EP390:伊予の物語「噤口の大臣(きんこうのだいじん)」 その8~伊予、左大臣の本心を確信する~
意気込んでると、
ギッ!!
車輪がきしむ音がして、牛車が停まった。
竹丸が検非違使庁の中に入った気配がして、静かになった。
しばらくすると、竹丸の声で
「いいから乗ってください!せっかく迎えに来たのに!若殿の疲れをいやすためにとっておきの贈り物を用意しました!車の中にありますっ!!」
低い硬い、懐かしい声で
「何だ?怪しいな?何を企んでるっ!!こんな短い距離で牛車を出すなんてっ!全くお前らしくないっ!!」
警戒心まる出しの会話。
パッ!
後簾がめくり上げられ、明るい月の光が差し込んだ。
怪訝な表情で見つめる兄さまと目が合った。
「はやくっ!!」
呆然とする兄さまの背中を竹丸が押すと、躊躇いがちにオズオズと中に入った。
私は兄さまがゆったり座れるように、少し奥に入って座り直し、向かい合って座る。
お互い目を合わせず、俯く。
「ずっと勾留されていて、体は大丈夫でしたか?」
「ああ。心配してくれてありがとう。食事も睡眠も充分だった。巌谷もいるしね」
「あの、なぜ、黙秘してたの?伊勢が黒幕だって気づいてたんでしょ?」
おそるおそる顔を上げ、俯く兄さまを見つめる。
冠からこぼれた、玉のような額に落ちる後れ毛がいつもより多い。
筋の通った鼻、筆で引いたような目元には疲れが滲んでいた。
数日間の勾留のせいか、いつものような香しい薫物の匂いは薄まり、むせかえるような男らしい体臭が鼻孔を満たす。
兄さまの体臭は、どんなに強くても嫌じゃない。
というか、鼻を体にくっつけてずっと吸い込みたくなる。
官能的な興奮を、身体の奥から引き起こす、魅力的な匂い。
やっぱり、触れたくなった。
頬に、胸に、頸に、口づけたくなった。
体の芯が熱を持ち、潤む。
兄さまが俯いたまま
「ああ。でも伊勢を告発すれば、上皇に真っ向から刃向かうことになる。伊勢が囚われても、裁かれる前には証拠を消されて無罪放免になるだろう。」
「兄さまの無実は証明できたのよね?捕まった商人たちが窃盗犯人ってことになるの?」
ウンと頷き
「貴族達の屋敷から盗まれた品物を売りさばこうとしてたんだから、証拠はそろっているしな。」
ハッ!
何かに気づいたように顔を上げ
「浄見がっ!商人たちを捕まえてくれたんだな?策を練って?竹丸が言ってたが。」
ウンと頷くと、ギュッと眉根を寄せ苦痛の表情で
「ありがとう。でも、危ない目に遭うようなことはしないでくれ。私は大丈夫だ。いざとなったら全て打ち明けるつもりだった。もう、私に構う必要はない」
ウウンと首を横に振り
「だって!いつも助けてくれたでしょ?恩返しもしてないのに、黙ってみてられなかったの!竹丸が、兄さまは自暴自棄になってるって言うから、心配だったの。」
「このまま、左大臣を辞任してもよかった。政から退き、引退してもよかった。全てを忘れて、田舎に引きこもってもよかったんだ」
えぇ?!
やっぱり竹丸の言う通り、家族も地位も捨てる覚悟だったの?
焦って
「ダメッ!家族や周りの人たちを見捨てないでっ!!私だって悲しいしっ!」
目を逸らしたまま、下唇をかみしめ、ボソリと
「もう、降りる。歩いて帰るから、浄見はこれで内裏へ帰るといいよ。じゃあ。」
「ダメッ!兄さまの車でしょっ!!私が下りて歩いて帰るからっ!!」
兄さまが背を向けた袖を
グッ!
掴んで引っ張り引き留め、その横に体を入れて、先に牛車の後ろから降りようとした。
兄さまの胸に、肩が当たり、熱と、体臭が強く漂った。
ギュッッ!!
思わず両手を伸ばし、兄さまの胸に抱き着いた。
顔を胸に埋め、頬を強く押し当てた。
「傷つけてごめんなさい。あなたと付き合ったことを後悔なんてしてない!まだ好きなの。」
固まったように、体を硬直させ、低い声で
「浄見、私は二度と浄見には触れないと誓ったんだ。
困ったときはいつでも頼ってくれていい、これからも、浄見を守るつもりだ。
だけど、それは、兄として妹を守るという意味だ。
もう、二度と、恋人にはならない。
二度と、浄見を・・・・傷つけない」
イヤッ!!!
胸から顔を上げ、頬を両手で包んだ。
鋭い顎の骨の感触と、汗ばんだ皮膚と、ザラザラした、伸びかけた髭の感触。
愛しい、失いたくない、たった一人の人が、すぐそばにいる。
この手に触れている。
その実感で、胸が苦しい。
鼓動が速く打ちすぎて、興奮しすぎて、身を震わせながら、唇をゆっくり、唇に近づける。
触れそうになっても、まだ、硬いままの兄さまの表情に違和感を覚え、動きをピタリと止めた。
感情の無い、岩のように、硬い、巌とした表情。
ハッ!
急に、自分のしていることが恥ずかしくなって、慌てて手を放し、身を後ろに引いた。
無理やり、口づけようとした。
愛されてもいない
わずかな感情も動いていない
人に、
一方的に
口づけようとした。
惨めだった。
情けなくて、恥ずかしかった。
兄さまはもう、私を愛していない。
ハッキリと分かった。
二度と、恋人には戻れない。
身じろぎもしない、硬い、無表情が、そう語っていた。
何をどう頑張っても、
二度と、兄さまの心を、私に向けることは、できない。
頭の片隅に、鈍い痛みとともに、その確信の火が点った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
近江国の琵琶湖(淡海)でとれる淡水真珠がこの時代は輸出品になったそうです!
肥前国・伊勢(志摩国)は真珠、信濃国は火山で採れる硫黄、紀伊国・越前国・越中国は漆が有名で漆塗り工芸品が名産品だそうです!