病弱な妹を優先する婚約者2
とりあえず私はアレキサンダーに礼を言って鳥舎を出ると、再びモッサモサの雑草を掻き分けながら、邸宅へ向けて歩き始めた……んだけど、なんかアレキサンダーもついてきた。ついてくるんかいー。
まずはこの雑草の海を抜けようと先に進めば、徐々に草の中から小道の敷石が現れて、ようやく歩きやすくなった。私、サバイバルとか向かないのよ。箱入り聖獣だから。
「どこに行くんじゃ? どこでも案内してやるぞ」
アレキサンダー、張り切ってるとこ申し訳ないんだけど、もう少し声を落として。あなたの声、すごく通るのよ。
「おい、屋根に上がるなら向こうに手頃な木があるぞ」
「厨房の勝手口に使用人がいるよ。いま東南はダメ」
「あ、バッタみっけ!」
カークはじめ鳥のみんなも、アレキサンダーに触発されたのか、とっても協力的。あー、うん。ありが――。
「おい、うるせぇぞ。静かにしろ」
突然、唸り声とともに声が飛んできた。
見ればガゼボの陰から、なんとも大きな犬がこちらを睨んでいる。確かボルゾイというのだったか、絹のような純白の長毛をなびかせ、スラリとした長い足を一歩踏み出した彼は、実に優雅な歩みでこちらに近づいてくる。
「うちの坊ちゃんが仮眠してんだよ。ギャーギャー騒ぐな、クソが」
わぉ、この高貴な見た目で、むっちゃ口が悪い!
「おお、レオポルド。相変わらず元気そうじゃな。こちら聖獣さまじゃ!」
「ジジイ、声が煩せぇ」
ボルゾイのレオポルド? が鼻に皺を寄せて低く唸った。どうやらこの家の飼い犬のようだ。見た目だけじゃなくて名前まで高貴でゴージャスな感じなのねー。口調はアレだけど。
「みんな、ちょっと静かにしてくれる? 私、レオポルドと話がしたいの」
周囲を見渡しながらそう告げると、アレキサンダーやカーク、そして小鳥たちも、バサバサと木やガゼボの屋根へと移動していった。なるほど、高みの見物と……。
「こんにちは。私はディアーナ。ちょっとその仮眠中の坊ちゃんについて話を聞きたくて来たの」
「うちの坊ちゃんについて? 何が聞きたい。あまり時間はねぇぞ」
少し警戒するように目をすがめて、レオポルドはこちらを見据えた。
なので私は手短に、リンデル家の馬たちの不機嫌と街の噂、そしてその原因がこの家の令息のドタキャンであることを話して聞かせる。
「ねぇ、本当に令息は妹さんの具合が悪くて、仕方なく何度も約束を反故にしてるの?」
真っ直ぐにそう聞けば、目の前のレオポルドの長い鼻にピクリと皺が寄って、溜め息のような小さい唸り声が落ちた。
「……そう言うしかないだろ。坊ちゃんは貴族だから」
不貞腐れたようにそう零して、けれどすぐにレオポルドはキッと私を見据えてきた。
「だがな、どうにもこうにも仕方なかったのは本当だ。坊ちゃんは決して不誠実な人じゃない。令嬢との約束だって破りたくて破ったわけじゃない。妹を言い訳にしたのだって苦渋の末だ。正直に言えりゃあ、どんなにか楽だろうさ」
大声で吠えるのを必死に抑えるレオポルドの全身から、どうにもできない悔しさや、もどかしさが伝わってくる。
つまり、ドタキャンが仕方なかったのは本当。でもその理由は妹さんではなく、他にあるってこと?
