3−1: 退院
患者のリハビリは最後の段階になっていた。
患者は病室から、そして俺は制御室から、サンド・ボックスに入っていた。
「聞こえるか?」
「あぁ、聞こえる」
「よし、ではデータ展開」
「来たぞ! まだ酔いそうだ」
「吐くなよ。窒息するからな」
「あぁ」
スーパー・バイザ・モードで、患者の視聴覚を俺の周囲に展開させた。
「最後のリハビリだ。周りをよく見てみろ」
「周りったって、これはいつもと変わらないぞ?」
「よく見ろ。いや違う。見るな。展開されたデータをそのまま脳に押し込めてみろ。どうだ?」
「どうって…… あ、これか? いつもと違って全方位に奥行きがある」
「それだ。いいか、奥にあるデータを読んでみろ」
患者は、右手の方向のデータを手繰り寄せ始めた。
「違う。手繰り寄せるな。それがあるその場所のまま、そしてお前は今いるその場所のまま、そのデータを読め」
「そんなことできるわけが」
「できる。俺はやっているからな。視点を入れ替えるぞ。見てみろ」
俺は自分の感覚に戻り、患者をスーパー・バイザ・モードでの視聴覚へと移した。同時に患者が見ているスーパー・バイザ・モードでの視聴覚を、前方右上のウィンドウに表示させた。
「今は、俺にできることを見せるだけだ。φ 2.356、θ 0.524、r 0.792のデータを読み上げるぞ」
俺はそこにあるデータを読み上げた。患者の視点は、直接その位置に言っていることもわかった。
「どうだ? 普段は座標指定などしないが」
「あんたの視覚の視線は前を向いたままだった」
俺は、また患者の視聴覚を患者のものに、そして俺の視聴覚をスーパー・バイザ・モードに入れ替えた。
「今見たことをできるようになれ」
「どうやって?」
「これまでどおりだ。奥行きの感覚だけ掴めばいい。やれるな?」
「やってはみるけど」
「やれ」
そう言い残し、俺は抜けた。あとは制御室の端末で見ていればいい。
患者がそれができるまでに時間はかからなかった。三日というところだった。
そうして訓練も終わり、患者は退院して行った。裏口、というよりも制御室を通し、そこから地下へ、そして1ブロック離れたビルからだった。制御室を通すのは気になったが、最後の土産に環境を見せておくのも悪くはない。製薬会社に知られる可能性はあるが、ビズをするならどういう環境が必要かくらいは見せてやってもいい。生き残る可能性を高めるリハビリの仕上げだと思えばいい。
俺はその道を逆に戻り、診察室へと入った。
「首尾は?」
医者が訊いてきた。
「まぁ、大丈夫だろうよ」
「リハビリは?」
「そっちは間違いなく大丈夫だ」
「そうか」
医者はしばらく無言だった。俺はソファーに腰を下した。
「あの患者はどうなると思う?」
「そうだな…… hdMRIやhdCATやらで精密検査。そしてなにも見つからない。検査台に縛りつけられて、各種刺激を与えながらのhdMRIやhdCATでの検査。やっぱりなにも見つからない。最後は薬の大量投与のおまけ付きで同じ。長くて二ヶ月というところか」
「二ヶ月か? 私は三ヶ月と見込んだが」
「薬の量次第だろうな」
医者はまたしばらく無言だった。
「私は医者だ。そうなるのをわかっていて放置するのは……」
「だったら最初から契約しとけばよかったんだ」
「だが、私の施術にはなんの秘密もないんだぞ?」
「だとしても、あっちはその秘密がお望みだ」
こっちだって、そう気分のいいものじゃない。だから……
「追跡は可能か?」
「あぁ。訓練プログラムに戻って画像と音響から、炭素基体微細回路素子に追加のプログラムを植え付けた。あっちが完全クローズドでないなら、状況のモニタと位置くらいはな」
「他には?」
「やりたきゃ、物理的にビー、フライ、ワームでの探査や中継も可能だが」
「どれくらい必要だ?」
「さてね。無数に」
「用意しよう」
「いいのか? 持ち出しになるんじゃないか?」
「なに、助かったなら追加料金を請求するさ。拒否はしないだろう」
「それはどうかな? 了承しても、無茶なビズをするかもしれないぞ?」
「それは関与しない。お前に対してと同じようにな。だが、壊されるとわかっていることに手を打たないでいることは……」
「なんだよ」
「医者の良心として許せない」
「言ってろ」
俺は笑った。そして気付いた。
「先生、『お前に対してと同じように』と言ったな? 俺にそれを手伝わせるつもりか?」
「言ったとおり、私は関与しないよ。君がどう思うかだ。それに追加のプログラムを埋め込んだんだろ? それはなんのためだ?」
そりゃぁ、後味が悪いからに決まってる。
「わかった、そうなったら手伝ってやるよ」
「だが、まずは彼の状態の把握ができるようにして欲しい」
俺は立ち上がり、制御室への壁へと歩いた。
「これもそれも、無償じゃないぞ」
「そうだ、言い忘れていたことがある」
俺は壁の前で医者に振り向いた。
「複数の炭素基体微細回路素子をパラレルに、かつ連携して稼働させることができるようになった。まだ動物実験の段階だ」
その言葉に興味を惹かれた。
「安全は保証できない」
「乗りこなせばいいんだな?」
「それに臨床データも必要だ」
俺は壁に向き直りボタンを押した。
「充分な報酬だ」
そう言い、俺は制御室へと入った。
補:
φ、θ、rについては、球座標を参照しています。球座標については、どこかで参照してください。
ロール、ピッチ、ヨーを使うことも考えましたが、その場合ピッチ軸とヨー軸を使うかもしれません。ピッチはφ、ヨーはθになるようです。おおまかなところ、φとθが現わすものが逆になる感じのようです。
また、φ、θともラジアンで書いています。
rについては、球座標そのものが半径 1として考えています。