第一話 疲れ果てた犬
関東第七地区宮倉町。
そこが僕の故郷だ。
「ふう」
線路は一車線、車両も一つしかないローカル線で進むこと三十分
僕はある寂れた駅で降り立った。
「ふう」
天候は晴れ。
五月の気候なのだけど、心なしか汗ばむ。
どうやら長袖だともう季節遅れなようだ。
「戻ってきたんだな」
目に入る田園風景が懐かしい。
稲はまだ青々と伸びる最中のせいか妙に若々しく、風に揺れるそれに僕は何故か嬉しさを覚える。
プシュー。
ガタン、ゴトン。
この駅で降りたのは僕一人だけだったらしい。
僕を降ろした電車はこれ以上人を吐き出す事もなく、次の目的地を目指して進んでいく。
「まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった」
電車が見えなくなり、空を見上げた僕は独白する。
二週間前にここを出たばかり。
いつかはこうなると知っていたものの、些か早すぎるのではないかと自嘲する。
「まあ、仕方ないか」
込み上げてくる悲しさを抑え、手荷物のショルダーバックを肩にかける。
「夢宮学園、魔法使い養成科一年犬神 康介」
歩きながら僕は呟く。
しかし、目標点に到達できず、失格の烙印を押された脱落者。
「ハハッ」
僕は突き抜けるような空を見上げる。
「まさかこんな事になるとはねぇ」
一年でドロップアウト。
その消え様の無い事実が僕から全ての気力を奪い、こうして帰ってくることさえ一大事である。
「う……」
誰もいないホームで一人涙を流す。
努力はした。
けど、学校はそれを認めてくれなかった。
「畜生……」
僕は初めて挫折というのを経験した。
第三次世界大戦――それは人類史上過去に例を見ない破壊の祭典であった。
核やウイルス兵器の使用により世界の経済損失は千兆円を超え、死者のみでも一億人以上。
ヨーロッパが主戦場だった第一次、第二次と違って第三次は世界各地で勃発し、それがまた被害を増長させ、一時期は生物の住める場所が五割を切る事態にまで陥った。
このまま世界が滅びてしまうのか。
そんな悲観的な予想はある集団の登場によって打ち破られる。
その集団とはファンタジーやメルヘンの中でのみ存在していた魔法使いという種族。
彼等が誕生した正確な経緯は不明だが、有力な説として第三次によって戦乱が各地で起こり、百億人を越す人々の嘆きや怒り、慟哭が天を揺るがし地を裂き、因果律を緩ませたとされている。
因果律や物理法則を無視できる彼等は瞬く間に汚染された大地を修復・支配していった。
当初は救世主の到来かと持て囃されたが、彼らによって世界は更なる混迷を辿る。
何故なら魔法使いは他人のことなど顧みず、ただ己のエゴのみ追い求める存在。
彼らにとって人間など都合の良い道具でしかなかった。
しかし、皮肉にも戦争を行う両陣営にとって共通の敵が出現したことにより戦争は急速に収束していく。
後に現れたのは魔法使いを人類の敵として撲滅を掲げる陣営と魔法使いを社会にとって有益な存在だと庇護する二つの陣営によって水面下で激しく争っていた。
そして日本はというと、初期の頃からすでに魔法使いへ主導権を委譲し、各々の地域を実力のある魔法使いが治める地方分権を取っている。
戦国時代さながらの様相を呈す日本において指導的立場として君臨しているのが関東全域を支配する夢宮家一族。
夢宮家は夢宮学園という学校を持っており、そこで魔法使いや非魔法使いを問わず世界に通用する一流の人材を輩出していた。
「おおい! ようやく来たか!」
「あ……」
無人の改札口を出ると同時にクラクションを鳴らされて顔を上げる僕。
「まあ! おめえも大変だとは思うけどなぁ! 俺も店を女房に任せっきりなんだ! だから気分を切り替えて早く乗れ!」
そんな威勢の良い声をかける厳めしい顔付きをした弓月源――通称ゲンさん。
この宮倉町で唯一の商店を営んでいる人である。
「ありがとうございます」
以前と変わりないゲンさんの様子に僕は安堵しながらワゴン車へと乗り込んだ。
「気にせんでええぞ」
道中、ゲンさんは僕にそう語り掛ける。
「誰にでも泣き、悲しみそして失敗してしまう場合がある。俺もそうだった、皆が通った道だ。だから犬神の坊は俯かなくて良い」
ゲンさんは僕を励ましてくれる。
