Monologue-04 This Is a Story For Confess a Girl's Guilt
「サラリス、サラリス」
声がする。あの人の声だ。
サラリスは目を開けた。そこに、あの人の慈しみに満ちた満開の笑顔を見て、サラリスの幼い双眸から涙が溢れ出た。
「――っうう……」
ぼろぼろと涙を零すサラリスを抱き上げて、あの人がくるくるとその場で回る。
「よくやったね、サラリス。きみのことを誇りに思うよ」
あの人がそう言ってサラリスの名を呼ぶから、サラリスはサラリスとしての自分を取り戻すことが出来る。
――封具と〈静〉の宝具と〈糸〉を繋いで、サラリスは彼の所に戻って来た。
○○○○○○○○○○○○
それから二年の月日の内に、サラリスは更に二本の〈糸〉を繋ぐことになる。〈動〉の宝具と封具に繋がるものである。
その度に雷兵と空人は気も狂わんばかりに心配し、サラリスは混乱と恐怖に泣き、そしてあの人はサラリスに、己が掛ける期待を語り、そしてサラリスがそれに応えれば必ず褒めた。
よくやったというその一言で、サラリスがどれほど救われているか、きっとあの人は知らなかっただろう。
○○○○○○○○○○○○
このところあの人が忙しそうだと、サラリスは思った。
彼女は芝生の敷かれた中庭にいて、その中庭はセゼレラ首都レンヴェルト、王宮の中枢、本宮の外れにある。本宮の中にぽっかりと開いた吹き抜けの空間だ。
見上げれば空が見えるが、それは玻璃を通してのことだ。本宮の壮麗な天蓋から継がれるようにして、この中庭の上空には玻璃の天井が架けられていた。
深緑色のドレスを着て芝生にぺたりと座り込み、サラリスは膝の上に本を広げている。大判の本には挿絵がふんだんにあって、文字も大きく読みやすい。幼児用の本であり、実際、サラリスは幼児と呼ばれる年齢だったが、彼女の精神年齢は既に幼児と呼ばれる域を脱却していた。
本を膝の上に放置して、サラリスは難しげに眉間に皺を寄せ、ううんと唸る。
あの人が忙しそうにしている。それは全く問題ではない。
あの人が忙しそうにしているのに伴って、周り中が忙しく動いている。これも問題ではない。
問題なのは、忙しさからか、あの人がここのところ全く、サラリスの相手をしてくれないことだ。
食事の時に顔を合わせることさえ稀となっている。
これは問題だ。しかも由々しき問題だ。
もしもあの人がサラリスに飽きることがあったのなら、それは即ちサラリスの存在が危うくなるということを意味しているのだから。
サラリスの世界はあの人で始まり、あの人で完結している。
「――サラリスさま」
声が掛けられ、サラリスはそちらを向く。
緑色の法衣を纏った女性が本宮から中庭に一歩下りて、こちらを向いて軽く屈んでいる。
――宝士だ。
「お昼ですよ。こちらへいらしてください」
サラリスは本を閉じて両手に抱え、立ち上がってとてとてとそちらに駆け寄っていく。
「今日は、会える?」
誰に、という問いなのか、言われずとも宝士は分かったとみえて、悲しげな苦笑を漏らした。
「いいえ。主上はお忙しくていらっしゃいますから。もう少し、我慢しましょうね」
サラリスは俯いた。
背中に届く銀髪が、玻璃を通して降り注ぐ陽光に煌めき、サラリスの動きに合わせて肩を滑った。
「……会わないと……」
サラリスは小さな呟きを零す。
会えなくては、自分がどんなにあの人に大切にされたいのか、どんなにあの人に感謝しているのか、どんなにあの人を必要としているのか、それを分かってもらうことさえ出来ない。
飽きられて、捨てられること。もう必要ないと思われること。
そのことが何よりも恐ろしかった。
だがその数日後、朝食の席にはサラリスに先んじて彼が座っていた。
大きな長方形の机の、その短辺の一つに着いて、優雅に頬杖を突いて朝食が運ばれてくるのを待っている。
突然の光景にサラリスはしばし目を見開いたが、すぐにたっと駆け出して彼の膝に縋りに行った。
「おはよう、サラリス。元気な様子で何よりだ。私に会えなくて寂しかったかい?」
あの人が笑いを含んだ声でそう言ってサラリスの頭を撫で、サラリスは何度も頷く。
