16 口づけの意味
レーシアは明るい陽光の下を歩いていた。
周囲は草原で、腰までの高さの草が風に揺れている。白い小さな花がその草の頂には開いていて、それで遠くに目をやれば、地平線が白く煙っているように見えた。
空は薄紫を溶かしたような長閑な青い色。風は緩やかにしか吹かず、気温も春を思わせる、心地よい温かさ。
陽はレーシアの頭よりやや後ろで輝いている。真っ直ぐに前を見ても眩しくない、ちょうどいい位置である。背中もぽかぽかと暖かい。
ぶっちゃけてしまえば、レーシアにとっては居心地のいい場所だった。
視界は端から端まで障害もなく広がり、山もなければ川もない。
「……そういえば、なんで歩いてるんだろう」
レーシアはぽつりと呟き、呟いて初めて、その場が全くの静寂に満ちていることに気が付いた。
「……変なの」
そう零し、それでも歩き続けるレーシアは、眉間に皺を寄せて「ううん」と唸る。
「そもそもなんでここにいるんだっけ――そういえば心臓が止まったような気が」
はっとして胸を押さえ、レーシアは心臓が動いていないことを確認する。
風がさあっと吹き、無音で草が揺れる。レーシアはその中に立ち、しばし硬直して佇んでいた。
「……動いて、ない」
そう呟いて、そのことでようやく現実を認識し、レーシアはさっと蒼褪めた。
「どうしよう……私、死んだんだ――」
足を止め、俯いたレーシアは、ぼろぼろと己の目から涙が零れるのを知覚した。視界が歪み、揺らぐ。
「サラリス、サラリス、サラリス――アトル」
呟くように名を呼んで、レーシアは顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
「アトル、アトル、どうしよう、私、死んじゃったんだ」
生き物の気配のしない周囲の様子に、レーシアは泣きじゃくった。
「死んだらこんな所で独りだなんて酷い。せめて知ってる人がいるべきよ」
泣き続けるレーシアは、己が死んだ衝撃で、少々理性を失っていた。
「どうしよう、アトルも死んだらここに来るかな。だとしたらあと何十年待てばいいんだろう」
が、そんな中でもレーシアはちゃっかりと確認する。
「ここにサラリスがいないってことは、やっぱりサラリスは生きてるのよ。デイザルトめ、生き返ることがあったら笑ってやるんだけど」
無音で草が揺れる。しゃがみ込んだレーシアの頭上で、白い花がゆらゆらと幾つも揺れている。
レーシアは腕に顔を押し付け、泣き声を誤魔化そうと震える声を張り上げた。
「こんなことなら、アトルのオヤジさんくらいは見捨てれば良かった! そもそも〈糸〉を繋ぐんじゃなかったわ!」
叫んだ直後の静寂に、またも耐え難いものを感じてレーシアは顔を歪ませる。
「ほんとに――誰もいないの……?」
恐る恐る顔を上げ、立ち上がりながら周囲を見回す。
「ジェルト? グレイシャット? キリシャ?」
心当たりのある名前を呼びながら周囲を見回し、後ろを振り返ったレーシアは息を呑んだ。
いたのだ。人が。
サラリスではない。アトルでもない。ジェルトでもなければグレイシャットでもなく、キリシャでもないとレーシアには分かった。
逆光で顔形は分からなかったが、レーシアと同じくらいの身長の、髪の長い女性だということは分かる。
その人はこちらをじっと見ていて、レーシアは覚えず息を呑んだ。
友好的な視線ではない。かといって敵意があるわけでもない。淡々とした、物を見るような視線を、その女性はレーシアに注いでいる。
「え……」
思わず声を漏らしたレーシアに、その女性が口を開いた。
「――何してるの」
太い鎖のような印象を受ける声が、抑揚もなくそう言った。
どこかで聞いたことがある声だと、レーシアは漠然と思った。