その気遣いは嬉しかったけど、僕としてはそう全てを分かっているように振舞われるのが嫌だったため。
「やだなあ、僕は泣いていないよ」
と、僕は強がってみるものの。
「じゃあ目の周りにある跡は何だ?」
「う……」
決定的な証拠があったため、沈黙せざるを得なかった。
「ガハハ、気にすることはねえ。むしろそのようにカラ元気を出すことの方が重要だ」
そうゲンさんはハンドルを片手にワシャワシャと僕の頭を撫でてくれる。
「子供扱いはやめてほしいのだけど」
僕はそう抗議するもののゲンさんは止まらない。
「はあ……」
そういえばゲンさんは僕を子供扱いする気質の持ち主だったことを思い出したので、これ以上の抵抗を止めた。
「犬神の坊が帰ってくると知れば、あの三月娘も喜ぶんじゃねえのかあ?」
「ゲンさん、その呼び方をすればまた立華に怒られるよ」
僕は苦笑しながらゲンさんに忠告する。
三月娘とは神無月優奈、弓月立華、そして篠月響といった苗字に月を持つ三人である。
三月娘という呼び名が定着したのは、特段に仲良しでも、目を見張るような美少女達でもなく、この宮倉町は過疎化の影響で年頃の娘がその三人しかいないという悲しい理由だった。
ちなみに年頃の男子も僕一人しかいない。
そのため僕と三月娘達との関係は世間一般で定義される幼馴染を越えて家族と呼べる域にまで達していた。
「なあに、犬神の坊が帰ってくると知ったら怒りも収まるさ」
ゲンさんはそう豪快に笑うが実際はどうなのか。
僕の想像の中だと、顔を引き攣らせながら殴りかかる立華の姿しか思い浮かばない。
「最悪、犬神の坊を立華の前に出しゃあ問題なし」
「止めて欲しいな」
気性の荒い立華の攻撃は本当に辛いんだよ。
立華によって僕は何回胃潰瘍になるのか心配したのか分からない。
「良いじゃねえか、将来夫婦になるんだし、その予行演習というこ――おお!」
パアン! とそんな大きな音が響くと同時に車が振動を大きくする。
「畜生、パンクしやがったな」
同じことをやった経験があるのかゲンさんは舌打ちを一つして原因を特定した。
「めんどくせえなあ」
スペアのタイヤを積んであるのだろう。
ゲンさんはさして狼狽した様子もなく車を降りる。
「僕に見せて」
「ん? 犬神の坊、どうした?」
スペアタイヤを取り出そうとしたゲンさんを僕は制止し、パンクしたタイヤの前に立つ。
「これぐらいなら出来そうだ」
僕はそう目星を付けると、掌を破裂した個所に被せる。
おおよそ五秒ぐらいそうしていただろう。
一息を吐いて手を放した後には、タイヤにパンクの後など痕跡すら残っていなかった。
「魔法ってのは本当に便利だよなぁ」
パンクしたタイヤを元通りにした僕にゲンさんが感嘆の声を上げる。
「しかし。犬神の坊よ、おめえ、魔法が使えるでねえか」
「いいや、違うよゲンさん」
ゲンさんの呟きに僕は首を振る。
「これぐらいの事象改変は正式な訓練を受けていない者でも使える。現実乖離度が高ければ扱える類だから自慢にならない」
「何だ? その現実乖離度っていうのは?」
ゲンさんが首を傾げたので僕は苦笑して一から語り始める。
「前に説明したでしょ? 現実乖離度というのは個人がどれだけ今の現実を受け入れているのかを示す数値だということを」
それは過去、自己診断表や自閉症スペクトラムといった名称だったけど、現在では現実乖離度と定義されている。
衝動性――高いほど感情に左右されやすい。
独自性――高いほど己と同類の存在を嫌う。
世界性――高いほど己の持つ世界が完成されている。
好奇性――高いほどある事柄に執着する。
特殊性――上記に挙げた四つの点に収まらない異常性を現す。
一つに付き最高二十点だから総合して百点である。
「おお、そうだったそうだった」
ゲンさんはカラカラ笑いながら答えた後に。
「で、犬神の坊はいくつだったんでえ?」
そんなことを聞いてきた。
「百点中四十三点だったよ」
「ふ~ん。けどな、それって誰でも当てはまることだと思うぜ」
「……前にも言ったと思うけど現実乖離度の測定は何時でもどこでも出来るようなテストじゃないからね」
今、自分の手元には世界を滅ぼせる力があるとすれば、そのまま世界を滅ぼしますか?
街を歩いていたら偶然自分と同じファッションをしていた人と出会いました。もし銃を持っていれば躊躇いなく撃ちますか?
