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戯言。

 「……どうやって入ってきたんだ」

 俺の声は震えていた。

 放課後とはいえ、校門には警備員がいるし、生徒以外が校舎内をうろつくことなど不可能なはずだ。

 何より、一昨日の公園で俺はきっぱりと部外者立ち入り禁止だと伝えたはずだ。

 それなのに、彼女は制服姿の俺の前に、平然と私服で立っている。

「どうやってって? んー……愛の力、かな?」

 結愛は悪戯っぽく舌を出し、その場でくるりと回ってみせた。

「警備員さんにはね、『弟が忘れ物をして困ってるんです』って言ったら、すぐ通してくれたよ。私、女優の才能あるかも」

「……ふざけるな」

 俺の中で、何かが切れる音がした。

 篠原さんが休んで、俺が自己嫌悪で押し潰されそうになっているこのタイミングで。

 彼女は何一つ悪びれることなく、ルールを破り、俺の聖域を土足で踏み荒らしている。

「なんで真面目に答えないんだよ! 学校は遊び場じゃないんだぞ!」

 俺は机を叩いて立ち上がった。

 夕暮れの教室に、俺の怒鳴り声が木霊する。

「篠原さんが来なくなったのも、お前が原因かもしれないのに……なんで平気な顔してここに来れるんだ! おかしいだろ、そんなの!」

 溜め込んでいた鬱憤が爆発した。

 俺は彼女を睨みつけ、肩で息をする。

「帰れよ! 二度と学校に来るな!」


 一瞬の沈黙。

 結愛から笑顔が消えた。

 いや、消えたという生易しいものではない。

 電源が落ちた機械のように、表情筋が完全に機能を停止したのだ。

 彼女は能面のような顔で、じっと俺を見つめ返した。

 そして、底冷えするような低い声で言った。

 「……は?」

 その一文字に込められた威圧感に、俺は息を呑んだ。

「うるさいなぁ。せっかく迎えに来てあげたのに」

 彼女は面倒くさそうに溜息をつき、髪を耳にかけた。その仕草は怒りが霧散してしまうほどに魅惑的に感じた。

「ていうかさ、何様のつもり?」

「え……」

「八つ当たりしてんじゃねーよ。みっともない」

 耳を疑った。

 いつも甘く可愛らしい声しか出さない彼女の口から、ヤンキーのような荒っぽい言葉が飛び出したからだ。

「篠原さん? あの子が休んだのが私のせい? 」

「それは……お前が公園で……」

「挨拶しただけだって言ったよね? 勝手にビビって逃げたのはあっちでしょ。それとも何、私が超能力か何かであの子を休ませたとでも言いたいの?」

 彼女は一歩、俺に近づく。

 その瞳は、ゴミを見るような冷たさで俺を射抜いている。

「自分の女が根性なしだったからって、私に喚き散らさないでよ。……あーあ、幻滅。湊くんって、もっと賢いと思ってたのに」

「……っ」

「ルール? 禁止? そんなのどうでもいいんだよ。私が湊くんに会いたいと思った。だから来た。……私の行動原理はそれだけ。文句あるなら警備員に言いなよ。通したの、あの人だし」

 理屈が通じない。

 彼女の中では「自分がしたいこと」こそが唯一の正義であり、それに反論する俺こそが悪なのだ。

「大体さぁ、一人でメソメソ泣いてたくせに、助けに来たお姉ちゃんにその態度はないんじゃない?」

 彼女の顔が目前に迫る。

「……調子乗んないでよね、弟の分際で」

 その瞳の奥には、愛情など欠片もない、純粋な支配欲と暴力性だけが渦巻いていた。


 俺は動けなかった。

 怒りよりも先に、本能的な恐怖が体を支配していた。

 目の前にいるのは、俺が知っている「甘えん坊の姉」ではない。

 俺の理解を超えた、話の通じない怪物だ。

 違和感が、俺の思考回路をショートさせていた。

 俺が言葉を失って立ち尽くしていると、結愛の表情がふっと緩んだ。

 嵐が過ぎ去ったかのように、いつもの穏やかな微笑みが戻る。

「……なーんてね。怖かった? ごめんね」

 彼女は硬直する俺の手を取り、指を絡ませた。

「でも、湊くんが悪いんだよ? お姉ちゃんの愛を拒絶するから」

 彼女の手は温かい。だが、今の俺にはそれが、焼きごてを当てられているような熱さに感じられた。

「わかったら帰ろう? 今日は特別に、私の手を繋いだまま帰っていいから」

「……」

「返事は?」

 彼女が小首を傾げる。

 その瞳の奥に、さっきの冷たい光がチラついているのを見て、俺の喉がひきつった。

 逆らえない。

 ここで拒否すれば、またあの「冷徹な暴力」が牙を剥く。

 そして今度こそ、俺の精神を食い破るだろう。

「……うん。帰ろう」

 俺は搾り出すように答えた。

「よろしい」

 結愛は満足そうに俺の手を引いた。

 夕闇に沈む廊下を、俺たちは歩く。

 俺の足取りは重く、まるで処刑台へと引かれていく囚人のようだった。

 赤い紐で結ばれるはずだったパートナーはもういない。

 代わりに俺を繋いでいるのは、絶対的な支配者が握る、見えない首輪だった。

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