07 月下の決裂
「これより後、あなたが傷付くことはございません」
そう言ったディーンの行動は迅速だった。
レーシアの前に立った彼は、軽く片手を前に挙げる。そこに小さな魔法陣が幾つも生じ始め、ちりちりと輝いた。
「この方にそのような口を利いた無礼、謝罪するならば容赦を一考しよう。謝罪がないのであれば、そしてこの方に危害を加えようとするのであれば、この俺が存分に相手をするが、どうする」
昼間の戦闘において、ディーンと行動を共にした者たちは、彼の力を知っている。そろりと下がった彼らに触発される形で、全体がじり、と下がった。
「どうした、謝らないのか」
ディーンは一歩踏み出し、ふっと酷薄な笑みを浮かべた。
「まあいい。――レーシアさん」
振り返ってレーシアを見て、ディーンは胸に拳を当てて一礼した。
「お許しいただきましたこと、そしてお呼びくださいましたこと、心から御礼申し上げます」
レーシアはこくんと頷いた。
「あの障壁を破ります。よろしいですか?」
また頷いたレーシアを確認し、ディーンは先程の魔法陣に向かって手を振った。
ひゅん、と宙を飛んだ魔法陣が障壁にぶつかり、粉々に砕け散った。眉を寄せ、更に魔術をぶつけるが、全て障壁に阻まれる。
「――出来ないの?」
レーシアが尋ね、アルナー水晶を埋め込まれた板を見て首を傾げた。
「あ、見て」
ディーンがレーシアの視線を追って、それを見る。レーシアはいつものようにのほほんと笑った。
「誘ってるみたい。そう思わない?」
浮遊する板は、ひらりひらりと舞いながら、確かに町の方へと動いていた。
そしてそれは、彼らを囲む障壁が、唯一解除された場所でもあった。
そちらに進むよう、強制されているのは明らかだった。
そして今、町の入り口に立ったディーンに、レーシアが問い掛ける。
「知り合い?」
「いえ、そういうわけでは」
否定したディーンは、レーシアを見ることなく町を見渡す。その視界に少女が映ろうはずもないが、彼は確信ありげだった。
「元素系――それもこのような熱を操る術を好んで使う者と、以前手合わせしたことがございまして。そのときの者が、アディエラ・シェレス」
アディエラと呼ばれた少女は、こつこつと靴音を響かせながら、アトルたちとは別の通りを伝って、悠然とその姿を現した。
「まあ」
門を見て、アディエラは胸の前で手を組んだ。
その頬が上気し、瞳がきらきらと輝く。満面に笑みを浮かべて、アディエラは叫んだ。
「レーシアさま!」
レーシアが警戒するようにディーンの後ろに回り、それにまるで気付いた様子もなく、アディエラが滔々と言葉を発し始めた。
「ああ、どんなにお会いしたかったことでございましょう。こうしてお会いするのは初めてですわね! ああ嬉しい。あなたがここにいてくださること、あなたが生まれてきてくださったこと、全て我々の悲願、我々の希望」
町一つを躊躇いなく溶岩で押し流そうとした魔術師が、涙さえ浮かべてレーシアに話し掛ける。時折躓きながら、まるで生き別れの娘に出会ったかのように、愚直なまでにレーシアに近付こうとする。
ディーンが障壁を彼女の前に作り出し、その歩みを止めようとしたが、アディエラの首飾りの紅玉がきらりと輝くと、障壁は粉々に砕け散った。
「あなたはわたくしたちの、わたくしの命よりも大切な方の、わたくしが心から敬愛する方の、わたくしの全てを捧げる尊き方の、希望そのものです」
レーシアはいっそ気味悪そうに彼女を見て、ディーンに端的に言った。
「黙らせて」
「御意」
短くそれを拝命し、ディーンが一歩アディエラに近付く。
立て続けに氷の槍がアディエラに向かって放たれたが、アディエラはそれを悉く撃破し、ディーンの目と鼻の先に立った。
「まあ、邪魔ですことよ、お退きになってくださいませな」
まるでたった今、ディーンがそこにいるということに気付いたかのようにそう言って、アディエラは微笑む。
「出来かねる」
「まあ、まあまあ」
アディエラは輝くような笑みのまま、そう言った。