といった常軌を逸した質問を嘘発見器にかけて脳波を測定する形式であり普通の感性を持っている者なら反応をしない問題ばかりである。
「採点が出た時、僕は悲しかったよ。まさか四十点台を出すとは思わなかった」
まあ、僕の感性が他人よりずれているということは薄々勘付いていたものの、まさかそこまで高いとは予想していなかった。
が、力なく笑う僕にゲンさんは神妙な表情で。
「いや、犬神の坊は結構ずれていたぞ。特に立華を始めとした三月娘達を文句を付けた輩に対する激情はなあ……普段が淡白な分狂気じみていたぜ」
「そうなの?」
僕としては意外だったため、首を傾げるのだけど。
「いや、いい。少々やり過ぎにしても俺としても立華を守ってくれるのだから文句を付けるのはおかしいよな」
ゲンさんは意味深な言葉を吐くだけで、これ以上応えようとしなかった。
僕の実家である犬神家は宮倉町の中心に近い場所にある。
「……重いなあ」
で、その前に佇む僕はもう何度目になるのか分からない溜め息を吐いていた。
ゲンさんに送ってもらってからもう三十分。
僕の足はそこから一歩も動いていなかった。
黒ずんだブロックで形作られた塀の中にあるのは蔵の他に、昭和初期に建てられた木造住宅。改修と増築を重ねた建築物は年季が入っており、ここからでも懐かしい木の香りが漂ってくる。
「父上と母上に何て説明しよう」
どのツラを下げて会って良いのか僕には分からなかった。
「本当に……どうしよう」
そしてまた溜め息を吐く僕。
同じ所をグルグルと回っている気分になってくる。
そんな時。
「あー! もう! まどろっこしいわねぇ!」
そんな聞き慣れた甲高い声音が響くのと同時に僕の目線は真横へと流れる。
その後に激しい痛みが身体を突き抜けたことから、僕は吹っ飛ばされたことに気付く。
「さっきからグジグジグジグジグジグジと! もう賽は投げられているんだからとっとと入りなさい!」
「……立華」
艶のある黒髪を胸元まで伸ばし、勝気な瞳を釣り上げて迫るのはゲンさんの娘――弓月 立華。
僕と同い年で、中学までは同じ学校に通っていた腐れ縁である。
まあ、あまり動こうとしない僕に発破をかけてくるので、場合によっては助かっているが。
「退学になってしまったことは仕方ない! そう胸を張って報告すればいいじゃない」
と、いう風に根性論を押し付けてくるのでうっとうしいと感じる時の方が多い。
「それが出来たら苦労しないんだよ」
それが立華なりの元気付けだと分かっているんだけどさあ。
この時ばかりはもう少しマイルドにお願い出来ないかな?
瀕死の重病人に劇薬を飲ませたら発作を起こして死ぬよ?
「何か言いたそうな目をしているわね」
……鋭い。
心の内を読まれたような気がした僕は反射的に目を逸らす。
「まあ、良いわ。その詮索は後に行うことにして今は両親に会ってきなさい」
そう言い放った立華ら僕の背を突き飛ばすように中へ押し込んだ。
「……ただいま」
音を立てないよう引き戸を恐る恐る開け、首だけ中に送って辺りの様子を確かめる。
見渡す限り誰もいない。
僕は息を飲んで残してきた体と足を引き入れ、完全に家の中へと入った。
「おかえりなさい、康介」
「う……」
そのまま廊下を歩くこと数歩で、右脇にある襖から聞き覚えのある優しい声がかけられる。
「母上……」
「はい、母上です」
もう四十にもなろうというのに若々しい容姿を保っている母上はニッコリと微笑む。
「康介が学校を辞めたと連絡が入ってからずっと心配していました。どうしてその後、電話に出なかったのですか?」
「それは……まあ、色々とあってね」
あの時は誰とも話したく無かったからさ。
残念だけど、僕は己の恥をベラベラと人に話せるほど神経が強くないんでね。
と、そんな僕の心境を読み取ったのか母上は眦を下げて。
「……疲れているようですね」
「っ」
囁く程度の音量。
しかし、確実に僕の状態を表現する言葉に僕は硬直してしまう。
「康介、あなたは身も心も疲れ切っている。だから感傷的になったり卑屈になったりと普段の康介らしくないの」
「……」
母上の言葉に僕は反抗することが出来ない。
確かに以前の僕は、悩んでいるぐらいなら即行動、そして余計な感情など切り捨てて物事を捉えようとしていた。
こんな詩人のような感想など始めてしたかもしれない。
「……うん、そうかもしれない」
だから僕は母上の言葉を素直に認める。
認めて楽になり、そして何も考えたくなかった。
僕は荷物を肩に引っさげ、自室のある二階へ向かおうと階段に足をかけたと同時に。
