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15 心臓が止まるとき

 食事――といっても保存の効くもののありあわせの素っ気ないものだが――の最中に、樹国の魔術師三人の名前が判明した。


 濃い金色の髪を短く整え、蜂蜜色の肌を持ち、厳つい角ばった顔つきの糸目の男は、ジャディスというらしい。

 対照的に身体つきが細く、色白で眼鏡を掛け、黒髪と、眼鏡の奥で見開かれる大きな黒い目を持つ二十代半ばの女性はベティと名乗った。

 中肉中背の、得に特徴のない顔立ちをした茶髪の男はヘリオというらしい。薄緑色の目をして、その目付きがどこか異様なので、レーシアは一度たりとも目を合わせなかった。


 レーシアの精神を安定させておくことは非常に重要なので、食事は終始和やかだった。事情は何一つ知らないはずのアリサでさえ、空気を読んで愛想よくしたほどである。


 レーシアはこれまでの行程とは打って変わってアリサに興味津々だった。どうやらそれは、ゼーンの命を救うよう頼んだことで負い目を感じているアリサが、レーシアに話し掛けられると食い付いて相手をするゆえのことのようだった。


 食事が終わると、レーシアはアリサの金褐色の髪をいじり始め、編み込んだり結い上げたりと、矢鱈と豪華な髪型を作った。レーシアの気が済むならそれでいいやと見守る他の者たちに比べ、質実剛健の〈インケルタ〉の中で育って、髪をいじったことなどないに等しいアリサは居心地悪そうだった。

 ミルティアの替えの飾り紐を使ってアリサの髪型を完成させ、レーシアは満足そうに笑った。


「どう? どう?」


「似合ってる。上手いぞ」


 アトルが声を掛け、アリサがそのアトルに向かって唇の形で「マジで助けて」と疲れた表情で懇願した。

 それを捉えて行動を起こしたのはアトルではなくディアナで、彼女は嫣然と微笑んでレーシアの前まで揺れる――忘れてはいけない、全力疾走中である――馬車の中を移動し、両手の指先を合わせて首を傾げた。


「あたくし、レーシアさんの御髪を整えたいのですけれど、よろしくて?」


 レーシアはきょとんとした顔をしたが、すぐににっこりと頷いた。


「うん。――ずっとサラリスにやってもらってたから、自分の髪って上手く出来ないの」


 ディアナはレーシアをアリサの隣に座らせ、自分はその寝台の上に乗り上がってレーシアの後ろに回りながら、得たりとばかりに頷いた。


「分かりますことよ。後ろの髪なんて、見えたものではないですしね」


「そうなのよ」


 ディアナはしばし唇に手を当てて考えていたが、考えが纏まるとてきぱきと――しかし優しく、レーシアの髪を手櫛で梳いて整え始めた。

 左右から髪を一房ずつ取って丁寧に編み込み、その二つの編み込みを後頭部で丸く緩い団子に纏める。

 レーシアは軽く頭を振って具合を確認すると、馬車内にいた全員に等しく微笑みかけた。


「似合う?」


 元々の容姿の良さというのは狡いもので、その瞬間のレーシアを可愛いと思わなかった者はいなかっただろう。


 その後、御者をディーンに変わるために数十秒だけ馬車を停め、ディーンに変わって場車内に入って来たリーゼガルトが、レーシアとアリサの髪型を見て何とも言えない顔をした。


「俺が頑張って一刻も早く宝具に辿り着こうと御者やってる間に、中で戯れてたのか? なあ? なあ?」


 と、やり場のない感情に拳を震わせるリーゼガルトを、オリアが何やら宥めていた。





************





 数回、レーシアによる方角の微修正があって、五日が経過する頃には、そうやってレーシアが遊ぶこともなくなった。


 理由の一つは、前触れなく身体が動かなくなることがあるからだ。

 動作一つでさえ、封具の影響が生じる前に打ち消してしまう。言葉も呼吸でさえも、唐突に詰まる様子をレーシアは見せた。


 理由のもう一つは、レーシアが動くことを厭うようになったことだ。

 その訳は、日常のどこで生じるか分からぬ痛みが――単にどこかにぶつけたり、躓いたりする痛みが、消えないことがあるようだった。

 事実、寝台の支柱にぶつけた小指を抱えるようにして、何時間もレーシアが呻き声を堪え、いつまでも和らがない痛みに涙を零していたこともある。何もしてやれない周囲は歯痒い思いをしたが、レーシアにそれを気にする余裕はなかっただろう。

