23 馬車内の一幕
銀色の飛翔船が荒野の上空に浮かんでいる。船体が朝日の光を弾き、それはまるで真昼の星のようにも見えた。荒野の上空を、高度を保ちつつ揺蕩うようにゆっくりと飛行しているのだ。
船体の所々に見える硝子張りの部分――窓から、中を忙しく動き回る人々の姿が垣間見えた。窓に寄り掛かり、地上を見下ろしているのは十四、五歳の黒髪の少年だ。
ただそこを揺蕩っているだけかと思いきや、飛翔船は動きを見せた。大きく旋回し、古い砦を目指して降下していく。浮遊の術式が仕込まれたアルナー水晶を湯水の如く使う飛翔船は、空気に漣一つ立てることなく優雅に着地した。
ヒースを押し潰しながら着地した飛翔船の上構から、一人の少年が気怠げに甲板に出た。黒髪に濃灰色の目の、窓に寄り掛かっていた少年である。どうやら船底にある空間と上構が繋がっているようだ。
少年は甲板の手摺りに寄り掛かって、彼の正面の地面の一点をじっと見詰めた。それから振り返り、やはり気怠げに、彼に続いて甲板に出て来た数人の船員に向かって言った。
「俺、降りるわ」
は、と折り目正しく答えた船員たちの態度から察するに、彼の地位は高いらしい。
甲板に渦を巻くようにして置かれている太い縄を、少年は拾い上げ、無造作に船の下に投げた。縄の片方の端は手摺りにしっかりと括り付けられているため、その縄を伝って地面に降りることが出来る。
「よっと」
気怠げな所作からは俄かには信じ難い身軽な動作で少年は縄を持って手摺りを越え、両足を船体に突きながらするすると縄を伝って降りていく。
船員たちが手摺りに近寄り、その様子を見下ろした。少年が転落することを危ぶんでいるような表情ではなく、それとは違う深刻な懸念を各々瞳に浮かべている。
少年の降り方は、飛翔船の乗り降りの仕方としては正しい方法の一つである。船員全員が乗降するときや荷物を運び入れるときなどは、船体の後ろが巨大な上げ戸のように開く仕組みが用いられるが、一人だけが乗降する際にそのような大仰な仕掛けを動かすのは適当ではない。
「よっ……と」
最後の数メートルを飛び降りて、少年は怠そうに首を回す。溜息を零し、ゆっくりと彼は歩き始めた。
ヒースを掻き分けるのも面倒そうに荒野を歩く彼は、砦近くで倒れる少女の傍で足を止めた。
ヒースの中に埋もれるようにして、氷の槍に貫かれて倒れている少女の顔色は蒼白。赤金色の髪が顔の周囲に打ち広がって、また首元では紅玉が輝いていて、その顔色の悪さをいっそう際立たせていた。
「…………」
少年がしばし黙り込んだのは、彼女にまだ息があるかどうかを危ぶんだためだった。だが彼は、恐る恐るといった仕草で彼女に突き刺さる氷の槍に触れる。
少年の指先に魔力が集中し、指先ほどの大きさの小さな魔法陣が一瞬だけ浮かび上がった。次の瞬間、僅かに光を発してさらさらと氷の槍が光の粒子に姿を変えて風に掻き消える。
「――やっぱ空人かぁ」
少年は憂鬱そうに呟き、続いて屈み込んだ。そっと少女の傷に手を当て、治癒魔術を行使する。
彼女の血管や傷付いた組織全てが、力技で無理やり修復されていく。
次に少年は魔術を元素系のものに切り替え、根気よく少女の身体を温め始めた。
朝の風が荒野を渡り、ヒースをさやさやと揺らす。数十分がそのまま経過したが、少年は嫌な顔一つしていなかった。
少女の顔に徐々に赤みが戻っていく。
「う――」
少女が呻いた声を聞き付け、少年は安堵に顔を緩め、すぐに取り繕ったような仏頂面をした。魔術を打ち切って、軽く咳払いをして、ぶっきらぼうな声を出す。
「――おいアディエラ、起きろよ」
アディエラは薄らと目を開けたが、焦点が定まっていない。ただ、彼女は吐息に紛れる声で囁いた。
「――ジーク、ベル……ト……?」
「ん、俺だよ」
そう答えて、ジークベルトはアディエラを矯めつ眇めつして顔を顰めた。
「やられたな。いつやられたの?」
アディエラは浅い息を吐き、苦しげに苦笑した。答えるどころではなく、ジークベルトは自分で結論した。
「こりゃあ、昨夜ってとこ?