「父上がお待ち兼ねです」
母上の柔らかい、しかし芯のある声が僕の足を止める。
「父上も康介の帰りを待ち侘びていました。疲弊しきっているのは理解出来ますが、最後の力を振り絞って接見して下さい」
「しかし……」
「康介」
母上は口調を強めて。
「父上を信用しなさい。康介の、この一年間の苦労は全てお見通しでございますよ」
こう言い含められたら父上と会う以外選択肢がない。
こう見えて母上は根が頑固であり、一度決めたことは例え父上からであろうと撤回することはなかった。
「……分かりました」
だから僕はバッグを母上に任し、自分は父上がいるであろう部屋へ向かって重い足を動かした。
「ただいま戻りました」
僕は平伏しながら帰省を報告する。
父上の部屋は家の奥にある最も豪華な場所である。
畳十五畳もありそうなスペースは整頓されており、目に付くものはテーブルとな掛軸、そして刀しかない。
「父上のご期待に添えず、申し訳ありません。全ての責はこの康介の怠慢ゆえでございます」
「……」
父上は僕に背中を向けて沈黙しているためその表情を伺い知ることが出来ない。
決して大柄とは言えない体躯だが不動の姿勢を保っている姿勢から、富士の如く強く雄大に見えてしまう。
今でこそ家業の農家を継いでいるが、若い頃は警察官として凶悪犯を取り締まっていたと聞いている。
特に剣の腕前は凄まじかったらしく、魔法を使えない身であるにも関わらず魔法使いを成敗していたとか。
その真偽はともかく、全国大会に出た僕であっても父上に一度も勝った試しがないから真実だと考えている。
「……」
父上は黙したまま動こうとしない。
もしかすると、あまりの怒りで声を発することが出来ないのかもしれない。
勘当。
その言葉が頭上に閃く。
常に厳しい父上のことだ。
その可能性も十分に考えられた。
「も、申し訳ありません」
僕は畳に額を擦り付ける。
「誠に僭越な願いでございますが、今しばらくこの身を置いていただけないでしょうか。もちろん何時迄もとはございません。体勢が整い次第すぐにでも――」
「よい」
ここでようやく父上が重い口を開ける。
「康介、過ぎ去ったことを責めるつもりはない。それよりもお前に大事なのはこれからだ。この経験から何かを得る事ができたのなら退学は失敗でなく、成功への布石と化す」
「は、はい」
普段とは違い、諭そうとするなんて初めてのことなので戸惑うも。
「しかし、今のお前はただの敗者。その現実を自覚しろ」
「はい!」
いつも通りの厳しい父上の言葉が続いたので僕は内心安堵し、威勢の良い声で返事をし。
「よく……自分から諦めず、最後まで頑張ったな。焦らず今はゆっくりと休め」
「あ、ありがとうございます」
おそらく初めてだと思われる父上の労りの言葉に僕は涙を抑えることが出来なかった。
「私の言った通りだったでしょう?」
「立華……」
父上から許しを貰って自室へと戻る途中、居間から立華が母上と談笑していた。
「叔父さんも叔母さんも優しい人なんだから、康介を責める事なんて無いわよ」
立華は出された煎餅を頬張りながらカラカラと笑うが。
「あらあら立華ちゃん。康介が戻ってくるまで心配で仕方なかったのに」
母上の言葉で蒸せてしまった。
「康介が退学になると知った時の立華ちゃんは動揺しっぱなしだったわ。私や父上を掴みかからんばかりに『康介は悪くない。だから責めないで』と、懇願していたわね」
「お、叔母さん!」
口元を袖で隠しながら笑う母上の指摘に慌てて抗議した立華は僕の方に真っ赤な顔を向けて。
「勘違いしないでよね! 康介は弱いんだから、これで自殺でもされたら寝覚めが悪かったからよ!」
「自殺とかそんなオーバーな」
僕は苦笑しながら抗議するが。
「煩い煩い煩い! 私がするといったらするの!」
立華は頑として認めようとしなかった。
「やれやれ……」
そういえば立華はこうだったな。
お節介焼きなのにそれを認めようとせず、訳の分からない理由で誤魔化そうとする。
しかも癇癪を起こして否定するからこちらは認めるしかない。
昔から変わらない立華に僕は呆れよりも懐かしさの感情の方が際立ち、自然と頬が緩むが。
「康介、ここは折れておくのが夫の役目よ」
母上の一言で現実に引き戻された。
「いや、母上? 何勝手に僕の将来を決めているの?」
立華は頭に血が上っており、母上の言葉に気付かなかったので僕が代わりに突っ込む。
「あらあら、康介は嫌なの?」
「嫌というか……その話はまた今度にしよう。僕はもう疲れた」
色々な意味で疲れた。