「ああ、嬢ちゃんの具合が悪いっていうのは、まるっきり嘘じゃねぇ。具合がいい時の方が少ないからな。だから坊ちゃんは、それを言い訳に使えたんだ。嬢ちゃんが昔みたいに寝込むのは滅多にねぇってだけだ。坊ちゃんがそうなるまで見過ごすわけないだろ」
鼻を鳴らすレオポルドがファサッと長い尻尾を揺らした。ふわりと広がる柔らかな毛が、木漏れ日の中で宙を舞う。なので私も何となく尻尾を振ってみた。別に対抗心じゃないからね? 何となくだから。
「いいか。まず、坊ちゃんはこの家の当主じゃねぇ。当主は父親だ」
言い聞かせるように長い鼻先をぐっと近づけて、レオポルドが言葉を続ける。
「だから、当主が買うと決めたものは買うし、やると決めたらゲージュツの会だって開く。当主が許せば、奥様の買い物も付き合いも止められねぇ。群れのトップは当主だからな」
あぁ……うん、そうね。その通りだわ。
「俺は4年前にこの家に来たから、昔のことは家令や使用人からの聞きかじりだがな……」
そう断って、レオポルドは外からは分からない、子爵家の内情を話し始めた。
子爵家は、領地から産出される質のいい鉱石や材木やその加工品によって、本来であれば、それなりに豊かな生活が送れているはずだという。
だが、それに胡座をかいた先代が趣味にのめり込み、それを見て育った今の当主も、それに倣うように趣味優先な男へと成長した。黙っていても鉱石や木材が売れて、お金は入ってくるのだから大丈夫だろうと。
先代の頃は、まだ厳しい先々代がいたので大丈夫だった。けれどその浪費に拍車がかかったのは、侯爵家の三女だった夫人が嫁いできて第一子の子息が生まれてから。夫人は侯爵家から子爵家に嫁いでもなお、令嬢時代と同じ華やかな生活を望み、年を経るごとにいっそう社交熱を加速させていったとか。
「まぁ、高位貴族に嫁いだ友人たちが多いみたいだしな。負けたくなかったんだろうよ」
「ふむ。先々代がいた頃は、あの夫婦の趣味も大人しいもんじゃったが……。下の嬢ちゃんが生まれたあと先代が亡くなって、枷が外れたかのぅ」
カークとアレキサンダーが、ナチュラルに話に入ってきた。いつの間に……。
「枷が外れたにしても、趣味以外に無関心すぎねぇか? あの夫婦、子供にも家にも興味ねぇぞ。脳天気に周りが何とかすると思ってやがる」
ヘッと口端を上げて犬歯を覗かせたレオポルドに、枝の上のアレキサンダーがクイッと首を傾げた。
「だが、それでも変わらず家は成り立っておるのだろう?」
「必死に成り立たせているんだ。坊ちゃんがっ」
……ああ、やっぱり。
堪えきれずに低く吠えたレオポルドは、こちらにムスッと向き直ると、子息のどうにもならない現状を話し出した。
八年前、子息が十歳の時に、鳥とバラを愛する先代が亡くなって、骨董と芸術を愛する今の当主が子爵となった。
亡くなった先代は自分の趣味以外の支出にはそこそこ煩かったそうで、存命中はさほど自由にお金を使えなかった子爵は、自分が当主となって裁量権を得ると、これ幸いとどんどん趣味の出費を増やしていったんだとか。
骨董収集だけでなく音楽会や芸術鑑賞会を開催するようになったのもこの頃。子爵は自分の趣味以外には無関心で、夫人の社交や買い物に口を出さない。結果、出費はさらに膨らんでいくことに……。
子息は当時二歳の妹とともに、乳母と使用人と家庭教師によって育てられたそうだ。身体が小さく病弱な妹を子息はよく面倒を見たという。食べやすく滋養に良い食材や薬を、子息が不在がちな両親に代わって探し始めたのもこの頃から。
三年前、子息が十五歳の時に、領地で山火事が起きた。
