麻痺薬と、歪んだ鏡
第九十二話:麻痺薬と、歪んだ鏡
1 調剤場の仕事
——時間は王都騒乱前まで戻る——
俺とファルマ、ピネイルは調剤場まで移動していた。宰相が手配した建物だった。
普段は薬師の作業場として使われているらしく、棚に瓶が並び、乾燥した薬草のにおいが染み込んでいた。宰相が派遣した薬師と単純作業員が数人いた。全員の頭を確認した。草が生えている者はいなかった。
俺は力仕事を担った。
大鍋を運ぶ。水を汲む。薬草を束から分けて並べる。ファルマとピネイルが精密な作業をする傍で、俺は延々と単純作業を続けた。治療薬の量は膨大だった。王都全体の水に混ぜて薄めて使うことを考えれば当然だったが、それでも腕に疲れが溜まっていった。
「この薬、調剤を間違えるとどうなるんだ」
手を動かしながら聞いた。純粋な好奇心だった。
「それが——」
ファルマは調合の手を止めずに答えた。その目が薬草の分量に向いていた。
「特定の素材が混入すると、治す効果が逆転します。身体を麻痺させてしまいます」
「麻痺、か」
「ケヒッ」
ピネイルが笑った。髪の向こうから、学者的な興奮がにじんでいた。
「せ、正確には精神魔法が過剰に作用するんです。精神的負荷が一気にかかって、身体が動かなくなる。意識はあるのに、身体が言うことを聞かなくなる状態です。ふ、不思議でしょう?」
「不思議という感想が出るのは、あなたが作る側だからですよ」
ファルマがピネイルをちらりと見た。
「ケヒヒヒ……そ、そうかもしれませんね」
俺は薬草の束を分けながら、その情報を頭の隅に置いた。
その時、イヤリングが反応した。微かな振動が耳に伝わる。
『榊さん、聞こえますか』
ルーシェンの声だった。
「聞こえる」
『地下にゴーレムが大量にいた家の調査が終わりました。コアを解析しました——少し面白いことがわかっています。一度集まりましょう』
「今薬の調剤を手伝っている。調剤場に来てくれ」
2 集まった情報
調剤場にルーシェンとエリシアが来た。後からヴィルヘルムと護衛の戦士二人も来た。
ルーシェンがコアの解析結果を話した。
「三つの命令が刻まれていました」
ルーシェンは机の端に手を置きながら言った。
「人々を無差別に襲うこと。大通りや広場に人々が逃げる動きを妨げないこと。そして——神官、聖騎士、天使が現れれば優先的に攻撃すること」
「天使が現れる前提で命令が刻まれている……ということか」
「そうです」
ヴィルヘルムが腕を組んだ。
「あの家だけに限らないだろう。王都全体に同じようなものが隠されているとすれば——」
「一斉に放出されたら王都が地獄になる」
俺はその光景を想像して血の気が引いた。
「ゴーレムだけじゃない。闇の草が花を咲かせれば、人が人を襲い始める。誰も誰かを信じられなくなる」
「その絶望の中で、天使と聖騎士が現れる」
ルーシェンが続けた。その声が、静かだった。
「人々を救う存在として」
「つまり——」
俺は言いかけた。
「フォロードゥすら、神の手先の可能性がある」
ヴィルヘルムが声を上げた。
「ちょっと待て」
その目が俺を見た。そこには信じられないものを見た光があった。
「今なんと言った。悪魔が神の手先だと?」
「状況証拠からはそう見える。絶望を作って、救いを届けて、信仰を深める——全部繋がっている」
「……」
ヴィルヘルムは口を開いたまま、何かを言おうとして言えなかった。腕を組み直した。そしてついに言葉が出なかった。
3 鐘の音
治療薬の大方が完成した頃、突然大きな音が響いた。
「鐘の音……?」
鐘だった。一度ではなく、連続して、間隔を詰めながら鳴り続けていた。
「緊急事態の鐘だ」
ヴィルヘルムが身体に緊張を纏わせて立ち上がった。
調剤場を飛び出した。
「あ、ああ……うぁ……」
近くの路地から、死体ゴーレムがぞろぞろと出てきていた。一体ではなかった。十体、二十体——扉のない空き家の窓から這い出てくるものもいた。
「くそ、これがルーシェンの言っていた死体のゴーレムか!」
俺は剣を抜いた。
ゴーレムを見た瞬間、感じた。以前に山で遭遇したアンデッドとは違った。あれは何かが宿っていた。しかしこれは——命令に従う機械だった。意志がなかった。恐怖もなかった。ただ動いていた。それが逆に、不気味だった。
「私が見たのと同じですね」
ルーシェンが俺の横に立ってゴーレムを見据える。エリシアがルーシェンを護るように前に立った。
