綾子編第5話〜変化〜
前話と同じく、対象年齢不相応な描写はしないように気をつけましたので(暴力シーン、あんな事やこんな事シーン)大丈夫かと思います。
私は何故泣いたのだろう。
あんな事があったのに、慶ちゃんはいつも通り接してくれた。その喜びから?
それは違う。
私が涙を流した理由。それは慶ちゃんが口にした、触ってもいいですか。この一言。
その一言に、私は涙を流してしまった。
そしてキスをしてしまった。
私は誰かに慰めてほしかった。
トラウマが原因で錯乱した今日。
忘れたい過去を思い出した今日。
自分からキスをしたのはこれで二回目。
いくら相手が慶ちゃんだからと言っても、男性恐怖症の私は、体の震えが止まらなかった。
そして嬉しいような、恥ずかしいような不思議な気持ち。その一面、さっちゃんに対しての罪悪感も感じる。
でも今はそんな事どうでもよかった。私と慶ちゃんがキスをしている。その事実さえあれば、全てがどうでもよくなった。
やっぱり私は性格の悪い女…。
こんな女、慶ちゃんも愛想をつかしたに決まっている。
慶ちゃんを拒絶し、二人に迷惑をかけ、いつも通り接してくれた慶ちゃんに我が儘を言い、さっちゃんの親でありながら、慶ちゃんにキスをした…。
でも…。
私は最低な女でいい…。
だからお願い…。
もう少しだけこのままでいさせて。
…。
……。
………。
親、友人、警察…。
誰も私を助けてくれなかった。
私は全てを捨てた。
「ちょっと外に行ってくる」
「おい綾子。今何時だと思って−−」
剛さんがお父さんの肩を叩き、口を止めさせる。それを確認した私は、家を出た。
バタン
「親父さん。今の綾子に何を言っても無駄です…」
「しかし…」
「自殺をしなかっただけでも良し。そう思うしかありません…」
「……」
あの日から半年が経ち、私は鬼小町と呼ばれるようになった。
私を襲った先輩達は少年院へ行き、私に悪口を言っていた女子も、今は何も言ってこない。
一人ぼっち。
これが私の望んでいた結果だった。
でもそれはただのまやかし。こじつけ。自分でもそう分かっていた。
どんなに喧嘩が強くても。どんなに上り詰めても。
何も見えてこなかった…。
沸き上がる孤独感と虚無感。
自分の未来が見えないまま、私は二年生になった。
「今日から君達の担任になった伊勢敏雄です。これから一年間よろしく」
不思議な雰囲気を持った人だった。
整った顔付きと、縁無し眼鏡。見た目からは冷静沈着な印象を受ける。
だが彼は、明るく時に熱血で、怒る時は本気で怒る。それはどの生徒に対してでも、同じような怒り方ではなく、その生徒一人一人に適した怒り方をする。と、冷静と情熱を上手く使い分けているような、そんな人だった。
見た目とのギャップ、豊富なボキャブラリ。と、生徒にも絶大な人気があった。
彼の存在を一言で言うなら、保健室の教師。それが一番分かり易く、しっくりくる言葉だろう。
そして私も他の生徒同様、その人物に興味が沸く。
彼も私に対して積極的に話し掛けてくれた。
男性恐怖症の症状が酷かった当時、唯一話せる男性だった。
話すと言っても、授業をサボるな。などの言い争いばかり。欝陶しくて仕方が無い存在だった。
そんな私が何故、彼に心を開くようになったのか。
それは、敏雄さんの意外な一言からだった。
「綾子、授業くらい出たらどうだい?」
「あぁ?」
授業が終わった放課後、私は屋上から校庭を眺めていた。と言っても授業には出なかったのだが。そんな私の所に、彼はふらふらとやってきた。
因みにこの時の私は、今からはとても考えられないような口調だった。
そしてその人物は私の一歩一歩私に近寄ってくる。
そして私の隣に来た。
「なぁ、綾子…」
「だ、だから何だよ…!」
男性恐怖症の私は当然、彼の動向に細心の注意を払った。だが彼は私が男性恐怖症だという事を知っている。
彼の動向に細心の注意を払ったのも、念のためだった。
「もうそんな格好を止めたりしないのかな?」
「……」
「町の不良達に、男性恐怖症の事が知れ渡ったら。そう思うと不安でね…」
「そんなのバレなきゃいいだけの話。触られさえしなきゃ大丈夫なんだから」
「でも、もし触られたらどうなるんだい? 下手したらパニクるんだろう?」
「……」
彼の言った事は事実なので、私は何も言えなかった。
「綾子…」
「なんだよ…」
図星をさされ、少し落ち込む私。
そんな私に対して敏雄さんが放った一言。
その一言に、私は衝撃を受けた。
「触ってもいいかな?」
彼は私の目をじっと見て、言った。
最初は冗談かと思ったのだが、彼の顔は至って真面目だった。
言葉を失う私。そんな私に、彼は再び予想外な事を言った。
「すまない…」
彼はそのまま話を続けた。
「綾子と彼女達の事は去年から気にかけていたのだが…。あの日はどうしても外せない用事が有ったんだ…。まさかそんな日に限って…。本当にすまなかった」
私の事を気にかけていた?
あの日はどうしても外せない用事が有った?