「今、わたくしはとても気分が良いのです。レーシアさまのお傍へ一刻も早く行きたいのです。お退きになってくださらないのなら、力づくでも通りますわよ」
そこまで言って、口元に手を当てる。
「あ、力づくで、なんて言っていたら、また淑女らしくないと怒られてしまいますかしら」
彼女の発言を遮るように、ディーンがその鳩尾を拳で捉えた。
「――う」
微かに声を漏らして、しかしすぐにやんわりとディーンの拳と腕を手で押さえて、アディエラは言った。
「思い出しましたわ。あなたは確かディーンさん……、相変わらず、淑女の扱いを存じ上げないようですわね」
ディーンはその手を振り払い、アディエラの目方の軽い身体を突き飛ばした。
「貴様のような小娘、淑女とは言えん」
レーシアは人混みに圧倒されたように視線を彷徨わせていたが、はっと気付いて声を上げた。
「アトル!」
伸び上がって手を振る彼女に、アトルも躊躇いがちに手を振り返した。
どうしてディーンの隣にいるのかが気になって、どうしてもディーンを見てしまう。しかしレーシアはアトルが自分を見ていないと思ったのか、更に声を上げて呼ばわった。
「アトル、アトル!」
ディーンに突き飛ばされ、僅かに身体を曲げて俯いていたアディエラが、声を落とした。
「――アトル……?」
顔を上げ、訝しげに人混みを目で検分する。
まるで、彼女の希望そのものであるレーシアが気に掛けているのが誰なのか、気になって仕方がないといように。
レーシアは無謀にもアトルに近付こうとしており、その動きに目を留めたアディエラが、また彼女に近付こうとする。それに気付き、レーシアが叫んだ。
「ディーン!」
「はい!」
呼ばれ、アディエラに向かって魔術を撃つディーンに迷いはなく、その威力も十分。衝撃波が白く空気を波立てて迸る。
それこそ主君を守る騎士のように。
その姿を見て、アトルの胸が刺されたように鋭く痛んだ。
(きみではレーシアさんと一緒にいられない)
かつてオリアに言われた言葉が、今更のように心臓に突き刺さった。
ディーンなら、レーシアを守れる。彼女に好きなように行動させてやりながら、その傍で彼女に対する危険を排除することが出来る。アトルのように、レーシアを庇って防戦一方になり、彼女に走り回らせるようなことにもならない。
それはディーンに実力があり、アトルに実力がないからだ。
特等指定されているだけあって、アトルも無力というわけではない。しかし、レーシアを囲む危険はアトルの守れる範囲にないのだ。
レーシアの隣に立って、堂々と彼女を守ることが出来るディーンに対して、抑え切れない嫉妬が頭をもたげた。
アトルはそこに立ちたいのだ。それをしたいのだ。それをどうして、さも当然のように樹国の走狗が任せられるのか。
レーシアが駆け寄ろうとしている方向に見当を付けて、衝撃波を弾いたアディエラが、ディーンとの攻防の隙を拾って火炎を降らせた。
見当を付けたとは言っても、かなり適当な方向だ。アトル本人には当たらない。
「ああくそっ、アリサ!」
アリサを引っ張り寄せて庇い、残り僅かな魔力を搾り出してデリックたちの上にも防壁を張る。火炎を受け止めた防壁が眩しく照り輝いた。
「ディーン、その人を止めといて!」
「御意のままに」
レーシアが声を荒げ、ディーンが答える。その遣り取りですら、アトルの胸には痛い。
ディーンの猛攻を受けるのにアディエラの手が塞がったのか、あるいはレーシアの機嫌を損ねることを察したのか、アトルの方向を狙った攻撃がなくなった。
レーシアはその間にアトルにまで辿り着き、にっこりと笑った。
「良かった、ちゃんと無事だった!」
「ああ……」
アトルは呟き、ディーンに目を向けた。
「な、なあ、おまえ、あいつのこと嫌いだったんじゃ……」
レーシアは照れたように笑った。
「だって絶対助けてくれると思ったから」
「アジャットとか、ミルティアとか、ディアナとかでも良かったんじゃ……」
レーシアは不思議そうな顔をした。
「彼、強いでしょう? アトルは何を気にしてるの?」
アトルは言葉に詰まった。
