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第七話 犬神の逆鱗

 平和とは天秤が釣り合った均衡状態である。

 それはふとした拍子に崩れる脆いものでもある。

 ……心の隅では理解していたよ。

 今の状態がいつまでも続くとは限らない。

 その真実を痛感させる光景が目の前にある。

 それは――父上の土下座であった。

「……父上?」

 僕は目の前の場面が理解出来ず、途方に暮れる。

 夕刻。

 帰宅した僕に待ち受けていたのは始めて見る沈痛な面持ちの母上だった。

「お父様がお待ちです」

 母上は言葉少なくそう告げるとゆっくりした歩調で僕を先導する。

 そして奥の間に辿り着き、母上が襖を閉めたと同時に父上はただ一言「済まぬ」と伝えて額を畳に擦り付けた。

 何が何だか分からない。

 僕は何もしていないはずだ。

 なのに何故父上が頭を下げる?

 駄目だ、混乱する。

 全然状況が掴めない。

 僕がそう顔を強張らせていると父上の呻き声が漏れ出す。

「橘を……捕まえることは出来ない」

「え?」

 一瞬誰を言っているのか分からなかったけど。

「お前の奪われた長所を取り返すことはもう出来ないんだ」

 ……ああ、なるほど。

 そんなことがあったよなぁ。

 ここでようやく橘の顔を思い出した。

 脳が奴のことを拒否していたのと、三月娘との絆の素晴らしさの二つによって忘れていた。

「橘を捕まえることは出来ない」

 気にしなくて良いよ。

 と、僕はそう答えたかったのだけど、父上から発する空気がそれを許さない。

 僕としては奪われた長所が返ってこないことよりも、そのことで父上が頭を下げている事実の方が嫌だった。

 なので父上の懺悔を辞めさせたかったけどそれを最後まで聞いた方が父上のためになると考え、その言葉を飲み込んだ。

「橘竜一郎のバックには巨大な黒幕がいる」

「それは橘宗家でなくて?」

 橘家は軍事関係に一定の影響力を持っている。

 それゆえに警察も橘家の長男を捕まえることが出来ないのかと推測するが。

「違う」

 父上は否定する。

「橘もある程度警察に干渉出来る。しかし、通常の犯罪ならともかく、魔法使い関係に橘が入る隙などない」

 父上は犯罪魔法使いを捉える警察官を務めてきた。

 警察の内部を熟知しているに加え、この場面で嘘を付く必要はないので真実と見て良いだろう。

「では、誰が橘の逮捕を阻害しているのでしょうか」

 僕の問いに父上は首を振る。

「申し訳ないがそれは言えん」

「何故でしょうか?」

「言えんものは言えんのだ」

 僕の催促を父上は頑なに拒否する。

「もし話せば俺はおろか、細君やお前まで迷惑をかけてしまう」

「……」

 僕は父上の言葉の意味を考える。

 魔法使い関係に強大な影響力を持ち、あの父上ですら怖気付いてしまう相手。

 パッと思い浮かぶのは日本の魔法使い関係を牛耳っている一族。

「父上、もしかしてゆめ――」

「いってはならん!」

 口に仕掛けた僕だが、鋭い言葉で遮られた。

「誰が黒幕なのか。その議題をこれ以上掘り下げてはならん」

 よほど黒幕が恐ろしいらしい。

 けど、仕方ないか。

 本心を言えば好奇心がうずくが、それでも父上に迷惑をかけてまで聞こうとは思わない。

 だから僕はここで一礼をして去ろうと思ったのだけど。

「済まん……お前の力どころか三月娘達も元に戻せんとは」

「え?」

 父上の言葉で全ての思考が停止した。

 そんな僕の状態を知ってか知らずか父上は続ける。

「昨夜、お前が神無月家へ叱責を受けに行った時のことだ」

 そうだ。

 確かあの時、皆で父上からお叱りを受けた後、僕だけ神無月家の元へと向かった。

「そして半刻ほどこの家で団欒した後、ゲンの車で三月娘を送り出した。そしてしばらく経った後、ゲンから電話が来た『三月娘がどこかへ連れ去られてしまった』と。だが、幸いなことに彼女達がどこにいたのかはすぐに分かった。匿名の情報だが、斎藤さんの家屋にいると」

