第7話 指一本触れさせない
手紙は男爵家の玄関先に置かれていた。
宛名はない。封蝋もない。粗い茶色の紙を半分に折っただけの、手紙とも呼べないもの。朝、外出しようとした時に、靴箱の横に落ちていた。使用人が見つけて「お嬢様宛のようですが」と差し出した。
開いた。
『お前が管理人だろう。
やめなければ、どうなるか分かっているな。
次はこんなもので済まない』
指先が冷えた。
紙を持つ手が震える。文字は荒い筆跡で、インクの質が悪い。紙の端が少し破れている。急いで書いたか、怒りながら書いたか。
物理的な脅迫状。
掲示板の匿名の脅迫は、六法全書さんが言った通り「追跡困難」だった。でもこれは違う。紙がある。筆跡がある。玄関先に置いたということは、この家を知っているということだ。
使用人が「お嬢様、お顔が真っ青ですが」と言った。
「大丈夫です。何でもないから」
大丈夫じゃない。
部屋に戻って、扉を閉めた。ベッドの端に座った。手紙を膝の上に置いた。
日本にいた頃の記憶がフラッシュバックする。
事務所に怒鳴り込んできた男。「俺の家庭に口を出すな」。受付のガラスを叩いた音。警察を呼んで、調書を取って、でも翌月にはまた来た。
無言電話が二ヶ月続いた時期。夜中の三時に鳴る電話。出ても何も言わない。切っても三分後にまた鳴る。
事務所の郵便受けに入っていた手紙。「お前たちのせいで家庭が壊れた」。あの時から、少しずつ壊れていった。
眠れなくなった。胃を壊した。恋人に「もういい加減にしてくれ」と言われた。友人に「あんたは他人の人生ばっかり」と言われた。
全部失って、三ヶ月後に倒れた。
また同じことをしている。
分かっていた。互助会を立ち上げた時から分かっていた。同じパターンだ。誰かのために動いて、自分を後回しにして、脅迫が来て、それでも止められなくて、最後に壊れる。
分かっていて止められないのが、一番厄介だ。
手紙を裏返した。裏面は白い。何も書かれていない。
選択肢は三つ。
一つ、互助会を閉鎖する。脅迫に屈する。論外だ。
二つ、無視する。前の人生の失敗パターン。無視して、我慢して、倒れる。
三つ。法的に対処する。
六法全書さんの言葉が頭をよぎった。「現実世界に踏み込んできた場合、追跡が可能になります」。
脅迫状を封筒に入れた。自分で用意した封筒。丁寧に、指紋をつけないように。研修で教わった証拠保全の手順が身体に染みついている。
外出用の上着を着た。袖口のレースのほつれは直していない。直す余裕がなかった。
宰相府の法令閲覧室に入った時、自分が泣きそうな顔をしていることに気づいた。
まずい。
リンドグレンが窓口から顔を上げた。今日は書類の山がない。机の上に法令集が一冊だけ開かれていて、赤い書き込みの途中だった。
「フェルトハイム嬢。今日はどの」
私の顔を見て、言葉が止まった。
「何かありましたか」
いつもの事務的な声ではなかった。低い声がさらに低くなっていた。
「法令の閲覧ではなく……相談があるんです」
「相談」
「脅迫状が届きました」
封筒を取り出した。リンドグレンの手が止まった。
「……見せていただけますか」
手袋をした手で封筒を受け取った。法務官の引き出しから手袋を出して嵌めた動作が速かった。証拠保全の手順を知っている人間の動きだ。
脅迫状を読む。リンドグレンの目が細くなった。怒りではない。もっと冷たいもの。
「これは、どこに」
「自宅の玄関先です。今朝」
「差出人の心当たりは」
「ありません。ただ、知人の支援活動を手伝っていて、掲示板で被害者の相談を受ける活動をしていて、その関係で」
リンドグレンの視線が変わった。
何かに気づいた、というほどではない。でも、目の焦点が一瞬だけずれた。何か別のことを考えている目だ。
「掲示板で、被害者支援を」
「はい。匿名の掲示板で、法的な情報を共有したり、証拠の取り方を助言したり」
リンドグレンがゆっくり脅迫状をテーブルに置いた。手袋を外した。
「フェルトハイム嬢」
声が変わった。
事務的でも、学問的でもない。低くて、静かで、でも確かなもの。
「この脅迫状の筆跡は鑑定に回せます。紙質の追跡も可能です。物理的に玄関先に置かれたということは、郵便ではなく直接持ち込まれたということですから、目撃者の聞き取りもできます」
「はい」
「私が法的に対処します」
一拍の間があった。
「あなたには指一本触れさせません」
息が止まった。
リンドグレンが私を見ていた。正面から。窓から差す光がインクの染みのある右手を照らしていて、手袋を外したばかりの指が少し赤かった。
「……それは、法務官としてのご発言ですか」
聞いてしまった。聞くべきではなかったかもしれない。
リンドグレンが少し固まった。
「法務官として、は、正確には越権行為です。正式には治安官に報告するのが手続きです。ただ、筆跡鑑定と紙質追跡は宰相府の法務官にも権限がありますので、そちらで」
言い訳が長い。
この人は動揺すると言葉が多くなるのだ。
「ありがとうございます、リンドグレン様。助かります」
「いえ。当然のことです」
当然。
当然のこと、というには、さっきの声は低すぎた。
法務官として当然。そう思うことにした。
リンドグレンが脅迫状の処理手続きを進めている間、私は閲覧席で通信板を開いた。
六法全書さんに個別メッセージを送る。
『六法全書さま。
物理的な脅迫状が届きました。
自宅の玄関先に。
掲示板での匿名脅迫が、現実に踏み込んできました。