少なくとも今は何も考えずに布団で横になりたい。
「け、康介!」
「ん? 何か用かな立華?」
僕が踵を返すと同時にかけられる声。
すでに背を向けているので立華の表情は伺いしれないが、それでも声が固いことから緊張していることが分かる。
「晩御飯……私も作るからね」
「それはそれは……ありがとう」
立華の突然の提案に僕は驚くも、すぐに手をヒラヒラと振りながら。
「母上の邪魔だけはするなよ」
「煩いわね!」
料理が壊滅的に下手な立華にそう忠告しておいた。
「この村の恥さらしが!!」
開口一番に甲高い声音でそう僕に怒鳴るのは宮倉町を仕切る神無月家の当主――神無月一心。
小柄な体を常に揺らし、その小さな目で神経質に辺りを見回すことから村の衆に“ネズミ”と揶揄されている。
実際、権力と名を傘に来て細かいことをキーキーと喚き立てるので皆から嫌われていた。
「申し訳ありません」
皆から疎んじられているからこそ僕は素直に頭を下げることが出来る。
「謝って済む問題だと思っておるのか? 貴様のせいで村の未来は終わりだ!」
「……」
ネズミの構想によると、魔法使いと認定された僕をパイプ役として政府から過疎化している宮倉町に色々と便宜を図ってもらう予定だったらしい。
まあ、それは建前であり、実際は中央の政財界とのコネが欲しかっただけだと皆が勘付いている。
「だからこそお前が門祝いの時、あそこまで豪華に行ったのだ! 貴様が退学したことによって主導したわしの面目は丸つぶれだぞ!」
何を勝手なことを。
僕も僕の両親もそんな祝いを頼んだ覚えはない。
あんたが勝手に己の見栄のために近隣の町の実力者まで呼んだのだろうが。
あの式典さえなければ僕はもっと早くに学校を辞め、村の期待と現実の劣等との板挟みに苦しまなかったのに。
「御当主様のご期待に添えず、ただただ謝罪するばかりであります」
まあ、内心この当主を小馬鹿にしているため、謝ることを苦に感じない。
皮肉だなあと僕は自嘲する。
もしネズミが皆から尊敬される当主であれば僕は故郷へ帰ってこなかっただろうね。
「言葉など必要ない!」
そんな僕の心境など知らずネズミは泡を飛ばしながら喚く。
「それよりも態度で示せ! 貴様は罰として門祝いに参加した来賓達に詫びの手紙を書け!」
あんたは何もしないのかい?
僕はそう思うも言葉にしない。
ネズミ相手に口論して勝っても空しいし、粘着質なネズミの報復に両親に害が及ぶことは避けたい。
「はい、分かりました」
だからこそ僕はネズミの言うことに反対せず、唯々諾々と従った。
「はあ……」
ネズミがいる部屋から退出した僕はため息を吐く。
「やれやれ、急に呼び出されたと思ったら説教か」
昨日帰郷したばかりの僕は朝食を食べていた時のこと。
立華の作った創作料理がまだ胃に残っている不快感に顔をしかめている時に告げられた母上からの言伝。
どうやら三月娘の一人である神無月優奈の当主が僕を昼前に屋敷へ召喚する旨だった。
で、呼び出された僕に待っていたのはネズミからの罵詈雑言。
朝から気が滅入る一幕だった。
「面倒くさい」
僕は縁側を歩きながらぼやく。
村で最も豪華な住宅と評されるのは伊達でなく、石模様に加えてししおどしも備え付けられた和風の庭は眺めているだけで優雅な気分に浸れる。
あのネズミには最も似合わない代物だ。
折角の休日だから家でブラブラしようと思っていたのに、それがパーになった。
「それにしてもネズミめ、よくここまで人を呼んだな」
この辺りの抜け目のなさは素直に褒める事ができる。
渡されたリストに載せられているのは約二十人。
つまり僕は二十人分同じ口上を綺麗な字で書かなければならなかった。
「まあ、もう決まったことは仕方ない。むしろこれぐらいで済んで良かったと喜ぼうか」
詫びの手紙に加えて土産も自腹で買えと命令していたのならいくら僕でもカチンときていたね。
「はあ……帰りに弓月商店でも寄っていくか」
封筒を買うついでに昨日の晩御飯の感想も言ってやりたいし。
叔母さんにもう少し料理というものを立華に伝授してほしかった。
あれでは嫁入りどころか一人暮らしさえ危ういぞ。
「お疲れ様です康介君」
と、そんなことを考えていた僕に掛けられる涼やかな声音。
「こちらです」
見ると僕の左側にあるふすまの一角が開いていた。
「神無月嬢でございましたか」
櫛を通す必要もない黒髪を腰まで伸ばし、一流の彫刻師が美を意識して彫った作りの顔立ちをしているのはあのネズミの娘である高校三年生の神無月 優奈。