「行くぞ」
4 麻痺薬
「た、助けてくれ!」
戦いながら、ゴーレムから逃げてくる市民を護った。
ゴーレムを一体倒すたびに別の方向から来た。ルーシェンが魔法で複数を処理した。エリシアが刃で切り裂き、ヴィルヘルムの戦士たちが剣で対処した。
逃げてきた市民を保護しながら後退した。
その時、見えた。
市民の一人の頭に、草があった。その草が——変わっていった。
ゆっくりだった。最初は茎が伸びた。それから蕾のようなものが現れた。蕾が開いた。濃い赤と紫の花弁が、一枚ずつ広がっていった。闇でできた花が、人間の頭の上で静かに咲いた。
その瞬間、花を持った市民の目が変わった。
その男が横にいた女性に向かって手を伸ばした。
「危ない——!」
俺は叫び、剣の峰で男を打ち据えた。男は気絶したのか倒れたまま動かなくなった。
「えっ……何が……!?」
女性は何が起こったかわかっていない様子だった。
しかし、それだけではなかった。別の市民——まだ花が咲いていないが草がある者が複数いた。いつ咲くかわからない。花が咲いていない者も、怯えた顔で逃げようとしているだけだった。
護りながら、花を持った者を無力化しながら、それでも倒し続けた。だが——体がついてこない。
「いやぁ……死にたくない……」
倒れた市民の一人が、こちらに手を伸ばした。
しかし——ゴーレムが邪魔で届かなかった。
「痛い!いやっ!ぎゃああああ……!」
目の前で食い殺される。
「くそっ、このままでは……!」
「榊さん!」
ファルマが後ろから来て、小瓶を差し出していた。
「これを飲んでください!」
「これは……?」
「飲んでください。今すぐ」
ファルマが飲んでくれと言うなら飲む。俺は受け取って口に入れた。苦かった。ルーシェンやヴィルヘルム、護衛の戦士にも渡して飲ませていた。
「ルーシェンさん」
ファルマがルーシェンに向いた。
「その棚にある治療薬を——風で周囲に撒いてもらえますか。霧のように、できるだけ広く」
ルーシェンが一瞬ファルマを見た。何かを察した顔だった。
「……わかりました。躁風!」
風魔法が発動した。治療薬の入った容器が開き、中身が霧状に広がった。薬草のにおいが空気に満ちた。
市民たちの動きが、一斉に止まった。
花を咲かせていた者も、咲かせていなかった者も、全員が膝をついて倒れた。ゴーレムは関係なく動き続けていたが、倒れたものには襲いかかろうとはしなかった。
俺は戦いながら叫んだ。
「ファルマ、何をした!?」
「治療薬に混ぜると麻痺を起こす素材を加えた、即席の麻痺薬です」
ファルマは少し申し訳なさそうな顔をしながら言った。
「さっき飲んでいただいたのは、それに対抗する解毒ポーションです。榊さんたちが麻痺しないように、先に飲んでもらいました」
俺はゴーレムを切り払いながら、ファルマを見た。
「さっき、間違えたら麻痺すると言っていたな」
「はい。間違えではなく、意図して使いました」
ファルマは頷いた。
「でも——花のない市民まで巻き込んでしまいました。申し訳ありません」
「緊急事態だ。仕方ない」
周囲のゴーレムを片付けた。
「とにかく動けない市民を調剤場に運び入れよう」
麻痺した市民たちを調剤場に運び込んだ。頭に花や草がある者は縄で拘束した。
「麻痺は数時間は効くはずです」
ファルマが汗を拭いながら言った。
5 王城の悪意
「……!」
麻痺した市民を調剤場に収容し終えた時、俺は感じた。
王城の方角——そこからだった。
今まで感じたことのない密度の、悪意があった。フォロードゥの悪意は以前からじわりと感じていた。しかしこれは違った。今まで抑えられていたものが一度に溢れ出したような、圧倒的な量だった。
皮膚が粟立った。
「王城から何か感じる」
俺は王城の方向を見ながらルーシェン達に話す。
「かなり強い——フォロードゥが動き出した可能性がある」
「ついに動きはじめましたか……」
ルーシェンも同じ方向を鋭い視線で見ている。
「ここは俺たちが護る」
ヴィルヘルムが腕を組んで、俺を見た。
「行け」
俺はヴィルヘルムを一度見た。護衛の戦士二人も頷いている。十分ではないかもしれない——しかしこのままここにいても事態は改善しない。行かない理由がなかった。
「頼みます」
6 エドワードとの合流
王城に近づくにつれて、ゴーレムの数が増えた。
