19 記憶にある砦
滑走する障壁の上に乗っているのはアトルも初めての経験であり、風の抵抗を少しでも和らげるために障壁の上に屈み込む姿勢を取っていた。
その彼にしっかりと支えられているレーシアは、吹き付ける風に顔を背けてアトルの方を向きながら、思わずといったように大声を上げる。
「すごいすごい! 怖いけどすごい!」
障壁ががりがりと音を立てながら氷を削り、滑る。歩くよりもずっと速い速度で砦に近付いているのは快挙だが、レーシアが怖がっているのは問題である。
「落ち着いてろよ!」
アトルが叫ぶと、レーシアは自棄気味に笑い声を弾けさせた。
「無理無理! ていうかぶつかりそうなんだけど!」
「任せとけ!」
アトルが力を籠めて声を張り上げる。レーシアは答えなかったが、返事代わりにアトルに抱き付く腕に籠める力を強くした。
砦が近付く。その周辺の堀、かつては深く掘られていたのであろうそれは、埋まってしまって浅いなだらかな溝と化している。そこに障壁が突っ込んだ瞬間、アトルは障壁と自分の身を結びつける術式を解いた。
淡く輝きながら障壁が消え失せていく、その間に障壁の残骸――それに乗るアトルとレーシアは溝の底を越え、下り坂を得て増した勢いそのままに上り坂に差し掛かっていた。
慣性に従い、二人の身体は短い間だけ上へと向かう推進力を得る。
それだけの間があれば十分と、アトルの掌が下を向いた。――そこを起点として、念動系の基礎、衝撃波が地面を叩いて土塊とヒースの切れ端を巻き上げ、アトルと、そのアトルに抱えられるレーシアの身体を溝の上、防壁の手前まで運んでのけた。
アディエラの手を躱し、それどころか砦まで大幅な時間の節約を成し遂げながら辿り着いたのである。
「よし、レーシア。宝具はどこだ」
よろめくこともなく地面に降り立ち、逆に大いに体勢を崩したレーシアを支えながらアトルが訊く。
が、レーシアからの返事はない。まさか何かあったのかと、アトルが慌てて彼女を窺えば、彼女はすぐ傍に生えている、白い花を咲かせる茂みをじっと見ていた。
「レーシア?」
名前を呼べば、レーシアははっとしたように瞬きする。が、視線は白い花を見たままで、
「――常春の白い花……」
呟いたその声が、アトルの好きな彼女のものではない口調を紡ぐ。
「――ロジアン」
名前を零して、それからようやくレーシアは正気付いたかのように幾度も瞬きをして、アトルを見る。
「え、あ、えっと、なんて?」
アトルは胸の内に湧き出した不安を払うように、敢えて呆れた声を出した。
「呆けてる場合かよ、ったく。――宝具は、どっちだ?」
レーシアは迷う様子もなく、砦の中を指差した。
「こっち」
防壁は所々が崩れ落ちており、乗り越えるのにそれほどの苦労は要しない。崩れた防壁の欠片が転がる中を、レーシアに手を貸して中へと進ませながら、アトルはちらりとレーシアを見遣った。
その胸を占めるのは不安だ。
先程レーシアが零した名前、「ロジアン」というその名前を、アトルは聞いたことがある。――封具と〈糸〉を繋いで、記憶が混乱している状態のレーシアから。
なぜ今、その名前が出てくるのか。
記憶の混乱が再発したとは考え辛い。であれば、この場所が強く「ロジアン」を想起させる場所であること、そのことしか考えられない。
なぜ宝具がある場所が、かつての〈器〉と縁のあった人物の名前を想起させるのか。
切望したはずの宝具を間近にして、別の不安が出てくるとは考えておらず、アトルは小さく息を漏らす。
それには気付かず、砦の中庭のような場所に出たレーシアは周囲を見渡した。
雑草が茂るそこに、かつての面影はない。遺跡と化しつつある砦が、中庭を見下ろすように哀愁を湛えて佇んでいるその中に、人が生み出すざわめきは一切存在しない。
「ええっと……こっち。そう、こっち」
レーシアは呟き、アトルの手を離して砦の中へと進んで行った。
枯れた雑草を踏みながら、扉が外れて倒れ、外と大差のない様相を呈する砦の中に踏み込む。入ってみれば、日照が限られる分外よりも雑草は少ないが、それでも歳月に晒されて傷んだ内部が明らかとなった。
