21 錯綜する推測
砦の外に出て三人が最初に見たものは、明らかに劣勢に追い込まれているアジャットたちの姿だった。
アリサの話では互角だったはずだが、アリサが砦に吹っ飛ばされてから何があったのか、彼らの周囲は水浸しで、沈みつつある夕日に水滴がきらきらと輝いている。アディエラの後ろの地面が激しく隆起しており、アディエラはそこに凭れ掛かるようにして周囲を睥睨していた。
オリアとリーゼガルト、ヘリオが既に戦線から離脱しており、アディエラの攻撃の範囲に入らないようにしながら脱力して座り込んでいる。
アジャットたちはまだなんとかアディエラに攻撃を通そうとしてはいたが、戦線離脱した三人を守ろうとしているアジャットとミルティアは、かなり戦い方を制限されていた。樹国の者たちは敗者に用はないとばかりに、三人を見捨てる気が十分にあるようだが、ミラレークスの二人はそこまで冷酷になり切れない。
「……どうなってるの?」
レーシアが呟き、アトルは彼女を背負い直しながら、徐々に軽くなるその重みにレーシアの回復を感じ取っていた。
「アジャットたちが滅茶苦茶押されてるな。アリサ、本当に互角だったのか?」
アリサは防壁の瓦礫を乗り越えてアトルに並び、堀であった溝を挟んで離れた場所で戦う彼らを見て答えた。
「本当よ。――ねえ、やばいんじゃない?」
「ああ。――マジであいつ、どんな手使ったんだよ」
アトルは吐き捨て、忸怩たる思いを抱えながらも背中のレーシアに尋ねた。
「おまえ、今は落ち着いてるか?」
レーシアは首を傾げ、生真面目に答えた。
「うーん、そろそろ危ないかも」
そうか、と呟いて、アトルは更に尋ねた。
「おまえが宝具と〈糸〉を繋いだことを察知してトニトルスとカエルムが来るのはいつ頃か、分かるか?」
レーシアは数秒考え込んだが、やがて渋々といった様子で答えた。
「今でも呼べるけど。私が――私の頭の中が危ないことに変わりはないんだし、これは私が雷兵さんと空人さんを呼べる、唯一の状況だから」
アディエラの放った雷撃がベティを掠め、ベティが吹っ飛んだ。悲鳴を上げながら雷撃に突き飛ばされ、地面に激突して苦痛の声を漏らす。よろめきながら起き上がった彼女に追撃の炎が放たれ、あわやというところでアジャットの氷がそれを相殺した。
「おまえは呼び出したトニトルスとかカエルムに、ある程度なら言うことを聞いてもらえるのか?」
アトルの緊迫した声に、レーシアも彼の意図を察したらしい。
トニトルスとカエルムを呼び出し、それを戦力として利用しようとしているのだ。答えるレーシアの声に迷いが滲む。
「――分かんないわ。機嫌にもよるだろうし。……私はエンデリアルザじゃないの。雷兵と空人に命令するのはエンデリアルザの権限だから、私には出来ない」
エンデリアルザの証章はレーシアにあるが、それのみがエンデリアルザをエンデリアルザたらしめる訳ではなく、またレーシアは頑として、己がエンデリアルザであるという可能性を否定し続けている。
――ただ、「サラリス」のために。
こんなときでも「サラリス」を中心に回っているレーシアの世界に、アトルは鈍い痛みを覚えた。
「……可能性はあるんだな?」
アトルの重ねた問い掛けに、レーシアは視線を泳がせたものの、答えた。
「――多分、出来るけど」
アトルは大きく頷いた。
「じゃあ呼んでくれ。失敗したとしておまえは確実に無事だしな」
その言葉に驚いたようにレーシアが目を見開き、それから頭を振ると、ぎゅっと目を閉じた。
それがそのような呼び掛けであったのか、アトルには分からない。レーシアは何の声を発することもなかったし、儀式めいた何を行った訳でもない。
だがそれでも、レーシアの声のない声は届いた。
夕闇が忍び寄り始めた東の空に、白光が塊を成してきらりと光る。それはたちまち形を成し、レーシアの傍に次々と典雅に降り立つ。
透き通るように薄青い肌、トーガを纏う丈高いその立ち姿。背中に生える一対の、硝子細工と見紛う美しい白い翼。精悍な顔立ち、柔和な顔立ち、軽薄な顔立ち、個性は様々であれど、そこに現われた数十に及ぶ彼らを呼ぶ名を、アトルは一つしか知らない。
空人カエルム。
天を翔ける彼らが、彼らの愛し子の呼び掛けに応えて各々その金色の目を細め、レーシアを見ていた。