対策や補償などの大きな出費があったけれど、それ自体は支払える額だったそうだ。しかしそこへきて、夫妻がいつもの調子でまったく趣味の出費を控えなかったことで、一気に財政は悪化。
頭を抱える家令や事務官をよそに両親は変わらず不在がちで、跡取りとして教育中だった子息は、見かねてつい執務室の扉を開いてしまった。そして気づけば経営管理だけでなく、家政の管理まで丸投げされていたそうだ。
もちろん、子息や家令たちは何度も苦言を呈したそうだけど、「任せる」「お願いね」ばかりで改善はされず、それどころか肩の荷が下りたとばかりに、夫妻はいっそう趣味と社交にのめり込んでいったそうな。
ちなみにレオポルドも、社交界の一時的なブームに乗っかった夫人が、見栄を張って買ったのだとか。そして短いブームが去った後は当然のごとく放置。結局は子息が面倒を見ることに……。
そして半年前、子息は二歳年下のリンデル伯爵家の令嬢と婚約した。
夫人が上位貴族との縁談を望み、熱心に話をまとめたのだとか。おっとりとして可愛らしい令嬢を、子息は一目見て気に入ったようだ、と家令が嬉しそうに話していたらしい。
婚約者としての十日に一度の交流は、最初は互いの家を行き来してのお茶会。
子息は、令嬢が子爵家を訪れる数日前から仕事を増やし、時間をひねり出してプレゼントを選び、少なくなった使用人に指示を出して出迎えの準備に奔走。逆に自分が出かける時は、やっぱり数日前から仕事を増やし、厳選したプレゼントに加えて花束も手配して、不在の間の屋敷の指示に、妹さんの体調の把握、それから非常時の連絡手段を整えて――。
「なんか、すごいわね……」
思わず呟いてしまった。
「でもな、それでも婚約者に会える日を、坊ちゃんは楽しみにしてたんだよ。贈り物とかすっげぇ悩んでな。いっそがしいのに。十日に一度のそれを張り合いにしてたんだ。嫁いでくる婚約者に不自由はさせたくないって」
積み上がる書類と請求書の中で、子息が少し照れながら家令にそう話していたのを、レオポルドは聞いたという。じゃあなんで――。
「じゃあなんで、ドタキャンなんかしたんだよ。しかも何回もさぁ」
枝に止まったカークが、前にのめるようにして声を上げた。
「二ヶ月くらい前にやらかしたんだよ。子爵が」
カークを見上げながら、レオポルドはそう言葉を吐き捨てた。
二ヶ月前、その日は十日に一度の婚約者との交流の日。
もうその頃には、お互いの家だけでなく、二人で一緒に外へ出かけるようになっていた。
高位貴族の令嬢の外出ゆえ、護衛の関係もあって移動はもっぱら伯爵家の馬車。子息は騎馬で伯爵家へ赴いて、令嬢をエスコートするのが常だった。
その日の予定は観劇で、令嬢が楽しみにしていた評判のソプラノ歌手主演の歌劇だったそうだ。
馬車内で、控えめながら歌手の評判や、伴奏について一生懸命に話す可愛らしい婚約者を子息がエスコートして、劇場の二階にある貴族用の個室席へ腰を落ち着けてしばらく。それは歌劇の第二幕が上がって間もなくのことだった。
突然、上演中だというのに入り口の扉が叩かれ、護衛が子爵家からの急使を告げる。それは子息が予め整えていた緊急の連絡手段だったので、子息は思わず「妹に何か?」と口にしたそうだ。
令嬢に断りを入れて個室を出れば、個室席が並ぶ通路の入り口に、子爵家の事務官が青い顔で待っていた。
「なんかな、当主が領地のどっか……なんとかクミアイ? に払うはずの金を使っちまったみたいでな」
レオポルドの言葉に、枝に止まったアレキサンダーがバサバサと羽ばたきをする。