壁も所々に亀裂が入り、崩れている箇所がある。そういった箇所からは日光が入るためか、雑草が群生して亀裂を取り囲んでいる。レーシアが歩を進めると、その足音に驚いたように、茶色い小さな鳥が飛び立ち、慌てたように外へ逃げて行った。
レーシアはぼんやりと周囲を見回した。
見たことはない。それなのに、妙に懐かしい。
――身の内に封じた誰かの記憶が、この場所を懐かしいと感じている。
後ろに立つアトルの存在すら意識せず、レーシアはゆっくりと歩き続けた。
時間がないということは痛いほど分かっていたが、ここにある宝具が呼び掛ける声はひどく弱々しくなっており、ここに来るまでの道中と比しても、近くなったのに比例して小さく弱くなっている。
罅割れた床から枯れた雑草が顔を出している上を歩き、レーシアは廊下を進んだ。廊下が交差する曲がり角に行き当たって、レーシアは正面へ続く廊下から左手へ伸びる廊下へと視線を滑らせる。
――自分より小さな弟の手を引いてここを歩いた記憶がある。否、それは自分の記憶ではない。それでも鮮やかに蘇り、目の前の光景に被って見えるその思い出は。
レーシアは左手に伸びる廊下へと歩き出し、その廊下の途中、壁を抉る形で設けられている階段を目に留め、それを追うように視線を上へと向けた。
――この階段をふざけて飛ぶように駆け下りて、周りの騎士たちをはらはらさせて弟にまで呆れられた記憶。それがきっかけとなって行儀作法を徹底的に教え込まれるようになり、窮屈な生活が始まったんだった。
自分ではない誰かの経験が、自分が経験したことのように想起される。
「レーシア、宝具はこっちなのか?」
焦れたようにアトルが後ろから声を掛け、レーシアは瞬きして我に返った。
「――うん、そう。こっち」
階段から目を逸らして前に進むレーシアの手を、アトルが取った。レーシアは振り返り、怪訝そうに眉を寄せる。
「どうしたの? アトル?」
アトルもまた眉を寄せていたが、こちらはレーシアを案ずるがゆえだ。
「あのな、レーシア。何を考えてるか分かんねえけど、取り敢えず今は宝具を捜すことに専念してくれ。な?」
その口調にレーシアは目を丸くし、思わず噴き出した。アトルがそれに眉を顰めると、必死に真顔に戻り、頷く。
「――はい。分かりました。
――アトル、自分の命が懸かってるみたいに言うね?」
アトルは溜息を吐き、レーシアの手を離してその背中を軽く叩いた。
「ほら、とっとと歩け」
レーシアはまた頷いて歩き出しながら、軽く微笑んだ。
「大丈夫だよ、本当に。近くにあるのは感じるもの」
「今この瞬間におまえの心臓が止まらない保障があったらそれを言っていいぞ」
アトルが早口に答え、レーシアは自分の胸部に手を当ててきょとんとする。
レーシアの心臓が唐突に止まったときの恐怖と絶望を、アトルは忘れていない。鮮明に覚えている。それが、当事者たるレーシアにとっては希薄な記憶らしい。
ともかくもレーシアが行く手に顔を向ける。
「こっち――」
「アトル!」
正面からレーシアの声ではない声で名前を呼ばれ、アトルは束の間ぽかんとした。
「……アリサ?」
なぜ、置いて来たアリサが正面から来るのか。
まさか高度の精神系の魔術でアリサの声らしい声をアディエラが飛ばして来たのかと、アトルはレーシアの前に出ながら身構える。だが、廊下の先から走って来たアリサの姿はその疑いを払拭して余りあるものだった。
服に細かい裂け目が幾つも生じ、金褐色の髪にも小枝と白い花が絡み、全身に擦過傷を負っている。それを見て、アトルは臨戦態勢を解いた。
アリサの姿がかなりぼろぼろだったことで情に訴えられた訳ではない。アリサの姿を見て、どのようにこの砦に到達したのかを察したからである。
「おまえ、吹っ飛ばされて来たのか?」
アトルの問いに、目の前まで来て足を止めたアリサは頷く。ご機嫌斜めな様子だが、吹っ飛ばされたにしては豪胆である。
「そうよ! あのアディエラとかいう女の子、樹国から来た人たちを本気で殺そうとして、それで乱戦状態」
アトルは顎に手を宛がった。
「おかしくねえ? それ」
彼の指摘に、アリサとレーシアが同時に首を傾げる。