美しい韻律を奏でるその声が、次々にレーシアに掛けられる。中の二人がレーシアに歩み寄ってその頭を撫で、レーシアを背負うアトルは身を固くし、アリサは素早く距離を置いた。
「来てくれてありがとうございます」
レーシアは物怖じせずにそう言って、自分の頭を撫でる空人の手を取った。
「ごめんなさい、エンデリアルザでもないのに図々しいとは思うんですけど――」
空人たちが一斉に笑った。レーシアに手を取られた一人が笑いながら何かを言って、それでレーシアの表情も明るくなる。
「ありがとう。あの、えっと、向こうで戦ってる人間、分かります?」
何人かが頷く中で、他の大多数は「え、人間いたの」というような表情を浮かべてそちらを見遣った。
レーシアもその表情をしっかりと捉えたらしく、続く言葉には慎重さが窺えた。
「あの中で一人だけ、ドレス――ええっと、ひらひらした感じの服を着た人がいるでしょ?」
一人の空人が「私分かった、あれでしょ?」というような得意げな顔で誰かを指差し、その指先を追ったレーシアは顔を強張らせた。
「待ってください、違う。そういうひらひらじゃないんですってば。顔は出してる人です」
したり顔を崩されたその空人が「え、嘘でしょう?」という愕然とした顔になるのに、レーシアは思わず笑いを噛み殺す。しゅんとしてしまったその空人の肩に慰めるように手を置いた別の空人が、重々しく頷きながら声を発した。
レーシアはそれを聞き取って、大きく頷く。
「そう、そうですその人! ――その人をここから追い払ってほしいんですけど。えっと、他の人には怪我がないように」
アトルから見て正面にいる空人が、やけに人間らしい仕草で爪を弾きながら、不満を訴えるように何事か呟いた。
それを聞いて、レーシアは困った顔をする。
「そう、ですけど……」
「何だって?」
アトルがレーシアに囁き、レーシアはアトルに耳打ちした。
「なんで人間に無傷であるように配慮しなくちゃならないのかって。――ほら、彼ら酷い目に遭ってきたでしょう?」
翼を目的とする乱獲のことだろう。
アトルは眉を寄せた。思考が回転し、ものの数秒で答えを出す。
「アディエラ以外の人間は、おまえが無事に移動するために必要なんだって言ってくれ。樹国の人間は割とどうでもいいけど、それ言い出したらややこしくなるだろ」
アトルの言葉に素直に頷いて、レーシアが空人たちにそのように伝える。
彼らは「きみのためなら仕方ないね」という顔をして、中の数人が翼をはためかせ、気乗りしない様子で戦場へと飛び立って行った。
魔術師たちが一様に下がり、特にアジャットはリーゼガルトの傍まで下がった。戦っていた六人の魔術師が、空人たちの出方を窺う。
アトルは緊張を持ってそれを見ていた。カエルムやトニトルスに襲われた場合、〈インケルタ〉の「餓鬼」たちが団結して対処すれば何とかなった記憶がある。主に逃走できたという意味だが。しかしアディエラの戦闘力は〈インケルタ〉の誰よりも秀でていることは明らかだ。アディエラの手に掛かってカエルム惨殺、というような結末になってしまえば、いよいよアディエラを追い返す手段が無くなる。
だが、レーシアにはそのような緊張は全く見られない。
「心配じゃないのか?」
アトルが思わず尋ねると、レーシアは彼の背中できょとんとした。
「なんで? 空人さんが戦うの、何回か見たことあるけど強いよ?」
「え――」
思わず言葉に詰まったアトルに、レーシアは「あ」と声を上げ、
「アトル、知らない? 空人も雷兵も、近くに大きな魔力の主がいればいるだけ力を増すのよ」
アトルは顔を強張らせた。
「は? それって、魔力を盗って戦うってことかよ?」
そうなれば人権侵害甚だしいが、レーシアは慌てて首を振る。
「違う。サラリスからの又聞きなんだけど、雷兵と空人はみんな生まれたときから術式による縛りを受けていて、向かい合ってる相手の魔力が大きいとその術式が緩んで本来の力が使えるんだって」
くすりと笑って、珍しくレーシアがアトルの頭をうりうりと撫でる。
「私がここにいるでしょ? ――ん、まだ重いと思うけど、それでも人より魔力はあるし、それにアジャットもディーンもミルティアも……ね?」
アトルはレーシアの手の感触にほんの少しは動揺したものの、声は冷静だった。