「はい、とても」
「そうかそうか」
あの人は笑ってサラリスを膝の上に抱き上げ、その褐色の目でサラリスを見て微笑んだ。
抱き上げられるだけで、サラリスの胸中を圧倒的な安堵が埋め、幸福感で彼女の頬は染まる。
「いい子にしていたかい?」
サラリスは夢中で頷く。
どんなに自分が頑張って、どんなに自分が彼の期待に応えたいと思っていて、どんなに彼のことが好きなのか、分かってもらわないといけないと思った。
「はい。ご本もたくさん読みました。お作法もきちんと勉強しています」
いい子だ、とサラリスの銀色の頭を撫でて、その髪を鳥の巣のような格好にしながら、あの人は心から嬉しそうに笑みを弾けさせた。
「サラリス、きみに友達が出来るかも知れないよ」
「とも……だち?」
サラリスは眉を寄せ、それから本で読んだ「友達」の記述に思い至る。
「本当ですか」
顔を輝かせたサラリスに、あの人は頷いてみせる。
「ああ、本当だ。私がきみに嘘を言う訳がないだろう?
――ただ、その子をここに連れて来るのに、きみの手助けが要るかも知れないんだ」
あの人はサラリスを覗き込んで、いつものように満面の笑みを浮かべる。その瞳に、サラリスの笑顔が映り込んでいる。
「サラリス。とても頼りにしているよ。とても、期待しているよ」
サラリスは彼の膝の上からぴょんと飛び降りて、両手で拳を握ってみせた。くしゃくしゃになった髪と相俟って、その様子は滑稽であるのだが、彼女はそんなことには気が付かない。
「はい! まかせてください!」
あの人はにこにこと笑って、サラリスを手で招いてその額を小突く。
「大きくなってきたね、サラリス」
サラリスがいよいよ顔を輝かせたそのとき、あの人の後ろに控えていた傍仕えの者が、ややわざとらしく咳払いをした。
「――主上。サラリスさまの頭が鳥の巣のようになっておいでですよ。さすがに如何なものかと」
「おや、これは」
指摘を受けて初めて気付いたようにそう言って、あの人はサラリスの髪を指先でちょいちょいと直す。サラリスはくすぐったがって目を細めた。
「ほら、元通りだ」
あの人はそう言って指を鳴らす。サラリスを見る目は悪戯っぽく、それでいてどこか遠くを見ているよう。
「怒ったかい、サラリス?」
お道化たようにそう言うあの人に、サラリスはぶんぶんと首を振り、彼の隣――長方形の長辺の端に置かれた椅子に、よじ登るようにして座りながら胸を張った。
「ぜんぜんっ」
あの人はサラリスの行動に、少しばかり驚いた顔をして首を傾げる。
「サラリス? 会わないうちに定位置が変わったのかな? きみの席は私の向かいだったよね?」
実際、サラリスのための食器はあの人の向かいに用意されている。それでも、サラリスは椅子に座って頑なな顔をした。
「久し振りなんですもん、ここがいいです」
彼は困った顔をして、それでも手を伸ばしてサラリスの頭を撫でてくれる。目を細めてそれを受けながら、サラリスはもう一度言った。
「やっと会えたんですもん、ここがいいです」
あの人に、自分がどんなに懐いているのか分かってもらわなくてはならない。そう思うので、サラリスはきっぱりと言うのだ。
「ゼティスさまの、お隣がいいです」
これは、アシャト暦二百八十七年、宝国王宮での話。
百年戦争前夜、二十歳であったサラリスが、六歳であったときのこと。
ゼティスと呼ばれた男は褐色の目を細め、黒髪を払って微笑む。
「いいとも。――サラリスの食器をこちらへ運んでくれないか。手間を掛けて悪いね」
そう、周囲に柔らかな微笑で話し掛ける男――。
齢は、三十を幾つか過ぎた程度であった。
○○○○○○○○○○○○
それからもあの人――ゼティスは忙しそうにしていて、偶に会える日があれば、サラリスは全力で彼に甘えた。
「ねえ、サラリス。覚えているかい?」
とそう彼が聞いたのは、サラリスが七歳になってしばらく経った日のことだった。
何のことか、と思いはしたものの、彼が言った言葉の一言一句を忘れたはずはないと自信を持っていたので、サラリスは胸を張る。
「はい!」
くすり、と微笑んで、彼はサラリスの頬をつついた。
「何のことか分かっているかい?