とにかくレーシアを引っ張って歩かせながら、アトルは続けた。
「アディエラは町一つ壊滅させた魔術師だぞ。なんで勝負が長引く?」
それこそ、溶岩でも何でも繰り出せば、その場で片が付くはずだ。
三人を立て続けに惨殺した月下のアディエラの行為を、アトルは忘れていない。
「アリサ、おまえが吹っ飛ばされたときの戦況は?」
歩きながら訊くと、アリサは難しい顔をした。アリサからすると来た方向に引き返している形だ。
「魔術師同士のことだからよく分からないけど――互角、だったと思う」
一瞬考えて、アトルは質問を変えた。
「首飾りと腕輪、どっちが多く光ってた?」
アトルがあの町で見た限り、レーシアが反応したのは腕輪の水晶が光ったときの攻撃だ。つまり、腕輪の方に「サラリス」の魔力が溜められていると考えられる。
アリサは思い出そうとするように眉間に皺を寄せ、目を上げると確信を籠めて言い切った。
「首飾りよ。紅玉が光ったところしか見てないわ」
アトルは頷き、考え込む。
つまりアディエラのあの町での暴挙は全て、上質かつ強大な「サラリス」の魔力に頼っていたということか。自身の魔力と紅玉に溜められた分の魔力では、魔術師九人とほぼ互角であると。
「サラリス」への疑念が募る。〈器〉にとって術式を操り魔力を扱うことが命に関わる禁忌なのだとしても、もしも宝具と封具の〈糸〉を外す方法があるとすれば。
「サラリス」が〈糸〉を外して、術式を扱うことが出来る状態であり、自分の意思でアディエラに魔力を貸し出しているとするならば。
――あの惨劇を招いた罪は「サラリス」にあることになる。
アディエラの言う、「あの方」が、もしも「サラリス」を差しているのであれば、それは疑いようもなく、「サラリス」が悪人であることを示している。
――そして、アディエラが本気で相手を殺そうとしているならば、なぜその魔力を使わないのか。
廊下の突き当たりはそのまま、裏庭へと通じる扉になっている。こちらの扉は片方の蝶番が外れて、枠に不恰好にぶら下がって風に揺れていた。アリサはその隙間から砦の中に入ったのだろう。
そこに近付くにつれ、外で巻き起こっている魔術戦の音が聞こえ始める。どうやら移動しながら戦っているらしい。アトルとレーシアが離脱したときとは場所が違う。
万が一にでも頭上から何か――あるいは誰かが降ってきてレーシアに直撃すれば一大事だ。
「ここでちょっと待ってろ」
言い置いて、アトルが先に扉の外に出た。
無音の中に広がる波動――念動系の魔術がぶつかる、音のない音が聞こえる。爆ぜる音、軋む音、それらの音が一緒くたになって大気の中に乱暴に広がっている。
鬱蒼と雑草の茂った裏庭に一歩出て、アトルは周囲を窺った。
膝まで伸びたヒース。裏庭を囲う緩く曲がりながら流れる用水路は、長く放置されて小川のような有様を呈している。防壁が見えるが、蔦に絡まれたその箇所は崩れている様子はない。
頭上を振り仰ぎ、落下してくるものがあるようには見えないことを確認して、アトルは扉の向こうを覗き込み、手を差し出した。
「いいぞ。レーシア、来い」
レーシアがアトルの手を掴み、扉をそうっと潜って裏庭に出た。アリサも続いて出てきて、聞こえてくる暴力の音に顔を顰める。
だがレーシアは音には一切の注意を払わず、ただ懸命に裏庭を見回していた。
「ここなの、この近くなの。それは分かるんだけど――」
ここへ来て焦った様子を見せるレーシアに、アトルの顔も強張る。
「おい、大丈夫なのか」
アリサだけは、二人が何を捜しているのか明確には知らない。それがあってか、どことなくつまらなさそうな顔をして一歩引いていた。
「すごく、すごく引き合う力が弱いの……なんでなんだろ」
レーシアは不安げに言ったが、それを聞いてたちまち顔を曇らせたアトルを見て、慌てて手を振る。
「大丈夫。ここにあることは分かってるから」
「封具のときみたいに、人型が出てきたりしねえの?」
アトルが尋ねると、レーシアは困ったように眦を下げた。
「あれって珍しいことだと思うの。サラリスから聞いてはいたけど、私が〈糸〉を繋いでる封具も宝具も、あんなことになってたのはなかったし」