しかしレーシアに思考の時間を与えず、女性は責めるようにレーシアを指差す。その仕草は非常にゆっくりとしていて、億劫そうで――どこか存在感のない、希薄な動きだった。
「あなたは死ねない。あなたは消えられない。わたしが約束を果たすまで。あなたが〈器〉になるまで。帰りなさい。ここにまだあなたの居場所は作られていない」
は、と目を見開くレーシアは、ふと二つの異状を覚えて女性から目を逸らし、胸に手を当てた。
「この感じ――」
かつて二回、アトルに自分の魔力を使わせた。そのときに繋がった、いわゆる「経路」が熱くなっているような。擦り切れた魔力が、それでもなお僅かな熱量を以て、レーシアの感覚を刺激する。
そしてもう一つの異状は、
「何もない、よね……」
己の唇に手を触れ、レーシアは呟く。意味もなく心臓が跳ねたのは、唇に何かが触れたような感覚があったからだ。
温かく、優しい何かが。動かないはずの心臓がきゅっと縮まるような、何かが。
もう一度女性に目を向けると、女性の茫洋とした眼差しは既にレーシアから外れており、彼女はレーシアに背を向けていた。
希薄な動きでふらふらと、女性がレーシアから離れるように歩き始める。
レーシアは目を細めた。
女性が向く先、その方向には光が溢れている。太陽光だけではない何かの光が、丸く柔らかくその場所を覆っている。
そしてその中に、草原をゆっくりと歩き回る何人かの人影が見えたような気がして――、あるいはその空間に、低く渦巻く声が溢れているような気がして――
女性が不意に、ぱっと振り返った。
その動作は軽やかで、今までの彼女の動作とは一線を画している。その動きのままに彼女が左手を持ち上げ、鮮やかな炎が灯ったような表情を湛えて、真っ直ぐにレーシアを指差した。
『己に許されざる領分と知れ!』
強固な意志を感じさせる彼女の声がレーシアの全身を貫いた。レーシアは思わず目を閉じる。
そのままレーシアの意識は、魔力についた「経路」を辿るようにして――
************
レーシアが瞬きした。
その瞬間に激しく咳き込んだ彼女に、馬車内にいた全員の視線が集まる。
「な――」
誰かが短く声を漏らし、次の瞬間、割れんばかりの歓声が上がった。
「やった――っ!」
「よくやった! よくやった!」
「良かったぁあああ!」
突然の騒音に驚いたのか、レーシアは更に瞬きして焦点を定めようとして、
「わっ!?」
至近距離にあったアトルの顔に、掠れた声を上げた。
アトルはレーシアに口づけた姿勢のままで目を見開いていた。間近で咳き込まれたことを気にした様子もない。レーシアは彼の睫の一本一本までしっかりと数えられたことだろう。
咄嗟に声が出にくいのか、レーシアが咳き込みながら顔を逸らし、腕を持ち上げて顔を隠そうとしたが、力が入らないのか断念。
「ち、ちっ、近っ、近い!」
声量は囁くほどだったが、叫ぶに等しい口調でそう言ったレーシアに、
「……レーシア?」
周囲から一呼吸分遅い理解を、アトルが示した。
「はな、離れて、アトル、わぁ」
レーシアが混乱の余りしどろもどろにそう言って、しかしアトルは「レーシアが喋った」事実を認識することは出来たものの、「レーシアが何を言ったか」についての認識はし損ねた。
「レーシア!」
叫んで、アトルはそのままレーシアの上半身を抱き起こし、抱き締めた。
「レーシアか! やったぞ! おまえ、どんだけどんな気持ちになったか、おぉおお、レーシア!」
普段の彼からは考えられない、訳の分からない発言に、抱き締められたレーシアはきょとんと目を丸くした。
「は……?」
アトルの耳はまたしてもレーシアの声を拾い、歓喜して叫んだ。
「生きてる! すげえ! 偉いぞ! 何でも言うこと聞いてやる!」
レーシアはなかなか力の入らない身体と、掠れた声に戸惑ったらしく、呆然と呟いた。