「おまえが見たことのあるときって、おまえとサラリスって人が一緒だったんじゃないのか。俺たち普通の魔術師じゃ、百人くらい集まらねえと〈器〉には及ばねえぞ」
レーシアははっとしたようだったが、それでものほほんと言った。
「まあ、大丈夫でしょ」
アディエラは飛んで来るカエルムたちを目を見開いて迎え、咄嗟に隆起させた地面を崩して後退った。
その前に降り立ち、カエルムたちがもう一度レーシアを振り返る。そして歌うように何事かを尋ねた。
それを受けて大きく頷き、レーシアが声を張り上げる。
「大丈夫! その人は別に死んでもいい」
アトルがレーシアの、相変わらずの言葉に唇を噛む。
カエルムたちは肩を竦め、先頭の一人が左腕に嵌めた三連の銀の腕輪をしゃらしゃらと鳴らしながら手を挙げた。
アディエラはレーシアの言葉に軽く俯いて、水晶の象嵌された腕輪をぎゅっと握り締める。
「――仕方のないことですわ」
呟いた声はカエルムたちにしか届かず、そしてカエルムたちはその意味を取ることが出来ない。
「――仕方のないことですわ。レーシアさまはわたくしのことをご存じない。わたくしたちのことをご存じない」
顔を上げたアディエラの琥珀色の目に、透明な涙が溜まっていた。
「それでも、なぜでしょうね」
胸を押さえて、アディエラは泣き笑いの表情を浮かべた。
「こんなに胸が痛いなんて、おかしいですわね。どうやらわたくしは、あの方に大切にされることに慣れて、甘えていたようですわ。痛みに弱くなっているようですわ」
カエルムたちは「何を言っているのだろう?」という表情を一様に浮かべた。分からないことを追及する気もないのか、先頭の一人が掲げた掌に魔力を溜め始める。ばきばきと音を立てて、その掌を雷光が取り巻き、そこから氷塊が生成され始めた。
「あの方の希望、あの方の待望、あの方の切望から嫌われることは、あの方から嫌われることとはきっと別のことですわ。そうですよね?」
首を傾げるアディエラに、言葉を解さないカエルムは反応しない。
「ご命令を果たせないわたくしに、あの方は失望なさいますかしら?」
ぼんやりと呟いて、アディエラは自分を向くカエルムの掌を見て瞬きした。まるでそのとき初めて、カエルムが自分に害を加えようとしているということを認識したかのように。
「あら。あら、殺される訳には参りませんわ。あの方にお詫び申し上げなければなりませんの」
水晶を撫でる。だがそれは抵抗のためではない。
アディエラもまた、カエルムやトニトルスの特性を知っている。
またここには、十一人の魔術師と〈器〉がそれぞれカエルムたちに魔力の存在を知らしめており――アディエラの腕輪と首飾りを合わせれば、カエルムたちの現在の戦闘力は推して知られる。
腕輪の水晶の魔力をも使えば単独でカエルムを相手にすることも出来るだろう。だが、アディエラにそれは出来ない。
命令を果たすために預けられた魔力であって、己の命を守るために預けられた魔力ではないのだ。
この場でカエルムたちを撃退すれば、命令である樹国の魔術師を殺害するという目的にも到達できることは自明の理である。だがアディエラの、凝り固まった絶対の忠誠心はその考えを許さなかった。
今、相対すべき敵は樹国とミラレークス、及びそれと行動を共にする者たちであるべきはずで、レーシアが呼び出したカエルムが、アディエラの中で敵という括りに入らないのだ。
ゆえに、戦意を削ぐ。止めを躊躇させる。そのために水晶の魔力を――それが誰のものであるのかを、カエルムたちに認識させようとしているのだ。
カエルムの掌から、雷光の絡む氷の槍が射出された。ぱちぱちと爆ぜる音を奏でながら、青白く凍った槍がアディエラの胸目掛けて放たれる。
その瞬間、アディエラの腕輪の水晶が輝いた。
空人たちが愕然とした表情を浮かべ、それを受けて槍の勢いが減退する。しかし今更軌道は変えられず、槍はアディエラの鳩尾に突き刺さった。
ふらりとよろめいて、赤金色の髪を靡かせて、仰向けにどさりとアディエラが倒れる。槍の雷光が儚く消えた。傷口が即座に凍りつき、出血はないが、氷の槍は身体を貫通している。放置されれば命はあるまい。
口々に疑問を交わし合いながらその周囲に立ち、止めを検討するカエルムたちだったが、中の一人がアディエラの腕輪に目を留めた。声を発し、仲間の視線をそこに集める。
