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旅の意味

1.次の階へ

 

ファルマが傷口に薬を塗り込んでくれた。ひりつく痛みが引いていくのを感じながら、左腕を動かしてみる。完全ではないが、戦えないほどでもない。

「もう少しで完全に塞がります」

ファルマが手を離しながら言った。その手が微かに震えていた。彼女も消耗している。

「ありがとう。行けそうだ」

俺たちは立ち上がり、広間の奥へ向かった。アルヴァスたちが消えた後の空間は、嘘のように静かだった。

次の階への階段は、一階ほど崩れていなかった。ただ長く、同じ景色が続く。登り続けながら、ルーシェンが小声で言った。

「ルシエラの試練がどこまで続くのか……見当がつきません」

「あのアルヴァスが試練として出てくるなら、次に何を仕掛けてくるか全く読めないな」

 エリシアが冷静に続けた。

「考えすぎても仕方ありません。来たものに対応するだけです」

その割り切り方には、いつも助けられる。

上の階に出た。一階と似た造りだったが、天井が高く、窓がなかった。代わりに——部屋の中央に、それがあった。

 闇の塊、としか言いようのないものが、空中で揺らめいていた。煙でも炎でもなく、闇そのものが凝固して呼吸しているような、奇妙な密度を持った何かだった。

「……あれは」

ファルマが一歩後退した。

「わからない」

俺は率直に答えた。闇の力そのもののようで違うような、不思議な感覚だ。

「触れない方がいい。次の階段を探そう」

全員が壁際に寄り、中央の塊を避けるように部屋を移動した。塊は動かなかった。ただ揺れている。しかしその存在感が空気を重くしていた。

部屋の奥に階段の入口を見つけ、俺は先頭に立ってそちらへ向かった。

 

2.再会

 

半ばまで進んだ、その時だった。

視界が、落ちた。

音もなく、光もなく。まるで目を閉じたように世界が消えて、気づけば俺は暗闇の中に立っていた。

足元に床の感触はある。しかし石か土かもわからない。ただ広大な暗闇の中に、一人で立っている。

重い気配が滲み出てくるのを感じた。

「逃げなかったな」

あの声だ。

ゆっくりと、前方の闇が濃くなる。そして——ヤギの頭を持つ巨大な影が、暗闇から切り出されるように現れた。

バエル=クラウス。

以前と変わらない。巨大な角、黒い体毛、しかしその目だけは依然として人間のような色を持っていた。悲しみと、長い年月の疲れを滲ませた目。

「……久しぶりだな」

俺は身構えながら言った。

「ああ」

バエルは頷いた。

「生きていたか」

「お前の方こそ」

「俺はもう存在していない」

バエルはあっさりと言った。

「これは残滓のようなものだ。塔がそれを形にしている。そう思えばいい」

その言葉の重さを測りかねながら、俺はバエルを見た。―存在していない―と、こんなにも平然と言える。

「一つ、聞いてもいいか」

バエルが静かに言った。

「聞くだけなら」

「お前は今、なぜ旅をしている」

俺は少し考えてから答えた。

「ルシエラに会うためだ。この塔の上にいるという」

「それはわかっている」

バエルは首を振った。

「そうではなく——それは、本当にお前が望んだことか」

その問いが、妙な引っかかりとともに胸に落ちた。

「……どういう意味だ」

「難しい話ではない」

バエルはゆっくりと俺の周りを歩き始めた。急かすでなく、ただ考える時間を与えるように。

「お前がこの世界に来てから何をしてきたか、思い返してみろ。最初の召喚——あれは仕方ない。お前が望んだことではない。ルーシェンが匿ったのも、その場の状況がそうさせた。それも仕方ない」

「……」

「だが、王都に行ったのは?」

俺は口を開きかけて、止まった。

反論が、思いつかなかった。

「星詠に呼ばれたから、だろう」

バエルが代わりに言った。

「旅に出たのは?」

「……宰相に言われた」

「アルセインの塔へ向かったのは?」

俺の口が、重くなった。

「ルーシェンに言われたからだ」

「そしてこの塔へ来たのは」

「——アルセインに言われたから」

言葉が出た後、しばらく沈黙があった。バエルは何も言わなかった。ただそこに立って、俺が自分で並べた言葉を消化するのを待っていた。

「……それは」

俺は反論を探した。

「この世界の知識がない。何が正解かわからない状態で、知っている人間の言うことに従うのは当然の判断だ」

「そうだな」

バエルはあっさり同意した。

「それは正しい」

同意されたことで、逆に足場を失った気がした。

「ただ」

バエルは続けた。

「それはお前が前の世界でもしていたことではないか」

胸の奥が、冷えた。

「会社員だったな。言われた仕事をこなす。上司の指示に従う。自分の意見は、波風を立てないないよう、必要とされなければ出さない」

「——それの何が悪い」

「悪くはない」

バエルは静かに言った。

「ただ——それとこれが、同じやり方だということだ」

俺は言い返そうとして、言葉を見つけられなかった。

異世界に来て、俺は変わったと思っていた。剣を覚えて、闇の力を得て、戦えるようになった。しかしやっていることの根本は——誰かに呼ばれて、誰かに言われて、そこへ向かっている。

それだけだ。

「……」

「ルシエラに会って、闇の力の本質を知ったとして」

バエルが角を僅かに揺らした。

「その後、どうするつもりだ」

俺は——答えられなかった。

考えたことがなかった。この塔に辿り着くことだけが目標で、その先が何も見えていない。アルセインに言われたことをこなしたら、次はまた誰かに何かを言われるのを待つだけなのか。