「ああ、あの日の騒ぎならわしも見たぞ。なんとかクミアイではなく商工組合じゃ。当主が商工組合に払うはずの金で、大きな壺を買った時じゃろう? うむ、わしは先代とともに領地にも行ったことがあるからな。詳しいぞ。あの日の坊主と家令たちの顔色ときたら、わしの羽根のように青くてな。ほれ、ここ、このあたりの――」
「ジジイ、黙れ」
大張り切りで羽根を見せているアレキサンダーに、レオポルドが唸った。
「妹の体調が急変したらしくて、至急屋敷へ戻らねばならなくなりました」
事務官からの報告を受けた子息は、個室席で心配そうに待っていた婚約者にそう告げた。
そう言うしかなかった。貴族として、婚約者とはいえ他家に家の内情……とりわけ当主の失態など知られるわけにはいかない。噂ひとつで家など簡単に傾くのだから。
だから、最初につい口にした妹の体調を理由にしてしまったのだという。
子息はすぐに外で待機していた伯爵家の護衛と侍女に声をかけ、室内で婚約者についてくれるよう頼むと、大急ぎで一人劇場を飛び出して事務官が乗ってきた馬を駆り、子爵家へと戻ったそうだ。
「なるほどー、そういうことかァァ」
カークがなぜか空に向けて鳴いた。まぁ私も同じ気持ちだけどね。
「馬たちからは子息だけ途中で帰った、って聞いてたけど、それじゃあ確かに仕方ないわね。令嬢だけ残したのは、急いでいたのもあるけど、令嬢がその劇を楽しみにしてたから、ってとこかしら」
首を傾げてそう聞いた私に、レオポルドが小さく頷く。
「たぶんな。真夜中に『彼女は、せめて楽しんでくれたかな』って俺を撫でながら呟いていたからさ。思わず思いっきり顔を舐めて慰めちまったぜ」
それ慰めになるのかしら? と思ったものの口にはしない。
「じゃあ、あとの三回は? 馬たちはこの二ヶ月で三回、当日にドタキャンしたって言ってたわ」
「おう、おう、そりゃあ領から代官やら商工組合の連中が来たせいじゃな。ああ、あと加工業者や鉱山の責任者もおったな。いやー、久々に懐かしい顔を見たぞい。小童がジジイになっとったわ。ここしばらく、しょっちゅう賑やかにやって来よる」
横から勢いよく割り込むアレキサンダーに、「お前の方がジジイだろ、ジジイ」とレオポルドが律儀に合いの手を入れた。もしかして仲がいいのかもしれないわ、この二匹。
「ジジイの言う通り、今もひっきりなしに領から人が来てるぜ。婚約者との約束の日だろうがおかまいなしだ。しかも、だいたい朝イチで来る。坊ちゃんは『せめて直接謝って、贈り物だけでも渡す』って毎回席を外して、馬で婚約者の家へ爆走だ」
なるほど、それで当日に目の前でドタキャンね。確かに、会って謝るならそうなるか……朝っぱらから身支度の調わない貴族令嬢に面会しに行くとか、超絶失礼だしスケベ野郎扱いされちゃうもんね。
「うむ、仕方ないことだわい。領のまとめ役たちの不信を買うわけにはいかんからな。あれじゃろ、その後は部屋で顔を付き合わせて、延々とブンカツやらクリノベやら、あー、あとはウリカケやら、あーでもないこーでもないと話していたのじゃろ? わしは記憶力もバッチリじゃぞ!」
アレキサンダーが、枝の上で左右に揺れながら胸を張った。
「ええと、それで元凶となった当主は……?」
おそるおそる聞いてみれば、その当主本人は後始末の報告だけ耳に入れて、相談は「よろしく頼む」でまるっきり他人事。大きな壺をウキウキと眺めているらしい。そして夫人は我関せず……なるほど。
「あのクソオヤジ、面倒はぜんぶ坊ちゃんに丸投げするくせに、当主印だけは渡さねぇんだよ。おかげで坊ちゃんの手間は増える一方だ。ああ、あいつのケツに噛みつきてぇ」
天に向けてガパッと大きく口を開きながら、レオポルドが尻尾で地面を叩く。
「そういえば……先だって、当主が自分のキネンカンを建てたいとか何とか、窓辺で言っておったなぁ」