 僕はごくりと唾を呑む。

 斎藤さんと言えば僕が橘と相対し、長所を奪われた場所だ。

「そして彼女達はすぐに見つかった。見つかったがしかし……」

 ここで父上は無念そうに唇を噛んで俯きそして。

「橘の魔法によって心を奪われていた。彼女達は人形と化しており、何をやっても反応せん」

「っ!」

 その言葉と同時にいても経ってもいられなくなった僕は立ち上がって踵を返す。

 そして家の黒電話を回し、弓月商店へとかける。

「はい、弓月商店です」

 二、三度鳴らすと相手が現れ、そして幸運なことにゲンさんが応対に出た。

「ゲンさん! 立華に変わって下さい!」

「……」

 ゲンさんは沈黙し、そして。

「済まねえ、今は無理だ」

 拒絶を示した。

「どうしてですか?」

 僕がせき込んで尋ねるとゲンさんは申し訳なさそうに。

「悪い、立華は酷い風邪をこじらせてな。誰も会わせられねえんだ。まあでも安心しろ、すぐに良くなるから」

「嘘を付かないで下さい!」

 僕は思わずそう叫ぶ。

「橘に心を奪われて人形状態! そうなんでしょう?」

「っ!」

 ゲンさんが言葉に詰まったことが肯定を意味していた。


「……落ち着け、犬神康介」

 流行る感情を抑えるために僕は軽く眉間を揉む。

「まだ橘の仕業と決まったわけではない」

 もしかするとこれも優奈が仕掛けた演出なのかもしれない。

 僕が全てを取り戻させるためにうった一芝居なのかもしれない。

 僕はそう自分を落ち着けさせようとしたが、ここでまた電話が鳴った。

 なのでつい反射的に受話器を取った僕に入り込んできた言葉は。

「よお、ようやく確認の電話をかけたな」

 全ての元凶たる橘の言葉だった。

「……」

「電話の盗聴なんて意外と簡単に出来るんだなあ。カカカ、こりゃあ犯罪が無くならないわけだぜ」

「……橘、一つ聞くぞ」

 橘の余計な口上を遮って僕は静かな口調で尋ねる。

「立華と優奈、そして響の三人の心を奪ったのはお前か?」

「おお、そうだよ」

 呆気なく。

 あまりに簡単に奴はその事実を認める。

「前に約束していただろ? お前に面白い物を見せてやるって。俺は約束を守る人間だ、だから凄まじく面白くしてやったぜ、全く反応を示さない等身大の人形なんて愉快なことこの上ないよなあ?」

「……」

 ミシリ。

 と、受話器が音を立てる。

 それが自分の握力によるものだと気付くのにしばらくの時が必要だった。

「あーん? 何か反応が薄いなあ。仕方ねえ、お前から直々の感想が聞きたいから明日そっちに行くぞ。場所と時間は……そうだなあ、前に会った場所で十八時頃にしようや。それじゃあな、楽しみにしているぜ」

 橘はそう一方的に言い放つとガチャリと通話を切った。

「……な」

 何が起こった?

 どうしてこんなことが起こる?

「……ばな」

 あの誇り高い父上が僕に土下座をするほど追いつめ、そして心優しい彼女達を人形にしたのは誰だ?

「たち……ばな」

 そう、そいつだ。

 奴が父上と彼女達を苦しめた最大の元凶。

 そう理解した途端グシャリと受話器が破裂し、僕の左手に鋭い痛みと赤い河が走る。

 自分の存在があやふやに感じてしまい、天井と床の区別が付かない。

 目の前が真っ赤になる程の怒りと全てを壊す憎悪に身を任せた僕は。

「たぁぁぁぁぁちぃぃぃぃぃぃばぁぁぁぁぁぁなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 その咆哮と共に人間を捨てた。