「邪魔をしないでくださる!? わたくしはレーシアさまのお傍へ行きたいのですけれど!」
アディエラの怒声が上がり、同時に彼女の腕輪の水晶が光った。
それに対し、誰よりもアディエラ本人が顔を歪める。
「ああ、しまった――」
暴風がアディエラを中心として吹き荒れ、アディエラとレーシアの間の人々を吹き飛ばした。ディーンも例に漏れず、アディエラの後方に飛ばされ、すぐに起き上がったものの、その顔には焦りの色が濃い。
アトルはレーシアを挟んでアディエラの反対側にいたので無事だったが、レーシアはアトルの方を向くことを止めていた。
水晶が光った瞬間――正確には、そこに溜められていた魔力が術式を得て発動した瞬間に、大きく息を呑んだレーシアは、弾かれたように振り返ったのである。
アディエラに向き直って、レーシアは目を細めた。
――十三年間、物心ついたときからずっと一緒にいた。
だからこそレーシアには、その魔力の判別が出来る。
その魔力だけは気配でそれと分かる。
サラリスの魔力だけは。
「――あなた、誰?」
静かにレーシアがそう訊いた。
その髪に火花が絡んでいる。
「わ、わたくしは――」
アディエラが竦んだように言う、それを遮って、レーシアがしんしんと冷えた声を出した。
「あなたは誰? あなたは何なの? 誰であろうと何であろうと、あなたは『私たち』じゃない」
レーシアがアディエラを、剥き出しの敵意の籠もった目で睨み付けた。
「レーシア……?」
アトルが呼び掛ける、その声にすら耳を貸さず、レーシアが低く呟いた。
「――人間風情が」
そのとき初めて、アトルはレーシアを恐ろしいと思った。
彼からはレーシアの後姿しか見えないが、その背中が雄弁に、彼女が激怒していることを表わしていた。
大陸を沈めることさえ可能な兵器でもある少女の、その本気の怒りを正面から向けられて、アディエラは立ち竦んだ。
「レーシアさま……」
「呼ばないで」
はっきりとレーシアが言った。
アトルには、何が彼女をそうまで激昂させたのかは分からなかった。
だが、今のレーシアがこれまでに見たことがないほど冷静に、滾るような怒りを露わにしていることは分かる。
「人間風情が、私たちの間に立ち入らないで」
人間風情が、と、まるで自分は人間ではないかのように繰り返して、レーシアは低く続けた。
「どうして、人間風情がサラリスの気配がする魔力を使うの」
「これは――」
「サラリスは何をしてるの」
「あ、ああ――」
「人間風情が!」
レーシアは怒鳴り声を上げた。冷静さが掻き消え、激情が彼女の瞳を燃え上がらせた。
「人間風情が、私たち化け物の間に入ってこないでよ!」
アディエラはその瞬間、泣きそうな顔をした。
「……そんなことを言わないでくださいませな」
実際に目に涙を浮かべて、アディエラは囁いた。
「あなた方が化け物なんかであるものですか」
「失せろ!」
レーシアが絶叫した。
「どこかに行って! 大嫌い! 私は化け物なの! それでいいの!」
レーシアは地団太を踏んだ。
「この世界に二人だけの化け物なの! 他には何もいらないから! あなたたち人間風情が私からサラリスまで奪ったんだ! あなたたちが〈器〉を私に押し付けたんだ!」
セレットで、初めてベルディとオリアに襲われたときに、アトルが発した詰問。――誰が最初にレーシアを化け物だと言って、誰がレーシアにそう思い込ませたのか。
その答えは全て、胸が痛くなる程の信頼と愛情と依存心をレーシアから向けられる、ただ一人のその人に収束する。
だからこそ、レーシアはアトルの怒りの原因が分からなかったのだ。
(ねえ、レーシア。あなたはとても素直な、私の自慢。でもね、あなたがとても可愛い、ただの女の子だと気付いてくれる人は、きっととても少ないと思うの。だから、)
サラリスはレーシアを愛している。そうでなければならない。だからこそ、サラリスがレーシアに関することで間違いを言うはずはないのだ。
(あなたはみんなが言うように、化け物でもあるのよ。でもそれは私も一緒。二人きりの化け物よ。それはそれで仲良しみたいでしょ?)