「……は?」
首を傾げて思い出したようにそう言ったアレキサンダーに、思わず間抜けな声を上げてしまった。
は? この上、自分の記念館? 寝言か? どんだけお金かかるのよ。ってか、何の記念よ。ただ見せびらかしたいだけでしょ。
口を開けたまんまの私に、全員の視線が集まる。なので私は記念館について説明した。
「「「……は?」」」
一斉に同じ反応が返ってきた。だよねー。
「もうさぁー、その当主いらなくねぇ?」
トンッと地面に降りてきたカークが、そう言ってキョロリと見上げてきた。いやほんと、私もそう思うわー。でもねぇ……。
「また王妃陛下にガツンとやってもらえばよくない?」
「いや、無理でしょ」
即答してしまった。
確かに子爵夫妻は色々とやりたい放題だけど、表だって問題は出てないし、法も犯してない。良くも悪くも、子息が頑張っちゃってるから何とかなってしまっている。少なくとも今はね。
こんなの王妃陛下だって動きようがないでしょ。そもそも、どう伝えるのよ。無理無理。
とはいえ、決定的に破綻するのを待つのは……子息が不憫すぎる。
「ああもう! なんであんなのが当主なのよ。誰かガツンと言ってくれる人はいないのかしら」
ベシベシと、前足と尻尾で地面に八つ当たりをすれば、「ふむ」と木の上のアレキサンダーが身体ごと首を傾げる。
「もし言えるとしたら、先々代くらいかのう」
「んもう! 亡くなってる人じゃ意味ないじゃないのよ」
そりゃ先代にも厳しかったらしい先々代がいれば一番――。
「ん? 先々代はまだピンピンしとるぞ?」
…………え?
「「「ええぇぇーー?!」」」
私とカーク、そしてレオポルドの声が、広い空に吸い込まれていった。
いやいやいや、生きてるならそう言ってよー、と脱力する私に、「いや、死んだとは言ってないが?」とアレキサンダーがキョトンと瞬きをする。そりゃ、言ってないけどさぁぁ。
聞けば、先々代はおん年八十一歳。十五年前、ひ孫である子息が三歳になるまで見届けて、その後は領地の山奥にある別荘で隠居生活を続けているのだとか。ちなみにその息子である先代は間違いなく亡くなっている。不摂生が祟ったらしい。
「先々代は鉱石が好きでなぁ、今の領地の鉱山も先々代が若い頃に掘り当てたのよ。それで子爵位を賜ったんじゃ」
……そうですか。骨董と芸術の前が鳥とバラで、その前は鉱石マニアでしたか。
「たぶん今も別荘のあるローデン山で、元気に鉱石集めや鉱脈探しをしとるぞ」
げ、元気なお爺ちゃまなのね……。ぜひともお目にかかって協力を仰ぎたいわ。というか、もうその手しかない気がする。
「よし! 私、その先々代に会いに行くわ。会って、どうにかして王都に来てもらう!」
私の宣言に、周囲に盛大な羽音やら、尻尾を振り回す音が響いた。ここまで来たら、もう行くしかないでしょ。
私はアレキサンダーから、領地の場所とローデン山の方角をザックリと聞いて、ついでに子爵領で今の時期に食べ頃なオススメの木の実を教えてもらう。うん、ついでよ。ついで。
そして、そろそろ邸宅の方を気にし始めたレオポルドに、私は大切なお願いをする。
「何か、子息のものだと分かる物を貸してほしいの。できれば先々代も知ってるような、家紋入りか……昔っからあるようなもの。私が持ち運べる大きさがいいわ」
私の言葉にレオポルドはしばらく考えて――そして、ふいにハッと目を見開いた。
「ある、あるぞ。丁度いいのが」
純白のふっさりとした尻尾を踊らせるレオポルドいわく、それは子息の部屋の引き出しに仕舞われた小さな革袋で、どうやら中には鉱石を彫って作った子供用の印章が入っているのだそうだ。