私は混乱し、何も考える事が出来なくなった。
「何故私が綾子の事を気に掛けてたの? って顔をしてるね?」
敏雄さんは少し顔を緩めてから言った。
そして再び真面目な顔をする。
「それは私と綾子がそっくりだからさ」
「そっくり…?」
そっくり。私と敏雄さんのどこが似ているのだろうか。
私はこの時、久しぶりに他人に興味を持った。
しかし、彼がもし詰まらない事を言ったら、相手にしない事にしよう。とも思った。
しかし、そのような考えは良い意味で覆された。
「天才が味わう孤独感…」
胸を、脳内をえぐるような一言だった。
「自分は何もしていないのに他人から妬まれる。他人からの優しさも、何か裏があるんじゃないか。そう思えて仕方ない。私もそうだった」
まさにその通りだった。
「私も今の綾子同様、全てがどうでもよくなった時期があった。綾子は私そっくりだ」
「ち…違う! 私はお前とは違う!」
私は言ってその場から逃げようとした。
それはこれ以上、自分の心を読まれるのが嫌だったから。
しかし、彼の手がそれを許さなかった。
そして彼は私にとどめの一言を放つ。
「強くなろう綾子。私と一緒に」
あの日以来初めて、触れることができた男性だった。
…。
……。
………。
「ごめんなさい…」
唇が触れ合い続けてどれだけの時間が経ったのだろうか。私は慶ちゃんから離れ、謝った。
慶ちゃんは仰向けになったまま、動かない。
「ごめんね慶ちゃん…。今の事はもう忘れて頂戴ね…」
何かの間違い。慶ちゃんには私の行為を、そう解釈してほしかった。
そして慶ちゃんが起き上がった。 慶ちゃんの顔は真剣そのものだった。
そして−−。
「俺も綾子さんが大好きです」
心臓が締め付けられたと同時に、手汗が滲み出た。
慶ちゃんが私を好き。今の言葉があれば、もう他に何も要らなかった。
しかし、その『好き』は、さっちゃんに対する『好き』とは違うのだろう。以前、私がさっちゃんに言った事そのまんまだ。
私の予想通り慶ちゃんは、でも。と話を続ける。私は全神経を耳に集中させ、慶ちゃんが次に発する言葉を待つ。
「でもその大好きは−−」
ガタンッ
と、俺が言おうとした所で部屋の外から音がした。
俺は慌ててドアを見る。そのドアは、少しだけ開いていた。
それは十中八九、里美だろう。
「すまん里美…」
とりあえずドアに向かって謝った。
ガチャッ
「……」
ドアが開き、部屋に入って来たのはやはり里美だった。
お気に入りのパジャマ姿をして、一歩一歩近付いてくる。
しかし予想外にも里美は、怒ったような表情ではなく、どこか淋しそうな顔をしていた。
里美が歩みを止める。
続けて俺達を見、口を開いた。
「ごめん…。見るつもりじゃなかったんだけど…」
謝った…?
状況が状況なだけに、この予想外な言葉を放った今の里美がとても怖い。
思い切り怒り狂ってくれた方が有り難いと、そう思った。
「慶二…」
「はい…?」
俺は恐る恐る里美に返事をした。
滴る冷や汗、滲み出る手汗、止まらない心臓の鼓動。
しかし、里美は再びおれの予想を覆した。
「私は今夜二人に何があっても見ない、知らない…」
「えっ…?」
里美の予想外の発言の意味が分からず、俺は戸惑ってしまう。
そんな俺の様子を見た里美は、続けてこう言った。
「だから好きにしていいわよ」
そしてそこで、俺は里美の言い放った言葉の意味を理解する。
それは里美にとって、屈辱的な内容を意味していた。
「おやすみなさい…」
バタン
里美はそのまま、一度も振り返らずに部屋を出る。
俺は何も言えずに、そんな里美をただ眺めていたが、ドアが閉まる音を聞いて、ハッと我に帰る。
「里美…!」
里美を追う為、言って立ち上がろうとした。
しかし、そんな俺の手を、綾子さんは掴んで離さなかった。
「綾子さん、俺は里美を−−」
「ごめんなさい…」
綾子さんは悲しい目をして俺に謝り、そしてこう言った。
「今夜だけでいい…。お願い…」
悔しい。悲しい。
慶二がお母さんとキスをした事。二人の一夜を許してしまった事。
そして何よりお母さんの傷を癒やせられない自分自身が悔しい。
慶二が他の女性と寝るのはとても嫌。
でも、不運な事に私達親子は、同じ男性を好きになってしまった。
お母さんだって一人の女。こんな時は好きな人、慶二の力が必要だと思う。
だから私は二人に言った。何も見ない、何も知らない、と。
これは、何をやっても不器用にしか出来ない私が、お母さんに唯一してあげられる事。
これが私に出来る精一杯。
でも…。
とっても悔しいよ…。
不器用な私は、慶二を癒す事ができる存在じゃないかもしれない。
性格の悪い私は、慶二に沢山迷惑をかけるかもしれない。
空手以外何も出来ない私は、慶二に何もしてあげられない存在かもしれない。
でも、私が一番あなたを好きな自信がある。
だから次は私を抱いて…。
−−その日私は、ヘッドフォンで音楽を聞きながら眠りについた。