ゆったりと落ち着いた物腰と上品で優雅な言葉遣いから古に登場する姫を想起させる。
ちなみに優奈は家事や掃除はもちろんのこと、茶道やバイオリン等の教養や礼儀作法も完璧である。
あのネズミからどうして優奈の様な姫が生まれたのか他の町から首を傾げられるが、ネズミの思考に予測が付いている宮倉町の住人は失笑するしかない。
優奈は中央政財界の貢物としてネズミが大事に大事に育てており、噂によるとネズミの頭の中ではどの権力者に捧げようかすでに段取りに入っているとか。
本当に、実の娘すら権力を得るための道具として考えるネズミにはもはや呆れしかなかった。
「神無月嬢なんて……フフフ、昔のように優奈で構いませんのに」
そんな僕の懊悩とは無縁と言わんばかりに優奈はコロコロと笑う。
「幼少の頃、四人で遊んだ秘密の場所はどうなっているのでしょう。そうだ、康介君。また何時ものように攫ってくれませんか?」
優奈は当初、深窓の令嬢の如く屋敷から一歩も出して貰えなかったが、日に日に衰弱していく優奈を見たネズミは売り物にならなくなると危惧したらしく、絶対に怪我をさせない条件で同じ年頃である僕達と触れ合うのを認めた経歴がある。
まあ、僕達はそんなネズミのとの約束など三歩で忘れ、原っぱでの鬼ごっこや川で魚釣りなど危険極まる行動をしていたけどね。
その名残からか優奈は高校生になっても時折お忍びで外出していると聞いている。
「それもしたいのはやまやまですが、あのネ――いえ、御当主の耳に入るのか分かりませんので」
建前はネズミに見つかる懸念。
しかし、本心では早く帰りたいから。
優奈を連れ出すと確実に一日が潰れる。
僕としては早い所詫び状を書きたかったので、最もらしい言葉で断ろうとしたのだけど。
「大丈夫ですよ。ドブネズミはこれからの予定で頭が一杯なので私のことまで気が回りませんって」
「ドブネズミ……」
ごく自然に実の父親を罵倒する言葉に僕は一瞬顔が引き攣る。
「あら? 私は何か変なことを言いました?」
首を傾げてそう尋ねる優奈に僕はどう返せば良いのだろう。
「神無月嬢――」
「優奈」
「……優奈、自分の父に対してその言い方はまずいんじゃないかな?」
とりあえず一般論を述べる僕。
どんなに最低な親でも親は親。
一定の敬意は持つべきだろうと僕は諭そうとするが。
「事実を事実のまま表現して何が悪いのでしょうか?」
「……」
との優奈の言葉に僕は沈黙せざるを得なかった。
何と言うか……娘からも陰で罵倒されるネズミのことを哀れに思う。
そして、本当に不憫と感じるのは肉親でさえ蔑まれていることに気付かないことだな。
ネズミを憎たらしいと思う反面、悲しさを覚えてしまった。
立ち話も何なので、と述べる優奈の誘いに乗った僕は彼女の部屋にお邪魔して座る。
「相変わらず凄い本の量だね」
僕がそう呻いてしまうのは、その部屋に置かれている本棚が大きかったからだ。
畳が敷かれた和風の部屋なのだが、その半分のスペースを本棚が使っている。
「フフフ、あの書庫にはまだまだたくさんありますよ」
優奈の視線の先にあるのは古びた倉庫。
幼少の頃の記憶をたどると、中はろうそく程度では奥が見えないほど広かった覚えがある。
それが本で一杯に埋め尽くされている。
本をあまり読まない僕にとっては想像すらできない光景だった。
「しかし、康介君が学校を退学になったのは予想外でしたね。おかげで私達と駆け落ちするパターンがなくなりました」
「いや、何を言ってるの優奈?」
頬に手を当ててため息を吐く優奈に僕は突っ込むが優奈は続けて。
「しかし、最終的には安定している職に就ければ問題無いんです。康介君は頭も人柄も悪くないので高卒でも食べていけますね」
勝手に高校を卒業したら働くことを約束されている。
「いや……優奈? 将来はともかく、大学に行くという選択肢も僕にはあるよ?」
まあ、何をしたいのかはまだ決まっていないけどね。
しかし、優奈は何を言わんばかりに目を見開いて。
「何を言っているのかしら? 私は四年以上もドブネズミが持ってきた縁談を断り続けなければいけないの?」
「いや……それは」
それはそっちの都合だから勝手にやってくれと思ってしまう。
優奈はよくトンビが鷹を生んだと揶揄されることが多いが、僕からすれば蛙の子は蛙だと感じている。
ネズミも優奈も結局は自分のことしか考えていない。
しかし、優奈は積み重ねられた本の量から推察できるように頭が良いのでその本性はほとんど知られていなかった。
「……まあ、辛気臭い話を脇において、今は外に行きましょう」