「えっとじゃあ――状況を説明――」
アトルが感激しっ放しで、とてもではないが順序立てて説明する精神状態ではないために、ディーンが咳払いして口を開いた。
ちなみに彼はレーシアが瞬きした瞬間、「おおおお!」と雄叫びを上げていたのだが、そのことを忘れさせるような冷静沈着な面持ちである。
「レーシアさん、あなたは倒れられたんですよ。覚えていませんか? 心臓も止まっていて」
言われて、レーシアははっとしたようだった。
「そう言えば――」
彼女の脳裏に、明るい草原が過ぎり掛けたが、すぐにその光景は記憶の彼方に埋まっていく。
ようやくアトルの態度に合点がいったのか、レーシアは自分を抱き締めるアトルの背中に腕を回し、ぽんぽんと叩いて、やや申し訳ないと思った口調で囁くように尋ねた。
「ごめんね、心配してくれたの?」
アトルはますますレーシアを抱き締める力を強くしたが、彼の理性はとっくに戻っていた。単に、嬉し泣きを見られたくなかったがゆえの行為である。
アリサは脱力してレーシアの傍で引っ繰り返り、こちらは安堵の涙を隠すために腕で目を覆った。
周囲は宝具を見付けたかのような喜びようで、互いに肩を叩き、あるいは抱き合い、あるいは抱き上げ、なかなかのお祭り騒ぎであった。
ジャディスに抱き上げられたミルティアが「いやっほう!」と叫ぶ声が、一際高く耳に届く。
「アトル青年よくやった!」
アジャットがアトルの背中を叩き、アトルの背中越しにレーシアと目を合わせて(アジャットの顔はフードの奥なのだが、レーシアはそんな感覚を得た)、心から嬉しげに言った。
「レーシアさん、アトル青年とアリサ嬢は特に、きみの命を繋いだんだぞ」
レーシアは目を見開き、アリサの方を向こうとして、アトルにがっちり抱き締められているためにそれを断念した。
「そうなの? アリサ、ありがと――今はちょっとそっち向けないから後でちゃんと言うね」
「いいわよそんなの、恩返しだもん」
レーシアはその答えに微笑み、またアトルの背中をぽんぽんと叩いた。
「アトル、いつものことだけどほんとにありが――」
「うん、最後の口づけが無かったら、どうなっていたか分からんな」
レーシアの礼の言葉を、アジャットが投下した爆弾が遮った。
車内が再び静まり返り、アリサがそそくさと寝台を離れる。アトルはぴき、と固まった。
が、固まったのはレーシアも同じである。
「な、な、な――」
その硬直が破れ、かっと頬に血を昇らせたレーシアが、激しく震え始めた。
「なんで、え、うそ、なんで、なにが、え?」
アトルはさっとレーシアを放し(さりげなく涙を拭き)、寝台から下りて一歩下がり、彼女の愕然とした顔に少々傷付いた。
「いや、俺は――」
「え、ほんとなの!?」
「そうだけど、俺は――」
「なんで!?」
「だから、俺は――」
「うああぁぁぁ――」
アトルの説明を悉く遮り、レーシアは両手で顔を覆った。
「そんなぁあ――」
助けられた割にはあんまりな反応であり、ついでにアトルは深く傷付いた。
「なっ、なんだよ、おまえ、俺はおまえを助けようと――」
レーシアはがばっと顔を上げ、その両目に浮かんだ涙でアトルに止めを刺し、アトルを指差した。その挙動はまだ鈍いものだったが、概ね、身体に異常はないと見えた。
「そう、それが駄目! 駄目!」
「はあっ!? おまえな、俺は――」
アトルが殆ど脊髄反射で食って掛かると、レーシアは本格的にしくしくと泣き始めた。アトルは勢いを削がれておろおろする。
「おまえ――えぇ? な、泣くことないだろ……」
わああ! と枕を抱えたレーシアが枕に顔を伏せ、真っ赤になった耳と顔を全員から隠した。そして、ややくぐもった声で叫ぶ。
