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魔女の詭弁

 タッタッタッ……。

 不規則な足音が遠ざかっていく。

 篠原さんは一度も振り返らなかった。

 まるで化け物から逃げるように、公園の出口へと走り去り、その姿はすぐに街角の向こうへと消えた。

 あとに残されたのは夕暮れの公園と、俺と結愛だけ。

 俺はしばらくの間、彼女が消えた方向を呆然と見つめていた。

 思考が追いつかない。

 さっきまで、あんなにいい雰囲気だったのに。

 誤解が解けて、これからだったのに。

 全部、一瞬で壊された。

 「あーあ。行っちゃったね」

 静寂を破ったのは、気の抜けるような、それでいてどこか楽しげな結愛の声だった。

 その声が、俺の意識を無理やり現実へと引き戻した。

 俺はバッと振り返り、目の前の義姉を睨みつけた。

 彼女の手には、まだあの蜂蜜レモンの瓶が握られている。

「……何したんだよ」

 腹の底から、どす黒い怒りが湧き上がってきた。

「何したって? 挨拶しただけだよ?」

「ふざけるな! あんな大声出して……篠原さん、怯えてたじゃないか! お前のせいで彼女は……!」

 俺は彼女に詰め寄った。

 初めてだった。

 結愛に対して、ここまで明確な敵意と怒りをぶつけるのは。

 だが、結愛は怯むどころか、冷ややかな瞳で俺を見上げ、溜息をついた。

「湊くん。怒る相手、間違ってない?」

「……は?」

「だってそうでしょ? あの子、逃げたんだよ」

 結愛は淡々と言葉を紡ぎ始めた。

「湊くんはさ、あの子のために必死になって、誤解解こうとして、私のことも突き放そうとしたよね? なのにあの子、どうした? 私がちょっと大きな声出しただけで、湊くんを置いて一目散に逃げたじゃない」

 彼女の言葉が、鋭い針のように俺の胸に刺さる。

 事実は事実だ。篠原さんは俺を置いて逃げた。

「本当に湊くんのことが好きならさ、そこで湊くんの手を引くなり、私に言い返すなりするはずじゃない? それをしないで、自分だけ助かろうとした。……その程度の想いだったってことだよ」

「そ、それは……お前が怖がらせたから……」

「怖いから逃げるの? 好きな人より自分の安全が大事なの? ……薄情だなぁ」

 結愛は嘲笑うように鼻を鳴らす。

「それに比べて、私はどう?」

 彼女は一歩、俺に近づいた。

「私は逃げないよ。湊くんがどんなに私を邪険にしても、LINEを無視しても、嘘をついて隠れてコソコソしてても……私はこうして、湊くんのために蜂蜜レモンを作って、ここまで会いに来た」

 彼女は瓶を俺の胸に押し付けた。

 ガラス越しに伝わる冷たさと重みが、俺の罪悪感を刺激する。

「ねえ湊くん。客観的に見てどっちが酷い? 家族に嘘をついて、心配して来たお姉ちゃんを『部外者』扱いして追い返そうとした湊くんと、それを許して追いかけてきた私。……どっち?」

「それは……」

「それにさ、あの子を守ろうとして私を悪者にしたけど、結局あの子は湊くんを見捨てた。……ねえ、今ここに残って、湊くんのそばにいるのは誰?」

 彼女の論理は無茶苦茶だ。

 元凶はすべて彼女にある。

 だが、俺の頭の中で、彼女の言葉が奇妙な説得力を持ち始めていた。

 篠原さんは逃げた。俺は見捨てられた。

 結愛は残った。どんなに俺が拒絶しても、彼女だけはここにいる。

「家族ってね、都合良い時だけ一緒にいるもんじゃないの。湊くんが酷いことしても、間違ったことしても、許して受け入れるのが家族なの」

 結愛の手が、俺の頬に伸びる。

「あの子は他人だから逃げた。私は家族だから逃げない。……簡単なことじゃない?」

 彼女の指先が、強張った俺の頬を優しく撫でる。

 俺の中にあった怒りの炎が、急速に冷めていくのを感じた。

 代わりに湧き上がってきたのは、底知れない徒労感と、自分への失望だった。

 俺は篠原さんを守れなかったどころか、結愛の言う通り、嘘をついて彼女を傷つけた加害者なのかもしれない。

 思考が泥沼にはまっていく。


 「……俺が、悪かったのかな」

 俺が掠れた声で呟くと、結愛は聖母のような微笑みを浮かべた。

「ううん、悪くないよ。湊くんはちょっと、悪い女に騙されちゃっただけ」

 彼女は俺の背中に腕を回し、ゆっくりと抱きしめた。

「可哀想な湊くん。一人ぼっちにされて、傷ついて……。でも大丈夫。お姉ちゃんがいるから」

 甘いバニラの香りが鼻孔を満たす。

 篠原さんの柑橘系の香りは、もうどこにもない。

 俺の体から力が抜けていく。

 抵抗する気力が、彼女の正論という名の詭弁によって削ぎ落とされてしまった。

「ほら、帰ろう? 今日は湊くんの好きなハンバーグ作るから。……もう、外の世界なんて見なくていいんだよ」

 彼女は俺の手を取り、恋人繋ぎをして歩き出した。

 俺はその手を振り払えなかった。

 夕暮れの公園に、二人の長い影が伸びる。

 篠原さんが逃げた出口とは逆方向へ、俺たちは歩いていく。

 それは、俺が普通の世界から背を向け、彼女の支配する閉じた世界へと完全に堕ちていくことを意味していた。

 俺の手を握る彼女の掌は熱く、そして痛いほど強かった。

 まるで、二度と逃がさないという鎖のように。

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