カエルムたちは呆れたような息を漏らし、もう一度顔を見合わせると、微かに喘声を漏らすアディエラを放置して翼を広げた。そうしてレーシアの傍に戻ると、慌しく声を掛ける。
それを聞いて、レーシアの表情が抜け落ちた。
「どうした?」
アトルがレーシアの身体が強張ったことに気付いて声を掛ける。レーシアはアトルの肩を掴む手に力を籠め、低く呟いた。
「――あの人間がサラリスの魔力を纏っていたけれど、どういうことなのかって。あれはサラリスの友達かって」
レーシアはアトルの背中を叩き、自分で立ち上がる旨を伝えた。アトルが屈んでレーシアを下ろしてやると、レーシアは自分の足でしっかりと立ち、微かに俯いて空人に答えた。
「――私にも分からないんです。サラリスが今どこにいるのかも」
空人たちが口々に何かを言い合い、肩を竦める。レーシアは唇を噛んだ。
「あなたたちも、知らない……」
そのレーシアの肩を叩き、空人が何かを言った。困ったような、あるいは困ったことをした「親しい誰か」を見たような顔で。眉を下げ、唇で苦笑して。
この場にいる彼らに「親しい者」は、レーシアしか有り得ない。
そして、レーシアの顔が凍り付いた。
「え――?」
空人たちは首を傾げ、むしろ不思議そうにしている。
「どうしたんだよ?」
アトルがレーシアに顔を寄せて囁くと、レーシアは瞳を激しく揺らし、口元を手で覆った。
「――あの、アディエラって人のこと、空人たちは殺せないって……。知らなかったのかって……」
アトルは話が見えず、眉を顰めた。ここから見た限りで、アディエラは抵抗らしい抵抗をしなかった。今も倒れたままだ。止めを刺すことは訳ないはずだ。端的に尋ねる。
「なんで」
レーシアは脱力してその場に崩れ落ち、アトルが慌てて彼女を支えた。空人たちが動揺の声を上げ、自分たちに先んじて手を出したアトルを睨み付ける。だがアトルはそれに構っていられない。
「レーシア?」
声を掛けると、レーシアは震える唇を開いた。
「どうしよう――」
疑問を表情で表し、先を促したアトルに、レーシアは進退窮まってどうしようもなくなったときに人が浮かべる、頭のどこかで糸が切れたような笑みを浮かべて答えた。
「あの、アディエラって人――セゼレラの人だ。
それしか考えられない。空人も雷兵も、セゼレラの人には手出し出来ないはずだもの」
セゼレラ――セゼレラ宝国。
半ば予想していたアトルは、ほぼ無表情でその情報を呑み込んだが、レーシアはそれに激しく衝撃を受けている。
「どうしよう、どうしよう」
レーシアは髪に手を差し込んだ。
「セゼレラに逆らったんだ……」
アトルは眉を寄せる。
「そんなの、前も――宝士が来たときもだろ?」
「違う、全然違う」
レーシアは顔色を青くした。
「宝士は――宝国近衛は、私たちの世話に付けられた格下よ。だけど、だけどあのアディエラって人が、セゼレラの偉い人の直属だったら――」
訳が分かっていないアトルの顔をもどかしげに見て、レーシアは必死になって言い募った。
「サラリスが最後にいたのはセゼレラよ。セゼレラの――私は誰だか知らないけれど、偉い人の言うことは聞いてたわ。
だからもし今もサラリスがセゼレラにいるなら――。
自分で、あの人たちを手助けしてるってことよ。
今更セゼレラがサラリスと敵対するなんて考えられないもの」
アトルはさっと顔色を変えた。
ならば――あの町の惨状は「サラリス」の責任か。いや、それどころかひょっとすると、百年戦争すらも。
では、あの手紙は。レーシアを想う文面が切々と綴られたあの手紙は。
あれすら、何も知らない誰かにレーシアを庇護させ、利用するための策略か。
いや待て、おかしい。「サラリス」がセゼレラに唯々諾々と従うのなら、そもそもレーシアを眠らせ、何も知らない第三者に発見させる理由がない。
(――宝国に従ってた、わけじゃない?)
アトルは口元に拳を当て、考え続けた。
(宝国にレーシアを置いておく訳にはいかなくなった? だけどレーシアを連れ出す方法が無かった?
――サラリスって人は、宝国を裏切った?)
しかし宝国を裏切ったのならば、なぜ自身でレーシアを目覚めさせるようにしなかった?
では「サラリス」は今、裏切りが露見し制裁を受けている? その制裁が魔力を差し出すことなのか?