「なあ、榊」

バエルの声が、僅かに柔らかくなった。悪魔が人に同情するとしたら、こういう顔をするのかもしれない。

「前の世界に帰ることを、お前は一度でも本気で調べたか」

その言葉が、肺に刺さるように痛んだ。

「……調べる方法が」

「ルーシェンに帰れないと言われた、だろ」

バエルが俺の言葉を遮るように言った。

「お前はそこで諦めた。一つの言葉で、可能性の全てを閉じた」

「それは——」

「前の世界に、友人はいたか」

俺は口を閉じた。

「家族は。繋がりは。大切にしていたものは」

「……いた」

「今でも、気になるか」

俺は考えた。考えようとして——気づいた。あまり考えていない。最初の頃は思っていた。しかし今は。

「……俺は」

「お前は既に、帰る気がないんだろう」

バエルはそれを責めるように言わなかった。ただ事実を確認するように言った。

「前の世界に繋がる気持ちが、薄れている。それを自覚していないだけだ」

「俺はそんなこと——」

「ないか?」

バエルの目が、俺を真っ直ぐに見た。

俺は、否定できなかった。

前の世界が遠くなっていることは、感じていた。ただそれを認めることが、誰かを見捨てることのような気がして、ずっと考えないようにしていた。

「……お前は」

俺は声を絞り出した。

「俺を揺さぶって何がしたい」

「別に何もしたくない」

バエルは言った。

「ただ、お前が自分を見ていないから、見せているだけだ」

静かな言葉だった。悪意のない残酷さ、とでも言うべきものがそこにあった。

 

3.榊の思い

 

しばらく沈黙が続いた。

俺は暗闇の中で、自分がここまで歩いてきた道を思い返した。誰かに引っ張られて、誰かの声に従って。それが悪いことだとは思わなかった。でもバエルの言う通り、その中に俺自身の声がどれだけあったか。

「……一つだけ」

俺はゆっくりと言った。

「一つだけ、確かなことがある」

「言ってみろ」

「俺が持つ闇の力が何なのか——それを知りたい」

バエルは黙った。角が、微かに揺れた。

「それだけか」

「それだけだ」

俺は頷いた。

「帰る気があるかどうかも、この先どうするかも、今は答えが出ない。でも、自分の中にあるこの力の正体を知りたいという気持ちだけは——本当に俺のものだと思う」

「知って、どうする」

「わからない」

俺は正直に言った。

「知ったところでどうしようもないかもしれない。何も変わらないかもしれない」

「ならば意味がないだろう」

「それでも知りたい」

 俺はバエルの目を見た。

「自分が何者かを知りたいのに、理由がいるか」

 バエルは長い沈黙の後、低く息を吐いた。

「それが地獄に繋がるとしても、か」

「ああ、たとえ地獄に繋がったとしても、俺は諦めない」

 その言葉は、思ったより迷いなく出た。

 バエルの表情が、僅かに動いた。笑ったとは言い切れない。しかしその目の奥に、何か——長い時間をかけた感情のようなものが揺れた。

「そうか」

 バエルは静かに言った。

「では一つだけ、忠告しておく」

「何だ」

「答えを見つけたとして——それが望んだものでなかった時、お前が折れないことを願う。悪魔の俺が言うには気持ち悪い言葉だがな」

 そう言って、バエルは口の端を微かに歪めた。それが彼なりの笑みだと、なぜかわかった。

「さらばだ、榊。まだ上がある」

 闇が薄れていく。バエルの輪郭が溶けていく。

 俺は暗闇の中で最後にもう一度その姿を見て——光の中に引き戻された。

 

4.試練が終わって

 

「——榊さん!」

 ファルマの声が耳に飛び込んできた。気づけばファルマとエリシアが俺の目の前に立っており、ファルマは俺の腕を掴んでいた。その顔に隠しきれない焦りがある。

「どうしました、突然立ち止まって——顔色が」

「大丈夫だ」

俺は首を振った。

「ぼうっとしてた」

「ぼうっと……?」

エリシアが眉を上げた。

「一分も経っていませんが、声をかけても反応がなかったので」

一分。あの問答が、外からはそれだけにしか見えなかったのか。

ふと、部屋の中央に目が行った。

あの闇の塊が——消えていた。

「あれ、塊は」

「え?」

ファルマが振り返った。

「……あ、本当だ。いつ消えたんでしょう」

「俺がぼうっとしてた間だろう。この階の試練は終わりだ」

ファルマとエリシアは明らかに腑に落ちていない顔をしていたが、深くは聞かなかった。

後ろからルーシェンが静かに歩み寄ってくる気配がした。

「……大丈夫ですか」

その言葉だけで、何かを察していると伝わった。ルーシェンは詳しくは聞かなかった。ただ、見ていた、という目をしていた。

「大丈夫だ」

俺は答えて、階段へ向かって歩き出した。

歩きながら、ごく小さな声で呟いた。

「……ありがとうな、バエル」

返事はなかった。当然だ。ただ、どこかで聞こえていればいいと思った。もう闇は重くなかった。

階段を登り始める。まだ上がある。

 

 





吸収


バエル・クラウスが用いた闇の力。生命体のエネルギーを奪い、自らの糧とする能力であり、奪った生命力を他者へ分け与えることも可能であった。

抵抗する相手から奪うには相応の消耗を伴うが、抵抗のない者、あるいは吸収を受け入れた者からは、ほとんど対価なく力を引き出すことができた。

人間であった頃、彼はこの力を眠りの中で無意識に行使し、妻と子の命を奪ってしまう。

その後、村から捧げられたいけにえの生命を吸収し続けた結果、彼の姿は次第に変質し、やがてヤギの悪魔を思わせる異形へと堕ちた。

それが力の代償であったのか、それとも彼の罪悪感が形を得たものだったのかは、今となっては分からない。



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