 逆に、痛みを感じるという現象を封具が打ち消してしまうこともあるようで、そうなると封具の影響が切れた途端に、全くの前触れなしにレーシアが痛みを感じることになってしまう。



 ――星明りが窓から差し込んでいた。


 五日目の夜、疾走を続ける馬車の中は静寂に包まれている。

 全員が眠っているということはないだろうが、誰も口を開かず、ただ馬車の車輪の音や風の音が伝わってくるだけだ。

 レーシアは眠ることも恐れているようだが、今は寝台に伏せて規則正しい寝息を立てている。

 それを見ながら、アトルは髪に手を突っ込んで溜息を堪えた。

 何もしてやれないことが、こんなに辛いとは知らなかった。出来ることがないならば、そのまま黙って状況を見守り、やるべきことが出来たそのときに手を出すことが賢いやり方だと、そう分かっているというのに。

 レーシアが寝返りを打ち、数瞬後、はっとしたように飛び起きた。

 その挙動に、アトルを含む眠っていなかった者たちが腰を浮かせる。それに気付いた様子もなく、レーシアは己の胸に手を当て、安堵したように息を吐く。


「――良かった……目が覚めた……」


 目を擦り、欠伸を漏らし、レーシアは寝台の上に起き直った。


「レーシア……」


 アトルは思わず声を掛け、それに答えてこちらを見たレーシアの表情に、思わず息を呑んだ。それは恐らく、その顔を見た他の者も同じだろう。


 死を覚悟し、なお生きようとしている、余りにも悲壮な表情だった。


「――何か、してほしいことは――」


 アトルが苦し紛れに繋いだ言葉に、レーシアはゆっくりと首を振った。


「大丈夫」


 だい、じょう、ぶ、と区切るように繰り返して、レーシアは窓に頭を預けた。


「もう――随分近くなってるから――」


 そう呟いて、レーシアは窓の外に疲れた微笑を向けた。


「ああ……似てる、なぁ……」


 その顔が余りにも疲弊し切っていたので、誰も、何のことなのかを訊くことはできなかった。


「……サラリス」


 レーシアが呟いた。独り言のようだったが、その一言に縋るようでもあった。


「サラリスに会うんだから……死んでられない」






 馬車は更に西へと進んだが、七日目には辺りはヒースが群生する本格的な荒地となり、馬車を進ませるために進行方向を焼き払うこととなった。

 アジャットがその役目をこなしたが、正面に向かって小規模な爆発を繰り返しながら走る爆炎に、アリサは遠い目をしていた。

 そうして無理やり切り拓いた道を馬車が進む。


 レーシアは出来る限り動かないよう、小さくなって過ごしていた。食事すら恐る恐る摂り、それを見るアトルやアジャットの心配そうな態度を見るたび、お道化ようとして失敗したような態度で言った。