「リンフィーとジョーゼフの恋を見てどんなに憧れてたと思ってるのー! サラリスと二人で色々話し合って最初の口づけはどんなのがいいとか決めてたのにー!」
アトルは唖然とした。
「り、りんふぃー? じょーぜふ?」
片言で繰り返す彼に、「ふむ」と爆弾を投げたことをすっかり忘れたらしいアジャットが助け舟を出す。
「古典の戯曲の登場人物だな。恐らく、レーシアさんはその舞台を見たことがあるのではないかな?」
うわあああ! と己の葬式に出ているような雰囲気で泣き散らすレーシアの声を背景に、アジャットは淡々とその戯曲の粗筋を説明する。
「リンフィーは見目麗しい貧乏な娘で、ある日山菜を採りに行くのだが、そこで足を挫いて困りきっていところを、ジョーゼフという美貌の騎士に助けられる。二人は恋に落ちるのだが、元より身分は違う上、国を巻き込んだ陰謀やら戦争やらと、あらゆる苦難が雨霰と二人を襲い、最後にはジョーゼフが敵である悪徳貴族に追い詰められる。リンフィーが、彼女の容姿に惚れ込んでいたその悪徳貴族に嫁ぐことを条件に彼の助命を願うんだが、そんな条件で助かりたくはないと、ジョーゼフは結局死刑になってリンフィーを自由にする。残されたリンフィーはやっと事態の収束に動いた国王の手で保護され、王宮で侍女として働きながら、彼の分まで生きることを決意して終幕するという、まあ、悲恋だ」
「ちがーう!」
顔を上げたレーシアが、今度はアジャットを指差した。
「そんな簡単なものじゃないの! ジョーゼフが裏切り者の疑いを掛けられたり! リンフィーに迷惑は掛けまいとして黙って彼女の前から去ろうとしたり! でも諦められないリンフィーがジョーゼフを信じ続けて捜し回ったり! ジョーゼフを助けるためのリンフィーの悲壮な決意の場面とか! 最後の、牢まで訪ねたリンフィーに、ジョーゼフが鉄格子越しに――うわああ!」
捲し立てて、レーシアはまた枕に顔を埋めた。
「アトル! 駄目! 本当に!」
文節ごとにぐさぐさと刺される気分を味わいながら、アトルは顔を強張らせた。
「だから、何がだよ」
漠然とレーシアの答えの察しはついたが、察しがついた内容だとすると余りにも空し過ぎるので、どうか外れであってくれと願いながらの問いである。
それにレーシアは枕からがばりと顔を上げた。まだ赤い頬は怒りのためであるとばかりに憤然と、やはりいつもよりはやや鈍い動きで、レーシアは拳を振って力説する。
「アトルはどうだか知らないけど! 私にとっては初めてだったんだから! せめて自分のことを好きでいてくれる人が良かったよ!」
アトルの目が点になった。
「――はあ?」
待て待て待て、とレーシアまでの一歩を詰める。
「自分の好きな人が良かったよ、じゃなくて、か?」
レーシアはきょとんとした顔をした。
「え? 好きな人なんていないもの」
「…………」
言葉を呑み込んだアトルに、レーシアは枕を振り上げて嘆いた。
「助けようと、とか言っちゃ駄目! 嘘でもそこは『好きだから』! 今からでもいいよ! ほら言って!」
「は、はああ?」
アトルは面食らい、それから憤然とそっぽを向いた。
「馬鹿かおまえ。そんな風に言われて言えるか」
――本気で好きなのだ、冗談のように扱われては堪ったものではない。
「なんで!? さっき何でも言うこと聞いてくれるって言ったでしょ!」
「言ったけど今とは言ってねえ」
「なにそれずるい!」
ぽかぽかと枕で殴られるのを、レーシアが怪我をしないように両手で受ける。
それをぼんやりと見ていたディーンが、はっと気付いたように言った。
「――レーシアさん、安静に。アトル、おまえも、レーシアさんの感情を昂らせてどうする」
あ、とアトルとレーシアの声が重なった。
極度の感動と安堵で、すっかり忘れていたのだった。
――宝具はまだ先にある。