捜しに来て良かったよ、感謝しろよ。放り出したハッセラルトには悪いけどさ」
アディエラの目が初めて焦点を結び、そしてそのまま彼女の瞳が揺らいで涙が溢れた。ジークベルトは取り立てて驚いた様子もない。ただ、頬を掻いて呟いた。
「――ご立腹だぜ」
アディエラの喉から細い嗚咽が漏れ出した。
「わた、くし――失敗、して……」
「知ってる」
ジークベルトは端的に言い、溜息を吐いた。
「俺が戦えなくなるくらいに俺の魔力までそっちの紅玉に割いたってのに、んだよ。この結果」
拗ねたように唇を曲げて、ジークベルトはぼそぼそと詰る。
「レーシアさまが宝具と〈糸〉を繋ぐのを見届ける。んでから、樹国の魔術師どもを始末する。そういう役目じゃなかったっけか。出来るって言ったから俺はあいつを送って来たのに、あの方からあんたが失敗したって聞かされて……」
ぽろぽろと涙が零れるのを見て、ジークベルトは口を噤む。それから間を置いて、はっきりとした声で言った。
「あの方の言ったことを伝えるけど。
――失望なさったってさ。俺の役目がまだ残ってるから、それが終わるまで控えてろって仰った。俺のが終わったら戻って申し開きをするようにって」
立ち上がり、ジークベルトは指先を軽く振る。念動系の魔術が発動し、アディエラの身体を持ち上げた。それから彼はついでのように言う。
「ハッセラルトがしくじれば、申し開きも二人で出来るな?」
アディエラが泣きながら首を振る。
それにジークベルトは困ったように頭を掻いて、肩を竦め、ようやく伝える。
「――まぁ、無事で良かったよ、アディエラ姉ちゃん」
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残して来た仲間たちに合流するためにも、一行は来た道を引き返していたが、来たとき程の強行軍を敢行する気にはなれない。だがそれでも馬車は並み以上の速度を出していた。
なぜならば、一度寝て頭がすっきりとしたアトルが気付いたからである。
――アディエラは樹国の者を始末するつもりで現われた。そうであるならば、これから合流しようとしている樹国の者たちは?
先の先頭で傷付いたのは殆どの者がそうであって、回復した者もいるだろうが、それでも町一つ壊滅させるような化け物の仲間が向かっているとすれば、戦力的には厳しいだろう。むしろアトルたちが出発してすぐに襲われた可能性すらある。
その考えに至って慌てて通信の魔術を用いて安否を確認したところ、実際には町に襲撃が及んではおらず、また警戒を強めるということだった。
だが実際に襲われれば、アディエラはなぜかカエルム相手に無抵抗だったからいいようなものの、あちらにそう都合よく奇跡が起きるとは考え辛い。
アトルとしてはレーシアの安全を重視して、合流を避けることを提案したかったのだが、襲われているかも知れない彼らの中にはグラッドもいる。〈インケルタ〉もいる。そうそう見捨てるわけにはいかない。
アジャットたちにも無論、見捨てる選択肢はなかったが、ディーンたち樹国の者たちがあっさりと合流を避けようとした。
その情を捨てた合理主義、いっそ見事である。
ディーンたちとアトルたちが激しく言い争った末、まず遠目に現状を確認し、どうにもならないようだったらその場で逃げる、という形に落ち着いた。
しかし、馬への負担を軽くするため、敢えて少人数で宝具を目指すことを選択したことは事実だ。無傷に近い者も残してきた者も中にはいる。
リリファがわざわざアリサを人質に取ることを提案したのは、残った樹国の者たちに怪我人が多いこともあるが、それよりも物理的な距離を懸念したことも大いにあるのだ。つまり、アトルたちがどのような行動に出たのかを、ディーンたちが残った樹国の者たちに伝達することが阻まれる事態を憂慮したのだ。
たとえ襲われたとして、リリファたちが善戦する可能性も十分にある。それゆえ、このような合意に達した。
レーシアはやはり記憶が混乱し、数度、カエルムやトニトルスによって馬車が停められた。
しかし、レーシアがアルファーナ高原で封具と〈糸〉を繋いだときと比べて、アトルもレーシアのことをより多く知っている。何よりも以前に同じ状態になったことがあるのを見ていたことが大きく、レーシアが取り乱してもそこそこ冷静に対応することが出来た。
「ねえ、あれってどういう状態なの?」
この場にいる中で唯一、宝具のことも封具のことも、まして〈器〉のことも知らないアリサが、何度目かに取り乱したレーシアをアトルが宥めるのを見ながら尋ねた。
他者の記憶に侵害されている今、レーシアの取り乱しようは、何も知らない者が見れば異様なものだ。
「――説明するのは難しいな」
問われたアジャットは腕を組んでそう返し、アリサはさすがに面白くなさそうな顔をする。
「なーんか、すっごく蚊帳の外って感じだわ」
彼女の菫色の目が見る先で、アトルは懸命になってレーシアを宥めようとしていた。
「レーシア、おまえはレーシアだ」
レーシアは、泣きこそしていなかったものの、ひどく途方に暮れた様子だった。