「やっぱり封具って怖いね」


 だが、事態はお道化て済むようなものではない。レーシアが一番にそれを分かっていた。


 封具の力は最早抑えを失って暴走寸前であり、最も近くに存在しているレーシアを標的として、容赦なくその性質を――力ですらない、その性質を顕わそうとしているのだ。

 宝具は二つの封具を抑えておけず、そしてレーシアの膨大な魔力でさえ食い潰され、レーシアの体は既に破綻寸前にまで追い込まれている。





「〈糸〉を繋いだときは、もうちょっとは大丈夫だと思ってたんだけど」


 レーシアは七日目の夕方頃、そう零した。


「やっぱりあれかな。封具が強過ぎるのかな」


 西日も差し込まず、薄闇に包まれ始めた車内で、まじまじと観察するように己の指先を見詰めるレーシアに、ディーンが確認するように尋ねた。


「同じ封具でも、強弱があると?」


「あるわね」


 レーシアは頷き、指を折った。


「サラリスの封具が二つでしょ、私がこれで二つでしょ。

〈糸〉を繋ぐときに封具と宝具の大体の強さは分かるんだけど、直接自分で繋いでなくても――二人で教え合っても結構分かるものなの」


 彼女が長く喋ることもこのところなかったことで、レーシアは今も、いつもよりもゆっくりと言葉を綴っていた。


「私がこの間〈糸〉を繋いだのと、サラリスが〈糸〉を繋いでる二つの封具は同じくらいじゃないかと思うんだけど、私が最初に〈糸〉を繋いだ封具はそれより随分強いわ。

〈糸〉を繋いだときに記憶が伝わってくることもなかったから、もしかしたら〈器〉と〈糸〉を繋いだことがない封具や宝具は強くなるんじゃないかなって思ってたんだけど」


 恐る恐るというように息を吸って、レーシアは首を傾げる。


「でも、私の宝具は少なくともサラリスのと同じくらいには強かったわ。宝具と〈糸〉を繋いだときは何人もの記憶が入ってきたから、多分沢山の〈器〉と〈糸〉を繋いだ宝具だと思うのだけど」


 ディーンは目を細めた。


「記憶の――伝達?」


 感心したように唇を吊り上げ、ディーンは零した。


「なるほど、未然の事象の否定をそのように――」


 アトルは意味不明のその呟きに眉を顰め、意味を問おうと口を開いた。


 瞬間、寝台の上で膝を抱えていたレーシアが、唐突に引き攣けを起こしたかのように全身を強張らせ、横向きに倒れ込んだ。


「レーシア!?」


 声を上げて駆け寄ったアトルに何の反応も示さず、ただ胸を掻き毟っている。

 息が出来ていない。胸を掻き毟る動作でさえ、徐々に力を失っていく。


「――心臓が動いてないんだ――」


 オリアが震える唇を覆って呟き、誰よりも早く寝台に乗り上げたアトルが、レーシアの肩を掴んでその身体を仰向けにした。


「レーシア! おい!」


 伊達に荒事の多い〈インケルタ〉に籍を置いている訳ではない。

 アレックが、樹国に入った発端となった依頼が原因で毒を盛られたことがある。結果的にその毒を口に含んだのはシーナだったが、その彼女をアレックたちが蘇生するのを、アトルは傍で見ていたのである。


「レーシア!」


 レーシアは目を見開いていたが、その目が何も見ていないことがアトルには分かった。レーシアの身体から急速に力が抜けていく。


「そんな――間に合わなかった……?」


 ディアナが動くことも出来ずに呆然と呟く。同じように呆然としていたアジャットが、その呟きに我に返ったようにレーシアに駆け寄りながら、怒鳴るようにそれを遮った。


「そんな馬鹿なことがあって堪るか!」


 アトルは仰向けにしたレーシアの胸に重ねた手を置いて、全体重を乗せて圧迫し始めた。

 無理やりにでも心臓を動かしてやれば、まだ生きていられるはずだ。


「何して――!?」


 ミルティアが驚いたように声を上げ、それを、寝台の傍に寄っていつでもアトルと交代できるように構えながら、アリサが固い声で黙らせた。


「助けようとしてるのよ」


 レーシアが倒れた寝台の周りに全員が集まり、各々が絶望と恐怖に顔を歪めた。その緊迫した空気は、魔術を用いなくとも御者台のリーゼガルトに届いたのではないかと思われた。


「死なせるわけには――」


 ヘリオが震える声で囁き、ベティが爪を噛みながら叫ぶ。


「分かってますよ、でも……」


 彼女の目が、渾身の力でレーシアの胸部を圧迫し続けるアトルを映して潤んだ。


「レーシア、レーシア!」


 アトルが絶叫した。


「死ぬなよ、サラリスって人に会うんだろ、死ぬな!」


 力なく揺れるレーシアの身体に、かっと頭に血が昇る。


「ふざけんな、死ぬな、レーシア! しっかりしろ! この馬鹿!」


 人一人の心臓を圧迫し続ける運動が容易い訳もなく、アトルの息は上がっている。

 アリサがアトルの隣に上がり、緊張した声で短く言った。


「代わる」


 アリサと目を合わせ、アトルがレーシアから離れる。一瞬の間さえ空けず、即座にアリサが引き継いだ。


 レーシアは瞬きさえしない。


 アトルの息が苦しくなった。今レーシアが死ぬなら後を追おうと、本気でアトルは決意した。


「レーシアさん――」


 ディーンが絶句している。

 それは余りにも唐突な事態の変化ゆえか、レーシアを死なせた際の己の処遇に思いを馳せてか。せめて絶句の理由が前者であることを祈りつつ、アトルは息の上がったアリサを押し退ける。