しかし、「サラリス」も〈器〉である以上、魔力は甚大なはず。レーシアの下に何が何でも到達し、そこで雷兵と空人を呼べば戦力になったはずだ。
いや待て。レーシアは何と言った?
宝国の人間に雷兵と空人は手を出せない――。
「レーシア」
アトルは呼び掛けて顔を上げた。
「宝国の人間に手出し出来ないっていうのは、そんなに強制力があることなのか? エンデリアルザの命令を上回るくらい?」
レーシアは、アトルがなぜその質問をするのかは分からなかったようだが、それでもきちんと答えた。
「……よくは分からない。でも、そんなことはないと……、――ねぇ」
空人に向き直り、アトルの質問を繰り返す。空人はしゃらしゃらと腕輪を鳴らしながら、笑ってそれに答えた。
「――そう、ありがと。――アトル、あのね、エンデリアルザの命令の方が優先順位が高いんだって」
「そうか……」
アトルは顔を伏せた。
(やべえぞ、こりゃあ……)
「サラリス」は、宝国の人間に囲まれようが対抗できる術を持っていたのだ。宝具の起動をちらつかせれば、それこそ皆が道を開けただろう。
その上で考えれば、「サラリス」が宝国を裏切ったのならば、レーシアを連れて逃げただろうと容易に想像がつく。
宝具を上回る性能の兵器が宝国にあったのならば話は変わってくるが、それは考え辛い。また、「サラリス」とレーシア以外の、第三の〈器〉がいたとしても話は変わってくるだろうが、それもまた可能性はないに等しいだろう。
では、「サラリス」がレーシアを百年眠らせ、第三者の手に委ねたのは、それが宝国の意思だったからか。発見者がレーシアに同情的に接するようにあの手紙を認めたのか。
ここ最近で、「サラリス」に関する推測がアトルの中でも錯綜している。「サラリス」の人物像が定まらず、彼女が何を考えてレーシアを百年眠らせたのかも分からず、手紙の真意も分からない。彼女が百年戦争と関わっていたのかも分からなければ、その戦争を望んでいたのかどうかすら、思考の度に真逆の考えに至っている。
宝国の者が、彼女の魔力をどのようにして手に入れたのかも分からない。
分かっているのは、レーシアと「サラリス」が最後に滞在していた国が宝国であること。
百年戦争のきっかけとなったのが宝国であること。
「サラリス」がレーシアを眠らせ、手紙を書いたこと。
「サラリス」がレーシアを、何も知らない第三者に見付けさせたがっていたこと。
軍が「エンデリアルザ」を追っていること。
宝国もまたレーシアを追っていること。
「サラリス」には、宝国と渡り合うだけの力があっただろうこと。
「サラリス」の魔力を宝国の者が使っていること。
並べていけば、「サラリス」は宝国に与しているようにしか思えないが――。
事実が散在し、疲れも相俟ってアトルの頭が混乱する。
「アトル、あの人たちが止めを検討してるみたいだけど、どうする?」
アリサの声で思考が破られ、アトルははっと顔を上げた。
アジャットたちがアディエラに近付き、ディーンが今まさに剣を抜いたところだった。
「やめさせて!」
レーシアが悲鳴を上げた。
「待って、セゼレラを怒らせたら本当にまずいから! サラリスが、あんな頭空っぽの男の人ににこにこしてるなんて異常なのよ。それをさせてたってことは、セゼレラは怖い国なんだって!」
基準が「サラリス」であるというところが如何にも彼女らしかったが、焦りようは本気だった。アトルは柘榴石の耳飾りを弾き、声を飛ばす。
「止めはやめろってレーシアが」
『レーシアさんが?』
ディーンは驚いた声を上げ、舌打ちを漏らした。
『これが宝国から来たと気付かれたのか』
確信のある口調であり、アトルは覚えず半眼になる。
「へえ、やっぱてめえらは知ってた訳だな」
レーシアの方を向き、これみよがしに通信の魔術を起動したまま声を掛ける。
「おいレーシア、やっぱり樹国は信用ならねえ。何もかも知ってやがんのに、おまえに何も言ってねーじゃん」
レーシアが瞬きして「そうね」と頷き、アトルは耳元でディーンの剣呑な声を聞いた。
『貴様、後で覚えていろ』
アトルは肩を竦めた。
空人たちがレーシアに近付き、穏やかな声で何事かを言っている。恐らくは思い出話の類だろう。
宝国の動向も、「サラリス」の真意も分からないが、分かっていることはただ一つ。
そろそろ、レーシアを他人の記憶が襲う。
頭を振って気分を切り替えて、アトルはレーシアの様子を見守ることに集中することにした。