優奈が隠してあった靴を取り出しながら笑顔でのたまう。
外出することはすでに決定事項らしい。
この時の優奈に逆らってもロクな結果にならないことを身に染みて分かっている僕は諦めて優奈の腰と首に手を回す。
「しっかり捕まっていてよ」
優奈が返事とばかりに僕の首に巻き付いている腕に力を込めたのを確認した僕は足元に意識を集め、跳んだ。
塀は二、三メートルはあるだろうが今の僕は地面から五メートル離れた場所にいる。
優奈に負担をかけないよう出来るだけ膝を曲げて衝撃を少なくして着地した。
「何度見ても魔法は凄いですね」
僕から降りた優奈は感嘆の声を上げる。
「本当に康介君は劣等生なのですか? 見た所問題無く扱えていますが」
そんな優奈の質問に僕は首を振る。
「世間一般が求める魔法使いのレベルは相当高いんだ。一年の終わり頃には飛行ぐらい扱えていないと無能者扱いさ」
咄嗟に出てきた恨みの声を抑えようと僕は天を仰ぐ。
「康介君……」
腹黒だが頭の良い優奈はそんな僕を何も言わずに黙って見つめていた。
三月娘は弓月立華、神無月優奈そして篠月響で構成されている。
共通している部分は苗字に“月”があることと、三月娘と一括りにされたら怒ることだけである。
そして当然ながらこの三人の性格はそれぞれ違う。
同い年の弓月立華はよく気が付き世話焼きだけど感情表現が激しく、すぐに手を出す直情系。
最上級生の神無月優奈は優しく物腰が柔らかいけど自分のことが常に優先な腹黒系。
そして残る今年高校に上がったばかりの篠月響はというと。
「康介さん! おはようございます!」
「……朝の四時から元気だな響」
常にハイテンションで周りを巻き込む永久機関の持ち主といったところか。
バッサリと切ったショートカットの髪にせわしなく動く大きな瞳、そして何よりもその小柄な体から発する熱量に一メートルも離れているにも関わらずビンビンと伝わり、今にも汗が吹き出しそうだった。
「熱いからもう少し離れて欲しいんだが」
「そりゃそうですよ。何せ自転車をかっ飛ばしてきましたから」
「いや、そういう意味ではなくてだな」
噛み合わない会話に僕は眉間をもんだ。
よくもまあこんな日曜の朝っぱらから元気なものだ。
僕の家と響の家との距離を考えると、どんなに急いでも三時には起きておかないと不可能だぞ。
「え? 早いですか? 私の両親はとっくに起きて畑に向かっていますよ?」
「まあ……そうだけど」
田舎の朝は早い。
冬はともかく、それ以外の時期は陽が昇る前には起きているのが一般である。
どうやらまだ学園の時の習慣が抜けていないらしい。
「しかし。こんな早朝から何の用だ?」
眠い目をこすりながら僕は響にそう尋ねる。
「あれ? 叔母さんから何も聞いていませんか?」
「あ~、確か何か言っていた様な気がする」
僕の記憶が正しければ母上から『響ちゃんが康介に会いたいのですぐに家へと来て欲しい』と伝えられていた。
「ごめん、連絡するのを忘れていた」
せめて電話しておけば良かったと気付いた僕はそう謝るのだけど、響は頭をバリバリと掻きながら。
「謝って済む問題ですか! 私がどれだけ康介さんに会いたかったと思っています? 昨日訪れた時にはすでに留守だし、すぐに帰ってくると信じていたのに結局陽が暮れても家に戻りませんでした!」
「いや、それには深い訳があって」
あの後優奈が飽きるまでずっと付き添いだった上に彼女を送り届ける際にネズミに見つかってこってりと絞られてしまう羽目に陥った。
優奈の弁護によって両親が謝罪に来ることはなかったものの、家に着いた時はすでに晩の八時を回っていたに加えて父上の説教の後(父上は優奈の本性を知らない)急いでご飯を食べて風呂に入って片付けをした時点ですでに日付が変わっており、そこから詫び状を書き始め、終わったのがつい三十分前だった。
「何故そこで寝ようとするのですか!」
「え? そこ怒る所?」
納得して引き下がると予想していたが、アテが外れて戸惑う僕に響は続けて。
「『書き終わった、さあ響に会いに行こうか』とかは考えないのですか!?」
「……徹夜明けの疲労困憊な体調に加えて朝の四時にそんな選択肢が出ることの方がおかしい」
「私は来ましたよ!」
「だから響がおかしい」
「酷い! 折角康介さんに会えると布団の中で眠れず悶々していた私に言う言葉ですか!?」
「いや、だって常識的に考えて――お前今何て言った?」
聞き逃せない言葉が飛び出したので片眉を上げる。
「二時に向かおうとした所両親に見つかり、畑に出るまでじっと待機していた私に言う言葉ですか!?」