「代わる!」


 アリサより速い調子で心臓を圧迫しながら、アトルはきつく目を閉じた。


「起きろ、レーシア!」


 呼吸の止まったレーシアが、何も映していない目で馬車の天井を見上げている。


 念動の魔術で直接心臓を動かしてやればいいのかも知れない。だが、見えない対象に――それも、臓器という非常に繊細な対象に魔術を揮うのは、余りにも危険な行為だった。

 それが分かっているからこそ、その場にいる魔術師は皆、手を出しかねている。


「レーシア! レーシア! 馬鹿、今死んだらマジで愛想尽かすからな! 起きろ!」


 レーシアの名を、全員が口々に叫び始めた。

 口調も籠められる感情も、それら全てが異なっていたが、ここでレーシアを死なせたくはないという、それだけがどの口から溢れる声にも共通の思いだった。


「レーシア!」

「レーシアさん!」

「起きて! お願い!」

「レーシア!」


 アトルが全体重を乗せて胸部を圧迫している。その度に、その衝撃に対して余りにも素直にレーシアの身体が揺れる。


「いいから死ぬな! レーシア!」


 全身全霊で叫んで、それでなおレーシアの様子に変化はない。

 そんな余裕はないというのに、反射的に涙が出て来た。まだ早い、と瞬きでそれを追い遣って、アトルは更に速度を上げて圧迫を続ける。


「代わる!」


 アリサが叫んで――というのも、皆が口々に叫んでいるせいで、囁くだけでは声が届かなかったから――、アトルの腕を押し退けて、ぐっ、ぐっ、と力を籠めてレーシアの心臓を動かす。


「オヤジを助けてくれたお礼、まだちゃんとしてない――!」


 食いしばった歯の間から、アリサは搾り出すように声を漏らした。


「死なないで、死なないで、お願い――!」


 アリサの菫色の目から、ぼろぼろと涙が溢れ始めた。


「泣くな! 気が早い!」


 アトルの気持ちをジャディスが代弁するように怒鳴り、アリサはそれに怒鳴り返した。


「違う! これは汗!」


 アトルは息を整えながら、生気の失せていくレーシアの顔を絶望感と共に見た。


「起きて! 起きて!」



 楽しそうに歌っていた顔も、興味津々に町を見ていた顔も、嬉しそうに笑っていた顔も、一緒にたたかおうと言ってくれた厳かな顔さえ、そして何よりも日常に、アトルをほっとさせてくれるのんびりとした顔も、消えていこうとしている。


 百年の眠りを自らに課した者への怒りに歪ませていた顔さえ、悪意を向けられて不安げにしていた顔さえ、日常と化した膨大な怨嗟で平淡ですらあった顔さえ、サラリスのことを疑って途方に暮れていた顔さえ、消えていこうとしている。


「レーシア……」


 認められない、あってはならない。


「代わる!」


 叫んで、アリサを押し退けてアトルが胸部の圧迫を引き受ける。


「レーシア!」


 この子は海を見に行くべきだ。それも「サラリス」と一緒に。「サラリス」という人の真意がどこにあれ、それをこの子が受け容れる機会が与えられるべきだ。


 もっと自由に、〈器〉と呼ばれることなしに、この世の中を見て回れるべきなのだ。


「起きろ! 馬鹿!」


 まだ早い。死ぬには早い。


「レーシア! 死ぬな!」


 まだ死なれたくはない。


 そう思うのに、レーシアはぴくりとも動かない。瞬きもしないレーシアは、不思議と美しくもなんともないと、アトルはぼんやりと思った。


「馬鹿野郎! 起きろって言ってんだろ、とっとと起きろ! 本気で愛想尽かすぞ!」


 レーシアの表情が変わらない。


「レーシアさん、起きて!」

「レーシア!」

「レーシアさん!」


 至近距離で叫ぶ他の者たちの存在が、頭から綺麗に抜け落ちていく。それはただひたすら、レーシアのことを考えているゆえに。


「今度ばかりは本気で殴るぞ! てめえ、勝手に死ぬな!」


 怒鳴り、叫び、アトルは更に心臓を圧迫する。


(動け、動け、動け――!)