レーシアは息を吸い込んだ。
「サラリスは何をしてるの!」
その叫び声と同時に、ディーンが背後からアディエラの腰に氷の剣を突き立てる。予想以上に軍服が硬かったのか、貫通こそしなかったものの、手傷を負ってアディエラが呻いた。
「俺も訊きたい」
ディーンが静かに言った。
「その水晶に溜められたサラリス・エンデリアルザの魔力、どのようにして手に入れた」
声を低め、ディーンが発した次の言葉はレーシアに届かない。
「――サラリスさんは、あの男の傀儡のままなのか?」
刺されてよろめき、まるでディーンの言葉が聞こえていないかのように、アディエラはうわ言を漏らした。
「服を破いてしまいました。怒られてしまいますわ」
「――サラリスさんは、魔力をおまえたちに提供できる状態なのか?」
「怒られてしまいますわ。レーシアさまを怒らせてしまいました。ひどく怒られてしまいますわ」
「答えろ!」
ディーンの大喝に、アディエラが彼に目を向けて毒づいた。
「お黙りなさいませ。この狂信者。我々の敵兵、あの方に仇なす害虫が!」
凍り付いていた溶岩が、一瞬で消え去った。それは細かい粒子になって宙を舞い、辺りは濃霧が発生したよう。その煙に全員が咳き込む。
ディーンがその中でなお正確にアディエラに追い縋り、氷で作り出した剣を大上段から振り下ろした。
アディエラが燃え盛る炎で目の前に一線を引き、それに対抗する。その赤い光が煙の中でぼんやりと見え――
「あ、やべっ」
アトルは呟き、アリサを引き寄せ、デリックたちにも傍に寄るよう素早く合図する。そしてレーシアを基点として防壁を、自分たちを覆うようにして展開した。
守るべきレーシアがそこにいること、その認識が意志の力となって、アトルの魔力に限界を突破した僅かな力を与えてくれる。
レーシアは今にもアディエラがいると思しき方向へ掴み掛かろうとしていたところで、目の前に唐突に現れた防壁に手を突き、叫んだ。
「何これ!」
同瞬、アディエラの招いた火が粉塵に引火し、爆発が起こった。
青白い炎の波が空気を這い、それに続いて紅蓮の爆炎が辺りを舐め尽くす。
既に限界を超えたアトルだけで、その場にいた民間人を全て守ることは不可能である。だが、惨劇は回避された。
ほっと息を吐き、アトルは声を出した。
「アジャットたちだな」
アトルの防壁を炎熱の暴力が舐める中、ディーンとアディエラのいる場所を除いて、人々を守るように防壁が広げられているのが感覚として分かった。
「レーシア」
赤く照らされた防壁内で、アトルは未だにこちらに背を向ける彼女の名を呼んだ。
「――どういう経緯でおまえたちがここに来たのか、訊いてもいいか?」
それが実際的な問題だったからか、レーシアは大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせると、口を開いた。
「――あの、アルナー水晶の嵌められた板があったでしょう。あれが障壁を張って、こっちに来るしかなかったの。来てみたら凄いことになってたから、アジャットたちがみんなしてあの溶岩を凍らせたの」
そうか、と頷いて、アトルは視線を上げた。
炎は沈静化しつつあったが、煙が立ち込め、防壁越しにあの板の行方を捜せる状態ではない。
「で、」
アトルが次の質問を向けようとするが、レーシアがそれを遮ってぼそりと呟いた。
「サラリスは何をしてるんだろう」
アトルの喉で待機していた言葉が凍り付いた。
「サラリスはとっても強いの。いざとなったら雷兵も空人も呼べるし。だからね、無理やりサラリスから魔力を盗るなんてこと、できる訳がないの」
レーシアは防壁に縋るようにしてその場にしゃがみ込んだ。