 時刻は日本基準で十七時四十三分二十一秒。

 北緯三十六.二三度東経百三十九.五六度の地点に私はいます。

「犬神の奴、どんな表情をしてくんのかなぁ」

 あー、楽しみだ。

 そう呟きながら歩幅二十~四十センチメートルで半径五メートルの範囲を歩き回っているのは橘竜一郎。

 入学当初から犬神康介を叩きのめすことに執着していた人物です。

「鴉坂さんには分かるわけがないっすね」

「よくご存知で」

 橘の問いかけに私は顎を五センチ下に動かします。

「私にとっては夢宮翼学園長のみが至高であり絶対。それ以外の人物や事柄など余計な些事でしかありません」

「その答え、理解出来ないが嫌いでもないぜ」

 橘は喉を鳴らして二~三回息を吐き出します。

「魔法使いの思考なんて考察するだけ無意味。異端であり狂っているからこそ魔法使いだからな」

 正直な話、学園長が期待をかけた生徒の足を引っ張る橘を私は好いていませんが、その部分は共感しましょう。

 何故ならこの私でさえ学園長の真意の理解など完全に出来ていないのですから。

「あ~、早く来ないなぁ」

 そのセリフを橘は六回程吐きました。


「ようこそ犬神」

 十八時ピッタリに犬神が姿を現しました。

 偶然かもしれませんが、一秒の狂いもなく到着した犬神に好感を持てますね。

 彼なら私の趣向を理解してくれそうなのかと考えます。

「……」

 橘は両手を広げてウエルカム状態なのですが、対する犬神は無言で木刀を持ち上げます。

 これは話し合う余地などないという意思表示だと考えます。

「何故彼女達に危害を加えた?」

「もちろん、お前に絶望を与えてやるためだ」

 橘は腰に手を当てて答えます。

「憎い相手が目の前にいる。だが絶対的な力量不足によって傷つけることすら叶わない……その時の犬神はどんな表情をするのかなあ? 今から楽しみだ」

 体を二、三度震わせたことから恍惚の状態なのでしょう。

 やれやれ、人を支配することに何の意味があるのか。

 余計な徒労を増やすだけなのに。

「一つだけ言っておこう」

 私が思索にふけっていると犬神から通常より半分ほど抑えた声量で語りかけます。

「橘……僕がお前を叩きのめした時のことは覚えているか?」

「忘れられるはずねえだろ!」

「そうか」

 橘の吐き言葉に三センチほど頷いた犬神は手に持った木刀を顔まで持ち上げます。

「あの時のことを思い出した。どうやら僕は三月娘達が関わると本気を出すらしい」

 グシャリと犬神は左右非対称な笑みを浮かべます。

「終焉の斬撃――それがお前の魔法を消し去った僕の魔法だ」

 声のトーンを跳ね上がらせた犬神はそう謳いあげます。

「これをもう一度お前に付き立てる。それでお前の支えとなっていた全てが消える。そして二度と這いあがれず、底辺を彷徨うと良い」


 魔法使いが魔法を扱う際、大前提となるのが何の為にその魔法を使うかである。

 例えば炎を生み出して敵に放つのは、その炎の熱で相手がより苦しんで欲しいから。

 それなら別に氷や雷でも構わないのだが、それでも炎に拘るのは自身の経験から焼かれることが他のどの概念よりも苦痛を与えられると考えているから。

 もし炎よりも氷の方が苦痛を与えられると考える魔法使いがいるならば、その者は炎よりも氷を扱うだろう。

 つまり、敵を苦しめるという目的を達するために扱う手段は人によって千差万別となる。

 さあ、ここで問題だ。

 僕にとって最も苦痛に感じることは何だと思う?

 それはね、“失う”ことだよ。

 僕を信じ、支えてくれる三月娘を失うことが僕にとって死に等しい事柄のように、相手を苦しめるのはその相手を支える精神的支えを消せば良い。

 どうやって消す?

 それはこの木刀で行う。

 この木刀で貫かれた者は人、物問わず己にとって大切な存在を失う。

 理不尽だと感じるかい?

 年端の満たない者が使えるなんて信じられないかい?

