結ばれない紐
翌朝、教室に入った俺の視線は、無意識のうちに前の席へと吸い寄せられた。
空席だった。
鞄も掛かっていない。机の上には朝の光が反射しているだけだ。
チャイムが鳴り、担任が入ってくる。
「えー、今日は篠原が体調不良で欠席だ」
事務的な連絡。
教室のあちこちから、ざわめきが起こった。
「え、篠原さんが? 珍しいね」
「昨日まで元気だったのにねー。風邪かな?」
「季節の変わり目だしな」
「お前誰か休む時それしか言わんやん。ま、明日は来るっしょ」
クラスメイトたちの声は明るく、心配の色はあるものの、そこに深刻さは微塵もない。
彼らにとって、これはありふれた日常の一コマに過ぎないのだ。
篠原さんは優等生だ。サボるわけがないし、一日休んで元気になれば戻ってくる。そう信じている。
けれど、俺は知っている。
彼女が休んだ本当の理由を。
(俺のせいだ……)
昨日の公園での光景がフラッシュバックする。
怯えきった彼女の顔。震える体。逃げ出す後ろ姿。
体調不良なんかじゃない。恐怖で学校に来られなくなったんだ。
俺が放課後追いかけなければ。
俺が無理やり話を聞こうとしなければ。
いや、そもそも俺が彼女に関わろうとしなければ。
結愛の言った通りだ。俺が彼女を傷つけた。
クラスメイトの能天気な会話が、俺を責めるノイズのように耳に突き刺さる。
俺は机に突っ伏し、押し寄せる自己嫌悪の波にただ溺れていた。
午後の体育の時間。体育祭に向けた全体練習が行われた。
グラウンドは熱気に包まれている。
騎馬戦の練習をする男子たちの怒号、リレーのバトンパスを確認する女子たちの声。
「よし、次は二人三脚のパート練習だ! ペアのやつらは集まれー!」
委員長の声が響く。
俺は反射的に、ジャージのポケットから赤い紐を取り出した。
昨日、篠原さんが用意してくれた紐だ。
「湊くん、ほら行こうぜ!」
近くにいた健太に声をかけられ、俺は顔を上げた。
「……ああ」
俺は紐を手に持ち、いつもの集合場所へと向かう。
脳裏には、昨日の楽しかった練習風景が浮かんでいた。
俺は笑顔で紐を握りしめ、パートナーの姿を探した。
「おーい、篠原さ……」
名前を呼ぼうとして、俺は凍りついた。
いない。
そこには誰もいない。
芝生の上には、他のペアたちが楽しそうに足を結び合っている姿があるだけだ。
俺の隣だけが、ぽっかりと空いている。
「あ、そっか。湊、今日篠原さん休みか」
通りがかったクラスメイトが気まずそうに言った。
「災難だなー。ま、明日練習すればいいんじゃね?」
「……そうだな」
俺は乾いた笑みを浮かべ、力なく頷いた。
手の中にある赤い紐を見る。
ついさっきまで絆の象徴に見えていたそれは、今では行き場を失った哀れな繊維の塊にしか見えなかった。
俺は何のためにこれを持っているんだろう。
一人で立ち尽くす俺の姿は、周囲の喧騒から完全に浮いていた。
その孤独が、俺の罪をより一層重く感じさせた。
放課後になっても、篠原さんが現れるはずもなかった。
他の生徒たちが居残って練習を続ける中、俺は一人、教室に戻った。
誰かと話す気力も、練習に参加する資格もない気がしたからだ。
夕暮れの教室。
俺は篠原さんの机の前に立った。
『また明日ね』
彼女の笑顔と声が蘇る。
あれが最後だったのかもしれない。
「……ごめん」
誰もいない教室で、俺は小さく謝った。
ポケットの中の赤い紐を握りしめる。
もう二度と、この紐が俺と彼女の足を繋ぐことはないのかもしれない。
そんな予感が、どす黒い確信となって俺の胸を締め付けた。
「湊くん?」
不意に、背後から声をかけられた。
篠原さんが来た、と思い振り返ると、教室の入り口に結愛が立っていた。
いつ学校に入ってきたのか。
いや、そんなことはどうでもよかった。
彼女は制服姿の俺と、俺が見つめていた空席を交互に見て、悲しげに眉を下げた。
「……やっぱり、来てなかったんだ」
彼女はゆっくりと俺に歩み寄る。
「可哀想な湊くん。一人ぼっちで待ってたんだね」
彼女の声は甘く、そして残酷なほど優しかった。
自己嫌悪でボロボロになった俺の心には、その毒のような優しさを拒絶するバリアなど、もう残っていなかった。




