていた。


「公聴会に証拠を持ち込むなら、証拠の中立性を守らなければなりません。法務官が証拠収集に関与していたと知れたら、王太子側に反論の材料を与えることになる」


「はい。だから」


 セオドアが立ち上がった。ベンチの落ち葉が散った。


「距離を置くべきだと考えています。私は互助会から離れます。掲示板への書き込みも止めます。公聴会が終わるまで」


 離れる。


 予想していた言葉だった。合理的だ。正しい。証拠の中立性を守るために、互助会との繋がりを断つ。法務官として、これ以上ないほど正しい判断。


「私も同じことを考えていました」


 嘘ではない。


「支援者は当事者にならない。昔からの信条です。支援者が事案に個人的に関わりすぎると、支援の質が落ちる。判断が鈍る。最悪の場合、支援そのものが攻撃の材料にされる」


「であれば」


「ええ。距離を置きましょう。公聴会が終わるまで」


 簡単に言えた。


 簡単に言えてしまったことが、少し痛い。


 セオドアが頷いた。


「公聴会の準備は互助会のメンバーと進めてください。法的な質問があれば。いえ、それも控えるべきですね」


「そうですね」


「閲覧室の利用は、業務上の範囲であれば問題ありません。法令は誰でも閲覧できますから」


「でも、しばらくは来ないほうがいいと思います。慣れてしまうと」


 言いかけて、止まった。


 何に慣れてしまうのか。閲覧室に通うことか。付箋のついた法令集を受け取ることか。言いかけてやめる人の隣で法律の話をすることか。


「判例の追加調査は、自分で他の手段を探します」


「分かりました」


 セオドアが一歩下がった。中庭のベンチとベンチの距離がさらに開いた。


「リコリスさん。公聴会まで、どうかお気をつけて」


「セオドアさんも」


 初めて名前で呼んだ。名前で呼ぶのは、これが最後かもしれない。公聴会が終わったら、そのあとのことは、まだ考えられない。


 閲覧室に戻った。テーブルの上に法令集が開いたままだった。読みかけの弾劾手続きの条文。栞を挟んでいたはずだ。


 また忘れた。


 栞が、法令集のページに挟まったまま残されている。前回と同じだ。前回は五日後に返してもらった。


 今回は取りに戻らない。


 しばらく来ないと決めたのだから。


 閲覧室を出た。セオドアは窓口にいたが、目を合わせなかった。合わせないことが正しいと、二人とも分かっていた。


 宰相府を出て、通信板を開いた。


 公聴会の準備について書き込んだ。


『皆さまへ。

 公聴会の日程が確定しました。

 実りの月十日。貴族院大広間です。

 証拠の最終整理に入ります。

 エレオノーラさま、ヒルダさん、命令書の写しと政策立案書の原本を、安全な場所に保管してください。

 伯爵夫人さま、持参金流用の告発記録と帳簿の写しを整理してください。

 子爵夫人さま、同上です。

 証拠は複数箇所に分散保管してください。一ヶ所に集中させると、妨害のリスクがあります。

 公聴会まで、あと三週間と少しです。

 ここからが本番です』


 王太子妃からの返信がすぐに来た。


『管理人さま。

 証拠の保管はヒルダが担当しています。

 命令書の写し、政策立案書の原本、密会記録、すべて複数箇所に分散済みです。

 ヒルダは「証拠が消えるのは一ヶ所にまとめるからです」と申しておりました。

 あの子は優秀です。

 ——殿下が最近「貴族院の動きが不穏だ」と側近に漏らしていたそうです。

 「証拠は捏造だと主張する準備をしている」という噂もあります。

 備えましょう』


 王太子側が動き始めている。


 「証拠は捏造だ」。予想された反論だ。


 法的に対抗するには、証拠の収集過程そのものが正当であることを証明する必要がある。


 六法全書さんがいれば、すぐに対策を打てた。


 でも今は、いない。


 自分で考える。あの五年間の知識と、ゲームの知識と、この二ヶ月間で学んだこの国の法律で。


 証拠の正当性を証明するために必要なのは、証拠収集の経緯を示す記録だ。


 互助会の掲示板には、すべての書き込みが魔法的に保全されている。改竄不可能。時系列も正確。


 この掲示板の記録そのものが、証拠収集の透明性を証明する。


 でもそれを提出するには、管理人が名乗り出る必要がある。


 匿名を捨てる。


 その覚悟が必要になるかもしれない。


 今はまだ、考えるだけにしておく。


 個別メッセージの通知が光った。


 セオドアからだった。


『管理人殿。


 距離を置くと決めました。

 掲示板への書き込みも止めます。


 でも一つだけ。


 たとえ離れても、私はあなたの味方です。

 それは法務官としてではなく——


 いえ、これ以上は書くべきではありませんね。


 公聴会が終わるまで、どうかお元気で。


 六法全書』


 通信板を持つ手が震えた。


 脅迫状の時とは違う震えだった。


 「法務官としてではなく」。


 その先を、書かなかった。書くべきではないと、自分で止めた。


 法律の条文番号を深夜に整理する人が、書くべきではないと判断して、消した言葉。


 何を書こうとしたのか。


 分かりたくない。分かってしまったら、支援者は当事者にならないという信条が壊れる。


 返信を打った。


『六法全書さま。

 ありがとうございます。

 味方がいることは、法律と同じくらい心強いです。

 あなたもお元気で』


 それ以上は書けなかった。


 書きたいことはあった。でも書いたら、距離を置く意味がなくなる。


 帰り道の空は曇っていた。緑の月の半ば。空気が湿っている。


 宰相府の閲覧室に、栞が残されている。


 革製の、押し花の、母がくれた栞。


 取りに行かなかった。


 でも。あの人の机の近くに、私の持ち物が一つだけ残っている。


 それは少しだけ、繋がっている気がした。


 家に着いた。靴を脱いで、濡れた上着を掛けて、台所に行った。


 自分でスープを作った。残り物ではなく、最初から。玉ねぎを刻んで、塩を振って、鍋で炒める。前の人生で唯一まともに作れた料理がオニオンスープだった。この世界の玉ねぎは日本のより小さくて、皮が赤い。


 鍋を火にかけて、窓の外を見た。


 六法全書さんの書き込みは、もうない。


 最後の書き込みは昨夜の法的助言のまとめだ。公聴会の手続きフロー、証拠の法的要件、証人の資格要件。全部整理されている。離れる前に、必要なものを全部置いていった。


 この人は、そういう人だ。


 スープが煮えた。


 一人分を椀によそって、テーブルについた。


 熱い。ちゃんと熱い。残り物の冷めたスープではない、自分で作った、熱いスープ。


 玉ねぎが少し焦げていた。火加減を間違えた。でもまあ、食べられる。


 公聴会まで、あと三週間と少し。


 一人で、やる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