「――サラリスが、あの人に味方しているのだとしても、自分の魔力を使わせるなんて、そんなことするはずないの。宝具も封具も押さえておかないといけないのに、サラリスにはそんな余裕はないわ」
レーシアは髪に手を突っ込み、声を絞り出した。
「全く分からない。サラリスは何をしているの」
「レーシア、でもとにかく――」
アトルは思わずレーシアの独白に割り込んだ。
「あの女がサラリスって人の魔力を使ってるってことは、サラリスって人がちゃんと生きてるってことだろう?」
それは一つの朗報であるはずだった。
だが、その言葉にくるりと振り返ったレーシアは、むしろ不思議そうな顔をしていた。
「今更じゃない」
圧倒的な信頼が、親愛が滲む声で、レーシアは言った。
「そんなこと、一度だって疑ったことないよ」
爆発が起こると同時に、氷の剣を溶かされたディーンは腰の剣を抜き、アディエラに斬り掛かっていた。それをアディエラは魔術をもって眼前で食い止める。
全体重を乗せて斬り掛かる男と、僅かに膝を折りながらそれを見上げ、食い止める少女。爆炎が二人の周囲で渦を巻き、生成された防壁がそれを弾き返すのを横目に見ながら、しかしディーンもアディエラも、己の身一つを守りながら引かない。
「しつこいですわよ」
アディエラが低く囁き、更に声を潜める。
「ここだけの話、わたくしにはあなた方と戦う意味もございませんの。レーシアさまのご尊顔を拝せただけで十分ですわ」
「訳の分からないことを――!」
「ええ、ええ、分からないでしょうとも、この害虫ども」
アディエラが声に嫌悪を滲ませた。ディーンは更に問い詰める。
「おまえはあの男の何なんだ? なぜそうまであの男に尽くす?」
「あなたには関係のないことですわ。あの男あの男と、あの方を貶めるような呼び方は不遜、失礼、無礼、非礼、不躾ですわ。即刻お改めになってくださいまし」
がりがりがり、と防壁に罅が入り始める。ディーンは更に体重を掛けながら、質問を重ねた。
「その『あの方』というのは一体何があって、そうも〈器〉を求める?」
「質問の多い方ですこと。答える義理もありませんわ」
「おまえたちがレーシアさんのことを――」
「そう気安く呼ばないでいただけますかしら!」
アディエラがディーンを押し返し始めた。罅割れた防壁が淡く輝いて修復され、ぎりぎりとディーンの剣を押し上げていく。
「あの方は我々の希望、我々の歓喜、我々の待望、我々の切望、我々の悲願、我々の幸福。それを、その名を、あなたたち害虫ごときが声に出すなど、口にするなど、無礼にも程がありますわ。――万死に値する行為とお知りになって!」
声と同時に大きく弾かれ、ディーンが仰け反る。
アディエラは大きく腕を振った。その動きで炎が掻き消え、煙が途絶える。
町の外で待機する魔術師たちが、ゆっくりと防壁を解除していった。その指揮を執るのはアジャットだが、その指示の的確さに、ディーンは素直に感嘆した。
アトルだけはアディエラを警戒してか防壁を解かない。賞賛に値する精神力であるとディーンは考えた。
彼の防壁には揺らぎがあり、本来ならばとても魔術を行使できるような魔力残量などではないのだと物語っている。
その防壁の中で、レーシアはアトルを振り返っていた顔をアディエラに戻し、彼女を睨み据えた。
「ああ、やっぱりとても怒っていらっしゃいますわ」
アディエラが手を握り合わせ、眦を下げる。
「――死ね!」
ディーンが罵りながら体勢を整え、剣を振り下ろす。それをまたしても魔術で止め、アディエラは右の人差し指をひゅんと振った。
ぼふ、と音がして、彼女の足元から同心円状に敷石の上を衝撃波が走った。それは敷石を割り砕き、舞い上げ、煙幕と成す。