「――お姉さんがいなくなってて……」
「お姉さんってなんだよ。おまえが捜してるのはサラリスって人だろ」
アトルからすれば悔しいが、レーシアを正気に戻す一番の方法は「サラリス」の名前を出すことだ。
今も、レーシアは瞬きをして呟く。
「……サラリス……」
アトルは短く息を吐いた。
「――サラリスって人は、どんな人だ?」
「優しい人よ。ちょっと口うるさいけど」
レーシアは即答し、アトルは会話を続けるためだけに重ねて訊いた。
「どんなときに口うるさくなるんだ?」
「私が甘いものを食べ過ぎたとき。それと、夜更かししたとき。仁王立ちで怒られたことがあるわ」
アトルは頷いて、二人称に強勢を置いて言った。
「おまえは甘いものが好きなんだな。じゃあ、サラリスって人は?」
「甘いものが好きよ。私と一緒」
レーシアは微かに笑みを浮かべた。宝具の記憶の影響で心細い表情が多くなっていた彼女の笑みは、微かなものであれアトルを和ませた。
「じゃあ、嫌いなものは?」
レーシアはおかしそうに笑った。
「魚介は嫌いみたいだったけど、私の前では平気な振りして食べてたわ」
「そうか。じゃあ、他にサラリスって人が好きなものは?」
レーシアは思い出すように遠くを見る眼差しをした。いいぞ、とアトルは拳を握る。自分のことを思い出そうとしている限り、記憶の混乱は抑えられるはずだからだ。
周囲も、事情の分からないアリサを除いて、アトルに応援の眼差しを送っている。
「紅茶かなぁ。私はよく分かんないんだけど、行商の人と語り合ってたことがあるわ。それから花も好き」
アトルは思わず尋ねた。
「おまえは?」
レーシアは首を傾げる。その拍子に濃紺の髪がふわりと揺れた。
「紅茶?」
「いや、それはよく分からねえんだろ? 花の方だよ」
アトルの問いに、レーシアは難しげな顔をした。だが、それがレーシアの普段の表情だとアトルには分かる。決して、宝具の記憶を刺激してしまったわけではないと。
「――う、うん。好きだけど……お菓子との二択を迫られたら、お菓子、かな」
アトルは思わず笑った。話を聞いていた周囲も、アリサも含めて笑った。
レーシアはむっとした顔をして周囲を見渡す。
「ひどい! 今まで黙ってたのにここに反応するところが何よりひどい! ――そういえばこれ、吟遊詩人のお兄さんにも笑われたことある!」
レーシアはそのことを思い出したのか、ますます顔を顰めた。
「リンフィーなら花を選ぶねって言われたのよ!」
レーシアが半泣きで叫んでいたので、アトルもリンフィーの名は覚えている。
「いいじゃねえか、おまえはおまえなんだから」
しかしレーシアはもの思わしげな顔をする。
「でもねぇ、食べ過ぎたら私だって太るし……サラリスは別に、太ってても気にしないらしいんだけど」
「サラリス」の名前が出て来たので、アトルはまた質問をする。
「サラリスって人は、太ってたわけじゃないんだろ?」
「そんなわけないでしょ! 美人よ!」
怒鳴られ、アトルは苦笑する。
「悪かったって」
「サラリスはね」
レーシアは「サラリス」の名誉を守るべく語り始めた。
「銀色の長い真っ直ぐな髪で、肌が白くて――そう、陶磁器みたいな肌の人! 目の色は深緑で、睫がすごく長くて、ほっそりしてて、指の形が綺麗で、笑うと笑窪が出来るの」
細いのに付くべきところに肉が付いていた件は、ささやかな自尊心からレーシアは口に出さない。
事細かに語るレーシアに、アトルは苦笑した。
「おまえ――ホントにその人のこと好きだな」
レーシアは一瞬だけ面食らった顔をし、それからあっさりと頷いた。
「そりゃあね」
それを見ながら、アトルはまたも視界の隅で、樹国の者たちの奇妙な反応を捉えていた。
痛ましいことでも聞いたかのような、そんな表情を。
アリサもどうやら気付いたらしく、「どうしたの?」と問おうとするように口を開き掛ける。
「アリサ」
咄嗟にアトルはアリサの名前を呼び、その質問を防いだ。恐らくレーシアに要らぬ影響を与えるだろうと踏んでのことだ。
宝具の記憶のために混乱している今、余計な混乱まで抱え込ませるのは得策ではないという考えも無論あったが、何よりもアトルはただ単に、レーシアに傷付いてほしくないのだ。
事実を知ることが辛いというなら、それを出来るだけ先延ばしにしたいと思ってしまう。
「――なに?」
アリサがこちらに顔を向けて首を傾げる。アトルは慌てて話し掛ける内容を見付けなければならない。
「そ――そういやあおまえなら、花と食い物どっち選ぶ?」
咄嗟に出て来た言葉はそれで、アトルはレーシアに脛を蹴られた。
「まだ引き摺るの!?」
レーシアに蹴られた程度では痛くもないのだが、アトルは取り敢えず「いてっ」と言っておいた。
アリサはアトルが何をしようとして名前を呼んだのか気付いた様子で、疑うように目を細めたが、肩を竦めて質問には答えた。
「そりゃあ食べ物よ。お腹空いたら何にも出来ないでしょ」
アトルはいつもの調子で返した。
「だよな。おまえって色気より食い気だもんな」
「あんたに言われたくないわよ」
恐らく素で、アリサが食い気味に言った。