 けど、これが魔法。

 魔法使いがこれと決めたら世界はどんな理不尽な条件だろうとそれに従う。

 その決定に逆らえるのは同じ魔法使いだけさ。


「ふざけるな!」

 橘はそう掛け声をかけるともに魔法を発動させる。

 それは以前相対した際に使った氷の槍や火球だった。

 あの時は橘との力の差を感じ取ったため戦わず、不戦敗を選んだ。

 正直な話、力量としては前と全然変わっていないのだけど。

「甘い!」

 僕は木刀を振るってそれらを両断する。

 例え首が千切れて頭だけになろうとも橘の喉仏に噛み付き、橘を滅さなければならなかった。

 そうしないと彼女達に申し訳が立たない。

 何の罪もない立華や優奈、そして響を傷つけた報いを絶対に受けて貰わなければ、神が許そうとも僕が許さなかった。

「っ!」

 僕の殺意を感じ取ったのだろう。

 咄嗟に橘は土の壁を造り出す。

 短時間で厚さ十センチのそれを作り出したのは見事と言うほかないが。

「邪魔だ!」

 例え鋼鉄の壁であろうとも、今の僕には薄っぺらい紙切れと同等だった。

 ガラガラガラ。

「……橘」

 土壁が斜めにずれていき、ようやく憎き敵と相対する。

 僕と橘との差は歩幅にして五歩程度。

 奇しくも全中の決勝戦で相対した時と同じ位置だった。

「この線で開始するのは久しぶりだな」

 橘もその事実に気付いたのかそう笑う。

 やれやれ。

 強がりなのが明白だ。

 橘は自分が不利になれば視線をあちこち彷徨わせ始める癖がある。

 正直、その癖があるから橘は負けたわけだが、まだ治っていなかったらしい。

 ……まあ、良いか。

 橘の心配などする必要がないと悟った僕は剣を正眼に構える。

「橘。これは試合じゃない……殺し合いだ」

 僕はそう宣告すると同時に橘へと踊りかかった。


「くそっ、力を奪ったはずなのに――強くなってやがる!」

 二、三度剣を交わし、間合いを取った後に橘はそう冷や汗を垂らす。

 時間にして五秒にも満たないが、それだけで格付けが済んでしまった。

「犬神……何の魔法を使った!?」

 魔法か。

 魔法使いからそう叫ばれると笑みがこぼれてしまうな。

「そうだな、お前のおかげかな」

 一つは確かに技術を奪われたが、それに伴って知らず身に付いていた悪習がなくなったこと。

 おかげで僕は禁じ手など型に囚われず、心の赴くまま自由に剣を振るうことが出来た。

 そして何よりも。

「お前は絶対にやってはならないことをやってしまった。そしてそのことから来る僕の……怒りだ!!」

「うっ」

 僕の攻勢に橘が怯む。

 僕のことを貶すのは構わない。

 僕を踏み付けるのもある程度許容しよう。

 だがな。

 あの三人に危害を加えるのならば僕は鬼でも悪魔にでもなってみせよう。

「が……」

 僕の渾身の突きが橘の鳩尾に決まり、奴は呼吸困難に堕ちて膝を付く。

「ひ……がは……」

 橘はもう戦闘を継続できるほどの力は残っていない。

 他人の能力を奪う奴の魔法は弱者に対して恐ろしいが、橘より格上の相手ならば単なる手品でしかない。

 正当な略奪――自分より下の者を苛め抜く橘らしい魔法だなと唇の端を歪ませた。

「さて、橘……僕の言いたいことは分かるな?」

「ぐああ!」

 僕は橘の手を踏みつけながら言い放つ。

「彼女達の心を返せ」

「わ……分かった」

 僕の要求に橘は空いた手で懐から四つの球を取り出す。

 想像するにそれらが三人の心、そして僕から奪った長所だろう。

 しかし。

「ほ、本当だ! 俺は嘘を付かねえ!」

 確認のために何度が足を回転させると橘はそう悲鳴を上げた。

「さっさと返せ」

 僕は橘の手からそれを奪い取るとそう舌打ちをし、そして。

「な、何の真似だ?」

 橘が怯えた声を上げるのは僕が木刀にあの黒い瘴気を絡ませ始めたからだろう。

 奪った物を返せば許してもらえると思っていたのか。

 甘いな、甘過ぎる。

 僕は冷笑を浮かべる。

「橘……罪には罰が必要だと思わないか?」

「っ!」

 その言葉で僕の真意を悟った橘は目を大きく開く。

 そんな橘に僕は神の様に優しく微笑んで。

「そう、その通りだよ。これから終焉の斬撃を橘に突き立てる。そして全てを失うと良い」

 そして僕は木刀を振り上げる。

 今の僕は加減が出来ないからもしかすると橘の存在自体を消し去ってしまうかもしれない。

 まあ、それも良いかな。

 どうせ橘は生きている価値もないクズだし。

 その考えた僕は魔法を叩きこもうとしたけど。

「そこまでです」

 のっぺりとした平坦な声音が僕を制止させた。


「……」

 僕の邪魔をしたのは夢宮学園の制服を完全に着こなしている女子高生。

