穴埋め屋の日常
ギルドの受付カウンターは、いつも通りの喧騒に包まれていた。剣や盾を鳴らす冒険者たちの笑い声、依頼書をめくる紙の擦れる音、受付嬢が忙しなくペンを走らせる規則的なリズム。それらが混ざり合い、活気と混乱が入り混じった独特の空気を作り出している。
そんな中、カウンターの隅っこで、一人の男がじっと立っていた。背は平均よりやや低く、痩せているわけでも太っているわけでもない。ぼさぼさの茶色い髪に、使い込んだ革のジャケット。腰にはツルハシと測定棒。彼の名はロス・グレイヴァー。ギルド登録ランクは、最も低いF。
「ロス、またお前か」
受付嬢のリリアが、呆れたような声で言った。彼女は赤茶けた髪を後ろで一つに束ね、いつも忙しなく書類を整理している。今も右手にペン、左手に依頼書の束を持ったまま、ロスを見上げている。
「5層の東階段が崩れた。直してくれ。報酬は銅貨5枚だ」
リリアがカウンターの上に依頼書を置く。他の冒険者たちは、銅貨5枚程度の仕事には見向きもしない。彼らが求めるのは金貨単位の報酬だ。しかしロスは、その依頼書を手に取り、口元を緩ませた。
「いいよ。穴埋めなら任せて」
「……穴埋め屋ね。いつも思うけど、君はもっと戦闘職を目指した方がいいんじゃない? Fランクから抜け出せないよ」
リリアの言葉は、半分は本気で、半分は心配だった。彼女はこのギルドで5年働いており、ロスもその間ずっとFランクのままだ。他の冒険者がランクを上げては去っていく中で、彼だけはいつも同じ場所にいる。
だがロスは、軽く肩を竦めるだけだった。
「戦えないしね。でも、これで生活できてるから」
「……まあ、いいや。気をつけてね」
リリアはそれ以上は言わなかった。彼女もロスの性格をよく知っている。無理に戦わせようとしても、本人がやる気にならないのだ。
ロスは依頼書をポケットにしまうと、ギルドの裏口へと向かった。冒険者たちが行き交うメインホールを抜け、石造りの狭い通路に入る。そこから先は、ダンジョンへと続く入り口だ。
通路の壁には松明が等間隔に設置されており、揺らめく炎が影を落としている。ロスはその光の中で、自分の道具を確認した。ツルハシは先月自分で鍛え直したものだ。柄の握り具合も調整済み。測定棒は伸縮式で、変形させれば様々な形状を測れる。
「さて、5層か……階段の崩落ね。あんまり酷くなければすぐに終わるけど」
ロスは呟きながら、階段を下り始めた。ダンジョンは全部で100層あると言われているが、ロスが普段活動するのはせいぜい10層までだ。それより深いところには、危険な魔物が生息している。
1層、2層……と降りるごとに、空気がひんやりと変わっていく。壁面は粗い石材から、次第に滑らかな岩盤へと変わる。魔物の気配も少しずつ濃くなるが、ロスは気にしない。彼は戦わない。戦う必要がないように動くのだ。
5層に着くと、東側の階段が確かに崩れていた。幅2メートルほどの石段が中央からぽっくりと欠け、周囲に瓦礫が散らばっている。おそらく何かの魔物が通った際に破損したのだろう。
「うーん、まあまあ酷いな。でも直せる範囲だ」
ロスはしゃがみ込み、割れた石材の断面を指でなぞった。指先がかすかに光る。それは彼の持つ唯一の戦闘以外のスキル——『圧縮形成』の発動だ。
このスキルは、物質を圧縮し、任意の形状に成形する能力。石材であれば、密度を高めて鋼鉄並みの硬度にすることもできる。ただし、戦闘には使えない。何しろ発動に時間がかかるし、対象に触れていなければならないからだ。
「よし、まずは大きな塊から」
ロスは散らばった瓦礫を集め、掌で押し固めるようにして新しい石材を成形していく。まるで粘土をこねるような感覚だ。欠けていた階段の部分に、みるみるうちに新しい石が盛り上がっていく。
「次に表面を整えて……滑り止めの溝を入れて……」
数分後、元の階段よりも頑丈そうな階段が完成していた。表面は磨かれ、滑り止めの溝が等間隔に彫られている。崩落した部分は跡形もなく、まるで最初からそうであったかのようだ。
「よし、これでOK」
ロスは立ち上がり、ツルハシを担ぎ直す。報酬は銅貨5枚。安いと言えば安いが、彼には十分だ。何しろ戦闘装備も消耗品も必要ない。必要なのは、食事と寝る場所だけだ。
階段を上がりながら、ロスはふと足を止めた。さっきまで作業していた場所から、少し奥へと続く通路が見える。そこはまだ補修が行き届いておらず、壁にひびが入り、床もでこぼこしている。
「……あそこもそのうち直さないとな。でも今日はもう終わりだし」
彼はそのまま地上へ戻ろうとした。その時、後方から若々しい声が聞こえてきた。
「おい、あのFランクの生産職が補修中だってさ。邪魔だな」
「気にすんな。俺たちはSランクを目指すエリートだ。こんな浅い層で足止めされてる暇はない」
ロスが振り返ると、真新しい装備に身を包んだ若者たちのパーティが、修復したばかりの階段を無視して別の通路へと入っていく。彼らの装備は高価そうだが、手際はぎこちない。明らかに初心者だ。
ロスは特に何も言わなかった。ただ、胸の奥で小さな違和感が芽生えた。
「……あの先は、まだ補修が行き届いてないエリアなんだけどな」
その呟きは、誰にも届かなかった。
ロスは肩を竦め、再び地上へと歩き始めた。今日の仕事は終わった。あとはギルドに報告して、銅貨5枚を受け取るだけだ。明日もまた、どこかの穴を埋めるのだろう。それが彼の日常だった。
誰も気にしない。彼も気にしない。
ただ、その日のダンジョンは、何かが変わろうとしているように、低く唸っていた。