法務官に相談済みです。筆跡鑑定を依頼しました』
返信は一分で来た。
『管理人殿。
予想していた段階に入りました。
掲示板の匿名脅迫から物理的脅迫へのエスカレーションは、加害者が「匿名では効かなかった」と判断した証拠です。
しかし同時に、相手は最大の失策を犯しました。
現実世界に踏み込んだということは、追跡可能になったということです。
筆跡、紙質、配達方法。すべてが証拠です。
法務官に相談されたとのこと。正しい判断です。
怯む必要はありません。
ただし。
無理は、しないでください。
支援者が倒れたら被害者も困ります。
食事を摂って、眠ってください。
それは命令ではなく、お願いです』
三度目の「無理はしないで」。
前の人生では、こういうことを言ってくれる人がいなかった。
いや、いた。恋人が言っていた。「いい加減にしてくれ」。友人が言っていた。「あんたは他人の人生ばっかり」。あれは「無理するな」の別の言い方だったのだと、今なら分かる。
でもあの時の私は聞けなかった。
通信板を閉じた。
リンドグレンが窓口から声をかけてきた。
「フェルトハイム嬢。筆跡鑑定の手配が完了しました。結果は早ければ五日後に出ます。それまでの間、何かあれば、すぐにこちらに来てください。閲覧室の開室時間外でも、宰相府の受付に私の名前を言っていただければ対応します」
それは完全に業務の範疇を超えている。閲覧室の法務官が、個人の脅迫案件に対応する義務はない。
でも、指摘しなかった。
「ありがとうございます」
閲覧室を出た。階段を降りる。今日は転ばなかった。
宰相府の正門を出てから、気づいた。
栞を忘れた。
革製の、押し花が挟まれた栞。母が昔くれたもの。たいした価値はないけれど、ずっと使っている。閲覧席の法令集に挟んだまま、返し忘れた。
取りに戻ろうか。
やめた。リンドグレンが見つけてくれるだろう。次に来た時に受け取ればいい。
帰り道、空が高かった。緑の月に入りかけの空気は少し湿っていて、石畳に水の匂いがする。どこかで洗濯物を干しているのか、石鹸の匂いも混じっている。
五日後。
リンドグレンから宰相府に呼び出された。
「筆跡鑑定の結果が出ました」
法令閲覧室ではなく、小さな応接室だった。テーブルの上に書類が一枚。
「差出人が特定されました。ヴェルトハイム伯爵、元近衛騎士団副団長の、元部下の一人です。現在は騎士団を除隊しています」
伯爵の元部下。
つまり、伯爵の解任に逆恨みした人間だ。
「この人物に対しては、脅迫罪で正式な告発が可能です。告発しますか」
「告発した場合、何が起きますか」
「脅迫罪の罰則は、爵位に応じて罰金から領地没収まで幅があります。この人物は平民ですので、罰金と投獄の可能性があります。ただし」
リンドグレンが少し間を置いた。
「告発すると、あなたが脅迫の対象であることが公的な記録に残ります。匿名で活動されているなら、そのリスクも考慮してください」
法務官として、正確な助言だ。感情ではなく、制度で話してくれている。そのうえで、私の匿名性を気にかけてくれている。
「告発します。匿名性は、必要な時に自分で手放します」
リンドグレンが頷いた。
「手続きを進めます。それと」
引き出しから何かを取り出した。
私の栞だった。
革製の、押し花の。
「お忘れ物です。閲覧席にありました」
「あ、すみません、忘れていました」
「五日間、お預かりしていました」
受け取った。革の表面が少し温かかった。引き出しの中にあったのだろう。
「ありがとうございます。大事なものなので」
「それは、よかったです」
リンドグレンの声が小さかった。窓口業務に慣れていない人の声量に戻っていた。
応接室を出て、帰路につく。
手の中の栞を、なんとなく裏返した。押し花のところに、小さく折り目がついていた。前からあったか、なかったか。分からない。
まあ、いい。戻ってきたんだから。
帰宅して、栞をベッドサイドの引き出しに入れた。いつもは法令集や本に挟みっぱなしにしているのに、今日はなぜか、ちゃんとしまおうと思った。
理由は分からない。
通信板の通知が光った。六法全書さんからの個別メッセージ。
『管理人殿。
差出人が特定されたとのこと。予想通りの結末です。
これで掲示板上の脅迫と物理的な脅迫の繋がりも証明されました。
同一勢力による組織的な妨害であることが示せます。
公聴会の証拠としても有効です。
管理人殿。
あなたは強い人です。
でも、強い人ほど限界に気づくのが遅い。
どうか、ご自分を大事にしてください』
通信板を伏せた。
天井を見る。
「あなたは強い人です」。
前の人生で恋人は「頑固だ」と言った。友人は「自分を犠牲にするのが好きなんでしょ」と言った。上司は「休みなさい」と言った。
「強い」と言われたのは、初めてかもしれない。
強い、のか。
分からない。今朝、脅迫状を見た時、手は震えていた。フラッシュバックが来て、ベッドの端に座り込んだ。泣きそうになった。リンドグレンの前で泣きそうな顔をしていた。
それでも宰相府に行った。証拠を持って。法務官に相談した。告発を決めた。
それを「強い」と呼ぶなら。
布団に入った。
りんごを半分かじった。残りは明日食べる。
六法全書さんに何か返信したい、と思った。「今日は大丈夫でした」とか。「りんごを食べました」とか。
打たなかった。
でも打ちたいと思う回数が増えていることには、もう気づいていた。