レーシアは目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます様子を見せた。その間にも空に雷光と火花が散っているのが見え、争いの音は衰えない。
アジャットたちのことは心配だが、それ以上に、今ここで宝具が見付からないことが恐ろしい。
ふう、と息を吐いて、レーシアが一歩進んだ。条件反射でそれに付いて動こうとしたアトルを、振り返ったレーシアが掌で留める。
「二人ともここにいて」
唇を噛み、アトルは頷いた。
レーシアは裏庭の中央に進み、そこから四方を見渡す。その方向にそれぞれ一歩ずつ進み、首を傾げ、やがてアトルから見て左斜め前方へとゆっくりと歩き始めた。
彼女が用水路に近付いたそのとき、唐突に用水路の向こう、防壁が地面と接している辺りで黒い光が瞬いた。見間違いかと思うようなその一瞬の煌めきを、しかしレーシアは見逃していない。
勢い込んでそちらに近付こうとし――用水路を見て、怯んだように足を止めた。
「なんだよあいつ……!」
アトルは悪態を零し、声を上げた。
「どうした、レーシア!」
レーシアは振り返らない。ただその背中が細かく震えているのをアトルは見た。
訝しんで眉根を寄せ、はっとアトルは思い出した。
――アトルは私を溺れさせたりしない。
あのとき、アトルが二度目の禁忌を犯したとき、レーシアはそう言っていなかったか。レーシアは、己が〈器〉であるがゆえに受けた迫害のことを言っていなかったか。
レーシアは水を怖がっているのではないか。
そう気付くと、アトルは躊躇しない。「ここにいて」と言われたからには、傍に行っては不都合があるのだろうと判断し、距離が開いている中を苦心しながら魔術を行使する。
レーシアの傍の地面が、生えるヒース諸共に「ずれた」。
そのままアトルの魔術に押し出され、用水路を埋めていく。元素系と念動系を一度に使った結果だ。
「レーシア、大丈夫か?」
その作業を終えて声を掛けると、僅かにレーシアが振り返った。
頷いてみせて、アトルは敢えて軽い口調で請合う。
「落っこちてもすぐ助けてやるよ。――渡れるか?」
レーシアは大きく息を吸い込んだ。
「ありがと、アトル」
呟いた声が届いたかは分からない。もう一度深呼吸して、レーシアは意を決してアトルが架けてくれた土の橋に足を乗せる。
礼を述べたのはアトルに対してであっても、呪文のように呼ぶのは別の名だ。
「サラリス、サラリス、サラリス、サラリス」
サラリスと一緒ならば川に入って遊んだこともある。溜池に突き落とされたのは、もう十数年も前のことだ。あのときだってサラリスが助けに来てくれた。
狂信的な依存心と親愛を籠めて名を呼びながら、ゆっくりとレーシアは用水路を越える。
身体が覚えている恐怖が封具との距離を近付ける。息が詰まる。鼓動が飛ぶ。だがここで倒れるわけにはいかない。吐き気がしたが、構ってはいられない。足の爪先から冷たくなるような感覚。気にしてはいけない。歩け、歩け、歩け。
冷や汗を浮かべながら用水路を渡り切り、レーシアは先ほど光が閃いた場所に小走りで駆け寄った。
「宝具。宝具」
呼び掛けるように呟く。対の封具とここにあるはずの宝具が引き合う力は弱く微かになっており、もしもこの傍に〈器〉ではない第三者がいれば、レーシアもその気配を拾い損ねるようなもの。
「宝具。――対の封具の〈糸〉を携えて来た〈器〉。〈糸〉を繋ぎたい」
囁くと、ぼんやりと黒い光が浮かぶ。〈器〉の呼び掛けを、その存在のみよってすら安定を失う宝具や封具が無視することは出来ない。
レーシアは浅い息を吐きながら、その光がゆっくりと明滅する中に手を差し込んだ。
途端、黒い閃光が弾け、レーシアの腕に歪な稲光が絡んだ。その一瞬後に眩い漆黒の光の柱が天空に向けて放たれる。その光はものの数秒で霧散したが、レーシアは安堵の余り眩暈すら感じていた。
宝具が応えたのだ。
霧散した光がひらひらと異様な雪のようにレーシアの上に降り注ぐ。レーシアに触れた光は溶けるように消失していき、宝具が発する光は防壁の根元から差すそれのみとなる。
レーシアは目を閉じ、唇を開いた。