市民を麻痺薬で無力化しながら、ゴーレムを切り払いながら進んだ。ルーシェンが炎で範囲を処理した。エリシアが斥力で複数を弾いた。
王城前まで着くと防衛線があった。
「ここを死守しろ!王城を護るんだ!」
「おう!」
エドワードが指揮していた。騎士たちが列を作り、ゴーレムを迎撃していた。怒号が飛んでいた。剣が振られていた。
「エドワード副団長!」
俺は近づいて叫んだ。
エドワードが振り返った。ファルマを見て、一瞬だけ顔が安堵に変わったが、すぐに戻った。
「無事だったか」
エドワードが言った。
「状況は——」
「王城から強い悪意を感じています」
「フォロードゥが正体を現したと思います。王城の中で」
エドワードの表情が固まった。
「くっ、王城が……しかしここを離れるわけには——」
「副団長」
騎士の一人が前に出た。若い騎士だった。その目に、迷いがなかった。
「ここは我々が死守します。フォロードゥを倒してください。倒せば——全部が終わるはずです」
周りの騎士たちが頷いた。
エドワードはしばらく防衛線を見た。それから決意を固めた顔になった。
「わかった、頼んだぞ!」
7 歪んだ鏡
王城の門に向かった。
しかし入り口の前に、人影があった。
「あれは……」
ジョアン第二騎士団団長だった。
最初はなにかわからなかった。人間の輪郭をしていた。しかしそれだけだった。その体から、何かが滲み出ていた。影のようなものが皮膚の表面を這っていた。目が、焦点を保ちながらも、何かに侵食されていた。
その目が、エドワードを見ていた。
「エドワードォ……」
声が変だった。言葉は言葉の形をしていたが、抑揚が崩れていた。人間が感情を制御できなくなった時の、剥き出しの声だった。
「ヒヒ……副……副団長が……ああ、副団長が来た」
ジョアンの口が動いた。言葉より先に、笑いが漏れた。いや笑おうとしているように見えた。しかし笑みの形を正確に作れなかった。
「ずっと……ずっと、おかしかった。団長、と呼ばれる……私より……強いから。騎士たちが私の命令より……お前の言葉に従うから」
エドワードは剣に手をかけながら、動かなかった。
「ジョアン団長——」
「騎士団長は……私だ。私なんだ!」
ジョアンの声が上がった。一瞬、普通の怒りの声になった。しかしすぐに崩れた。
「私が……団長なのに。お前は、副団長なのに。なぜ……なぜ……なぜだ……同じなのに……同じなのに違う……」
影がジョアンの体を這い上がってきた。肩まで来ていた。
「それが……これをつけたら……変わると……」
ジョアンは胸元に手を当てた。ネックレスがあった。黒い石が下がっていた。
「これをつければ……お前に勝てると……」
「ジョアン団長、そのネックレスを外してください」
俺が呼びかける。
ジョアンの目が一瞬俺に向いた。
「お前は……お前は関係、ない」
ジョアンの口から言葉が流れ出した。
「私には……ずっと……ずっと……エドワード……お前だけが……」
剣を抜いた。
その動作が、正確だった。長年剣を握ってきた者の動作だった。しかし目が正常でなかった。怒りと、妬みと、そして恐れが混ざった目だった。
俺は剣を構えながら、ジョアンを見ていた。
この人間は弱いわけではなかった。しかし弱い部分を、正確に、丁寧に突かれていた。それがジョアンをここまで変えた。
それがフォロードゥのやり方だと、改めて思った。
「榊……」
エドワードは俺の前に出る。
「ここは俺が抑える。隙を見て王城へ行け」
「……わかりました」
エドワードが剣を構える。その背中には哀しみが見て取れた。
「エドワード……エドワー……エド……」
「エドワードォォォォ!!」
ジョアンが踏み込んできた。
それは、かつて自分たちが見ていた姿の——歪んだ鏡だった。
麻痺薬
フォロードゥが仕掛けた水は、精神魔法の触媒を用いている。服用者の精神に「体調不良である」という暗示を与え、実際に様々な不調を引き起こす。
これに対し、治療薬にはピネイルの精神魔法を応用し、「異常はない」という暗示を重ねることで症状を打ち消す。
この治療薬に特定の素材を加えると、精神に過剰な負荷を与え、身体への命令が正常に伝達されなくなる。結果として、意識はあるまま身体が動かなくなる“擬似的な麻痺状態”を引き起こす。
実際の毒による麻痺とは異なり肉体への損傷は少ないが、回復後も強い精神的疲労が残る副作用がある。