――きみに友達が出来るかも知れない、あの話だよ」
勿論覚えていたので、サラリスはにこにこと彼を見上げる。
「覚えてます! わたしが何か、お手伝いするんですか?」
うん、と頷いて、彼はサラリスの肩に手を置く。
「その子を迎えに行ってほしいんだ。宝具や封具を捜しに行ったときと同じように、道中の世話は全て付けるよ。ただ、きみに彼女を迎えに行って欲しいんだ」
お願いされれば、期待をされれば、サラリスに否と答える選択肢はない。
不安げな表情になり、それでも頷いたサラリスに、ゼティスは元気付けるように微笑みを向けた。
「会えばきっと気に入るよ。ある意味ではきみと全く違うが、よく似ている子だから」
サラリスはすっと胸が冷たくなるのを感じた。表情も自然、強張ったものになる。
「――わたしと……? 同じ、〈器〉……ですか?」
彼の興味がそれに移るのだろうか。自分は要らなくなるのだろうか。そんな不安があっという間に小さな胸を席巻する。
「ああ。〈器〉だ」
彼はそう答え、サラリスの髪に手を差し込むようにして、穏やかに彼女の頭を撫でた。
「かつてのきみがそうだったように、その子もまた、〈器〉であるというそのことで辛い目に遭っている。助けてあげたいんだ」
不安げに自分を見上げるサラリスに気付いているだろうに、ゼティスはどこか遠くを見る目をしていた。
「存在を知るのに長く掛かった。居所を探るのに今まで掛かった」
それからようやくサラリスに視線を戻して、彼は褐色の目を細める。
「行ってくれるね? 可愛いサラリス、期待していいかい?」
そう言われれば、サラリスに許された行動は一つだけとなる。
「――はい」
もしもその新しい〈器〉が、自分よりも彼の関心を得るようであれば、何とかしなくてはならない――と、サラリスはぼんやりと考えた。
「――どうしたらその子だって、分かりますか?」
躊躇いがちに尋ねた彼女に、ゼティスは顎に手を当ててしばし考えを巡らせ、
「そうだね、」
指を立てて、教え込むようにサラリスに言った。
「――その子はきっと泣いている。その子はきっと嫌われている。その子はきっと独りでいる。その子はきっと、愛されていない」
サラリスは一々頷いた。それを満足そうに見て、ゼティスは謳うように言葉を締め括った。
「絶世の魔力の主、己の周囲に終焉をもたらし、怨嗟と畏怖と怯懦に塗れて生かされている。――もしかしたら、もう誰も彼女の周囲では息をしていないかも知れない」
彼の言葉は難しくてなかなか分からなかったが、とにかくその、友達になるかも知れないその子が悪い子であるということは分かった。
それでも、期待されているのだから行かなくてはならない。
自分がどうしたいかではなく、彼がどうして欲しいと思っているのかを優先しなければ、棄てられてしまうかも知れないのだから。
馬車に乗り、三月を掛けて辿り着いた、その山に囲まれた小さな町を見たとき自分が何を考えたのか、サラリスははっきりと覚えている。
恐ろしい、危険だ、と、明瞭に思ったのだ。
サラリスの幼い本能が警鐘を鳴らしている。
傍に付けられた宝士たちも、余りの事態に声を失っている。
山の中腹に立ち、彼らが見下ろすもの。
――それは町だとは最早言えない、煙を上げて崩壊していく、町の成れの果てだった。
何よりも彼らが戦慄したのは、信じ難いものをその目で見てのことだった。
その町の中で荒れ狂い、町一つでは収まり切らぬ惨劇を撒き散らす暴力――
上質な、純粋な、強靭な、莫大な――
目ではっきりと見ることさえ出来る、規格外という言葉では片付けられない、圧倒的な魔力の渦を。