 奇人変人しかいない夢宮学園で制服を改造せずに切るなんていう生徒は希少種を通り越して絶滅危惧種である。

「首を二十一度東へ傾けて瞼を一ミリほど下げられても困ります」

 ……訂正。

 彼女もまた奇人だった。

 正直そこまで数に拘る理由が分からない。

 まあ、彼女の性癖に付いてはどうでもよく、それよりも大事なことは僕の邪魔をしようとしていることだった。

「私に手に持った木刀を付き付ける……つまり私を排除するということですか?」

「僕の邪魔をするのならな」

 今すぐにこの場から去るのであれば危害を加えることはない。

 しかし、彼女は首を振りながら。

「私が犬神の視界から消えるとあなたは確実に橘を物消し去るでしょう。残念ながら私はそれを認めることが出来ません」

「ああ、そうか」

 だったらこれ以上の問答は無用。

 時間の無駄だと判断した僕は対象を橘から彼女へと切り替えた。

「犬神康介、私も魔法が使えます」

 彼女は同様の欠片も見せずにそう謳い、そして。

「完全なる再現――そう呼びましょうか」

 その言葉と同時に僕は一種の浮遊感に包まれ、わずかな段差を飛んだように膝を曲げて着地する。

「え?」

 僕がそう声を上げたのは目の前の光景が変わっていたからだ。

 確かに僕は周りに隠れていた人を片付け、橘の魔法を切り裂きそして奴を滅茶苦茶にした。

 そうしたはずなのに。

「元に戻っている?」

 橘は気を失っているが怪我はなく、人も倒れていない。

 夕日が照らす日光量も全く同じ。

 これは……そう。

「ただ今の時刻は十八時ちょうどです」

 彼女が言う通り、腕時計が示す針は一本線の形を取っている。

「犬神の推察の通り、時を戻しました」

 彼女は今までの時間を破棄し、またこの地点からやり直しさせたのだ。

 日照具合まで元に戻っていることからある空間を切り取る限定的魔法で無い。

「概念的にはそうですね……レコードの針を少し移動させたということでしょう。記憶はある。しかし、曲自体はそこまで進んでいません」

 言い得て妙である。

 本当に、まるで意識だけが未来から現在へと戻った気分だ。

「少し大がかり過ぎないか?」

「ご心配なく、世界が戻ったということを感知しているのは私達だけでしょう。何せ世界の理は魔法使いによる干渉を最低限に抑えたいはずですから」

「……」

 その言葉に沈黙する僕。

 彼女の話が嘘か本当かはどうでも良い。

 しかし、事実として世界の事象を改編することが出来る。

 夢宮学園から送り込まれた人物。

 正直ここまでぶっ飛んでいるとは思わなかった。

「ああ、それとこれは渡しておきましょう」

「あっ、おい!」

 橘が驚くほど彼女はごく自然に奴の懐に手を差し入れて四つの宝玉を取り出し、そしてそれを僕に投げた。

 それを受け取った僕は彼女の行為の意味を考える。

「これであなたが橘を狙う理由はなくなったはずです」

 つまり遠回しに鞘を引けというところか。

 勝手なことを。

 あんたらのせいで父上は土下座したのだぞ。

 僕は瞬間的に斬りかかりそうになったが、ふとここで思い直す。

 このまま戦闘を継続し、目の前の彼女の手を煩わせれば上の黒幕は何らかの手を出してくるだろう。

 そうなってしまうと父上にとって好ましい展開で無い。

 これ以上父上の心労を増やしても仕方ない。

「……っち」

 そのような結論に達した僕は木刀を下げた。

「賢明なようで何よりです」

 踵を返して去る僕の背中に彼女はそう語りかけてくる。

「……」

 その上から目線の態度にイラッときた僕は振り返りざま木刀を一閃させ。

「えっ?」

 彼女の完全なる再現を切り裂いた。

 空間に亀裂が入り、時間が元通りの時を刻み始める。

 もちろん僕が橘と周りの人に付けた傷も元通りである。

「――お前より僕の方が力が上だ」

 魔法使いが書き換えた事象ならば同じ魔法使いに出来ない道理はない。

 しかし、その場合は純粋な力勝負となり今の現実を変えたいと願う者が優先される。

 つまり彼女が魔法を使った時の意志よりも、その現実を否定したい僕の意志の方が上であった。

「覚えておけ、もし父上や彼女達にもう一度危害を加えようとするならば」

 僕は容赦しない。

「例え本人が止めてと懇願してもお前らを殺す」

 脅しとしては十分だろう。

 これでしばらく寄ってこないはずだ。

 そう判断した僕は背を向けて二度と振り返らなかったが。

「瞬間的とはいえ私の力を上回った? これは犬神康介という存在を根本から考え直さなければなりません」

 そのような僅かに興奮している声音が聞こえたことから、やりすぎてしまったかなと後悔した。


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