 この心臓が二度と動かないなどと、そんな不条理があって堪るかと、アトルの魂が絶叫している。


 倒れて打ち広がったレーシアの濃紺の髪が、身体が揺れるのに合わせてさらさらと揺れる。

 日が落ち切って、外の世界が夜に覆われていく。

 誰かが車内に灯りを点けて、その光にレーシアの髪が艶を弾く。


「レーシア! レーシア!」


 アトルは殆ど、泣き叫ぶようにして怒鳴った。


「サラリスって人に会うんだろ! 会いに行くんだろ! 一緒に捜してって俺に言っただろ!」


 まだ助かるはずだと、アトルの心が必死に縋る。何に縋っているのかさえ分からないが、とにかくここを譲ったら自分は狂うと思った。


「起きろ! 馬鹿! 縁切るぞ!」


 叫ぶのは子供じみたことばかりで、しかしそれは周囲も同じだった。


「いいから起きて!」

「レーシアさん!」

「一生のお願い! 起きて! レーシアさん!」

「死んじゃ駄目――!」


 レーシアは残酷なまでに無反応だった。


「レーシア! 死にたくないんだろ! 根性見せろ!」


 アトルはレーシアの顔を見て、堪える余裕もなく涙腺が決壊するに任せた。


「頼むから……! 頼むから目ぇ開けろ!」


 アリサは自身の涙を擦り拭い、「代わる」と短く言ってアトルを押し退けた。


 アトルは肩で息をしながら、呆然とレーシアを見ていた。



「――嘘だろ?」



 心臓が、なぜこの鼓動を分けてやれないのだと理不尽に思うほどに激しく打った。



「なあ、これは嘘だろ? レーシア、起きろよ」



 眩暈すら感じて、思考が正常に働かない。


「何でも言うこと聞いてやる。だから起きろ、レーシア」


 アリサも息が激しい。しかしアリサとアトル以外で、胸部圧迫蘇生の経験がある者はいないだろう。初めてやるような連中に、アトルは断じてレーシアの生死を委ねたくはない。



 足下から、痛みと紛うほどの恐怖が這い上がってきた。



 この瞬間にもレーシアを失うかも知れない、否、失っているかも知れないと考えが至った瞬間、アトルは自分の胸が裂けたと思った。


(ああ、)


 アトルは己の口元を手で押さえ、息すら詰めてその痛みを受けた。


(俺は本気で、レーシアを愛してるんだ)


 恋情も思慕も飛び越えて、ただただ大切に愛しく思っているその一人の少女を喪うことが、余りにも恐ろしいのだ。



「アトル……」


 心臓への圧迫を続けながら、アリサが縋るようにアトルの名を呼んだ。



 諦めたくはないと思っていても、諦めざるを得ない状況なのか。――その判断を、アリサがアトルに委ねている。



「――馬鹿言うな」


 アトルは八つ当たりに声を荒らげた。


「諦めるなんてそんな――間抜けなことやって堪るか!」



 心臓が動いていないのならば動かしてやればいいのだ。

 息をしていないなら吹き込んでやればいいのだ。


 何をしてでも、アトルはレーシアを諦められない。


 アトルは呼吸を整え、膝で移動してレーシアの頭の傍で身を屈め、


「あ」

「え」

「へ」

「は」

「お」

「なっ……」




 唇を重ねて、レーシアの喉に深く息を吹き込んだ。




 余談であるが、魔術が発達したこの世界において、口移しで呼吸を分けようと提唱した人間は、これまでに一人たりとも存在しなかった。

 呼気と吸気は別物であると、百年戦争前から言われており、溺れた者に水を吐き出させる場合は別として、口移しで呼吸を分けるなど愚の骨頂であると言われているのである。

 ゆえにこの瞬間、アトルがこの行動に移ったのは単に、正常な思考が働いていなかったためといえる。――歴史上に何人、彼と同じく極度の恐怖でパニックを起こし、同じ行動に移った者がいたかは別として。




 突然レーシアに接吻し(くちづけ)たアトルの行動に、一瞬にして馬車内が静まり返った。






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