「俺は中身は見たことねぇが、提げ紐のついた小汚ぇ革袋でな、ずうっと前に坊ちゃんが『ひいお爺様に頂いたものなんだ』って家庭教師に話していたのを聞いたぜ」
やだ、本当に丁度いいじゃない! それを借りましょう。
私はレオポルドに、それを明日の城の開門の鐘が鳴るまでに用意してほしいと頼んで、今日はもう城に戻ることにした。
だって明日は遠出をするんだもの。しっかりと腹ごしらえして睡眠をとらないとね。確か今夜のメニューは鴨肉のロースト……あ、よだれが。
「ニャッ」
私は邸宅に駆けていくレオポルドの背中と鳥たちに別れを告げて、足取りも軽くディナーが待つ城へ――っと、その前に……うん、一応ちょっとだけ見ておこうかな。その頑張りすぎのドタキャン子爵子息くんのお顔を。
だって明日は遠出だもの。何のために山を越えるのか、この目で見ておきたいじゃない? 確認よ、確認。チラッと見るだけ……。
私は必要もない言い訳を胸の内で転がして、そっと屋敷の壁際へと回り込んだ。
「紙の部屋なら、あっちの一階の角じゃぞ」
いつの間にかすぐ横の木に来ていたアレキサンダーが、クイッと嘴を向ける。……察しがよすぎ。年の功かしら。
邸宅の壁際を進んで、私は教えられた窓の下で跳び上がった。軽く雨樋を蹴ってから、張り出した窓の桟へ音もなく着地……ふっふ、気分は忍者ね。
覗き込んだ室内は、思っていたより薄暗い。まだ夕暮れには間があるのに、この部屋だけ先に暮れかけているよう。この窓のほとんどが書棚と、積み上がった箱で塞がれているせいね。
執務机の上には、書類や封筒の束がいくつも山になっている。その隣に開かれたままの帳簿。開けっぱなしのインク壺の横には羽根ペンが数本転がっていて、ペン先が潰れているものもある。
そして部屋の隅……壁際のソファの上では、若い男が身体を沈み込ませていた。
――ああ、あれが例のご子息ね。
上着も脱がず、靴すら履いたまま。まるで身体の半分を投げ出すようにしてソファに寝て……いや倒れている。床に垂れたままの片腕はピクリとも動かず、インクまみれの指の先には、落ちたらしい書類が散らばっていた。
あれは、どう見ても寝落ちね。寝ようとして寝たんじゃなく、限界で落ちたんだわ。
部屋の薄暗さに目をこらせば、子息の目の下には濃い隈が刻まれている。そして眠っているのに眉間には強く皺が寄っていた。
……確かにここは紙だらけね。紙の部屋だわ。でもどう見ても紙好きじゃあないわよね? 紙好きならあんな顔で寝ないでしょうよ。アレキサンダーったら老眼かしら。
まったく……と内心で溜め息をつきながら、私は視線を子息から離し――ふと、視界の端に映り込んだ美しい色味に目を留める。
それは、机の書類に埋もれるように置かれた小さな箱。
柔らかな色合いの包装紙で丁寧に包まれ、金の縁取りのリボンが結ばれた小箱だ。きっと婚約者の令嬢への贈り物だろう。
思わず乗り出した私の額に、窓ガラスが当たりそうになって慌てて踏みとどまった。
と、その時――部屋の扉が静かに開いた。
ふわりとした真っ白な長い毛が、扉の隙間からスルリと入ってくる。レオポルドだ。
薄闇の中をゆっくりと横切った彼は、ソファの前まで来ると、床に垂れた主人の手をペロリと舐めた。そしてソファの脇にそっと身体を伏せると、長い鼻先を前足に乗せて動かなくなった。
……そっか。レオポルドはこれを守ってたのね。
そりゃあ、ギャーギャー騒ぐなって怒るのも当然だわ。
私はもう一度だけ眠る子息に視線を向けると、できるだけ静かに桟を蹴ってその場を離れた。
……うん。これはもう何が何でも、山に行ってオジジ様を引っ張ってこなきゃね!