「……突っ込まない、僕は突っ込まないぞ」
僕はそう口の中で唱えて自分を鎮めた後に大きく深呼吸をして。
「響。お前、寝ていないのか?」
「寝てられる状態じゃありませんでしたよ!」
「……そうか、分かった。とりあえず家に上がれ。温かいココアでも出そう」
僕の両親もすでに畑に行って作物の様子を確かめているため、現在家には僕一人しかいないので僕が用意するしかない。
「何誤魔化そうとしているのですか! 私の怒りは納まっていませんよ!」
響はそう憤慨するも。
「ビスケットもあるが要らないのか?」
「要ります!」
その誘惑の言葉に響は呆気なく陥落した。
「良いですか! 私は怒っているんですよ?」
「はいはい」
響の戯言に相槌を打ちながら間食を用意する僕。
「う~……とにかく早く作って下さい」
「律儀に待つんだな」
座布団に座って歯ぎしりしながら待つ響の様子に僕は苦笑せざるを得なかった。
「ほら、出来たぞ」
レンジを使って作ったココアとビスケットを響の前に置く。
「はい、ありがとうございます」
「どういたしまして」
先程の怒りはどこへいったのか。
響は満面の笑みを浮かべながら菓子を頬張り始める。
「お菓子のお礼です。まずは康介さんから質問して下さい」
「ああ」
響からそう先を促された僕は口を開く。
「一体何の用だ?」
僕は一緒に淹れたココアをかき混ぜながら尋ねる。
「眠れないほど僕に会いたかったのだから、よほど伝えたいことがあったのだろう」
普通の用事ではあるまい。
僕はすぐに夢の世界へ旅立ってしまいそうになるのを堪えてそう尋ねるのだけど、響は首を傾げながら。
「いえ、私としては康介さんに会いたかっただけです」
「は?」
そんなことをのたまったので、思わず口をポカンと開いてしまう。
「本当にそれだけか?」
僕はそう続けるも。
「はい、それだけですが?」
あっけらかんとそう返されたので沈黙するしかなかった。
「確認するぞ?」
「はい、どうぞ」
ビスケットをダブルで口に入れながら頷く響に僕は尋ねる。
「退学になった僕から話を聞きにきたのではないのか?」
「それも良いですけど、傷も癒えていない内に根掘り葉掘り聞くのは失礼だと思います」
と、変な所で遠慮する響。
「で、これからどうするつもりだ?」
「決まっているでしょう。両親の手伝いに向かいます」
当然と言わんばかりの態度に僕は頭を抱える。
家人が起きているか分からない朝の四時にお邪魔するその行動力と厚顔無恥さは尊敬に値する。
何というか、さすが永久機関の持ち主と謳われる響。
「さて、次は私の番ですね」
僕が呆れ果てている前で響はそう前置きした後。
「どうして連絡してくれなかったのですか!?」
机をバンっと叩いた響は家に上がる前のやり取りを再現させる。
「真っ先に会いに来てくれると信じていたのに……どうしてですか!?」
「いや、目を潤ませながら言われても」
立華も優奈も僕から会いに行ったわけでなく、向こうから強制的に来られたのが真相。
その証拠に僕の自由時間は今の所ない。
「私が嫌いなんですか?」
「いや、そんなつもりは毛頭ない」
そう否定するも。
「じゃあ何で最初に会いに来てくれなかったのですか!」
またもループしてしまう。
断っておくが現在の時刻は午前四時半。
なのに響はハイテンションで責めてくる。
「……そうか」
なんかもうどうでも良くなったので生返事でそう答えておくことにしておこう。
ちなみに響の抗議は夜が白み始め、雀の鳴き声が聞こえてくるまで続いていた。
響は両親の手伝いに向かうと言っていたが。
「ぐー……」
ギャーギャー喚いていた間隙を突く形で眠りに入っていた。
「どうして夜が明けると眠気が出てくるのだろうな」
僕は一つ欠伸をかましながら呟く。
「さてと、僕も寝るか」
響のカップと皿を流しに運んだ僕は突っ伏して寝息を立てている彼女の腰と首に手を添えて持ち上げる。
行き先は僕のベッド。
僕も内心では他人を自分のベッドに寝かせるのは抵抗があるものの、他に適当な場所が無いので仕方ない。
変な所で寝かせると母上が煩いし。
「はあ~、疲れた」
響を運んだ僕は今に毛布と座布団を使って寝床を作って横になる。
「……起きたらまた文句を言われそうだな」
僕は懸念を口にする。
しかも立華もその場に居合わせたら、とても不愉快な説教地獄が待っている。
そう考えると、玄関のカギを閉めておく必要があるのだが。
「まあ、後で良いか」
響の相手で疲れた僕は体も頭も泥のように重かったので目を閉じた。