「待て!」
ディーンが風を起こしつつそれを追おうとしたが、アディエラは魔力量に任せてディーンの風を掻き消し、先ほど受けた腰の傷を庇いながらディーンに追撃を放ち、それを受けてディーンの手から剣が飛んだ。
「レーシアさま、申し訳ございません。この場は辞させていただきます。近いうちに無礼をお詫びに参りますわ」
痛みを堪えるアディエラの声がして、靴音が遠ざかる。煙幕の中でアトルは目を凝らしたが、元より防壁越しであって、その姿を捜せない。
「う、ううう」
レーシアの泣き声に、アトルは防壁の外から視線を戻し、どうにか彼女の頭を撫でた。出来る限りいつも通りにしたいと思ったのだ。
「偉いぞ。魔力爆発は起こさなかったな」
「うん……っ」
レーシアは声を震わせ、細い声で呟いた。
「――サラリスが何をしてるのか分からないよ……」
道標を失くした旅人のような、余りにも不安げな声だった。
「……もう、サラリスのことが分からないよ」
サラリスの生存を、過ぎた百年の月日を知っても疑わなかったレーシア。それは全て、徹頭徹尾、サラリスに対する信頼があってこそだ。
今初めて、その信頼に罅が入ったのだ。
「サラリスはどうして自分のいない場所で他の人に魔力を使わせたりするの。結晶に魔力を溜めるのだって術式が要るでしょう? そんなのサラリスに扱える訳ない、何がどうなってるの。サラリスは――」
レーシアは顔を覆った。
「私と二人じゃ、嫌だったのかなぁ……?」
震える声が物語るその不安が、レーシアを怯えさせている。
何とも言えない顔をして、アトルは防壁を解除し――というより無理やりに防壁を維持していた努力を放棄し、レーシアの無事に安堵したように手を振って合図する、ミルティアとアジャット、リーゼガルトを門のすぐ外に認めて手を振り返した。
頭ががんがんと痛む。吐き気がする。心臓の鼓動がいつもより弱い。魔力を無理に搾り出した代償が、どっしりと全身に圧し掛かっていた。
それでもアトルはレーシアに手を伸べて、羽のように軽い彼女を立たせてやる。そうしながら、考えることにさえ労力を割けず、彼は口を衝く疑問をそのまま声にした。
「……なあ、レーシア。どっちなんだ」
え、と顔を上げるレーシアの、その整った美貌を前にして、アトルは精一杯冷静に尋ねた。
「おまえは、俺にただの人間の扱いをされて嬉しかったんだろう?」
頷くレーシアに嘘はない。
「なのに自分のことを化け物でいいんだって言う。――どっちなんだよ?」
レーシアは、初めてその矛盾に気が付いたかのように口を開け、そして、ただ一言、それが唯一の解答であるかのように呟いた。
「――だって、サラリスと一緒なんだもの」
溶岩に溺れて廃墟と化し、更に魔術戦によって敷石すらも砕かれた、その町に立って、アトルはレーシアだけを見詰めて言った。
「俺はおまえを、化け物だとは思わない」
微かに、しかし確かに嬉しげな微笑みがレーシアの頬に昇って、漂う白い光球の明かりの下で、彼女の表情を美しく映えさせた。
「だからもし、おまえが自分を化け物だと思い込む原因がサラリスって人にあるなら、サラリスって人と同じでいたくておまえが自分をそう呼ぶなら、」
不穏な発言の気配を察して、微笑が強張った表情に塗り替えられていく。レーシアが及び腰になって後退ろうとする。
それを、彼女の手首をやんわりと掴んで止めて、アトルはレーシアの目を見て、はっきりと言った。
彼が好きになった少女の価値を貶めることに、最早我慢がならなくなって。
あるいは――。
「――俺はサラリスって人が嫌いだ」
レーシアの顔を、失望と怒りが駆け抜けた。
かっと頬に血を上らせ、レーシアは反駁か罵倒か、あるいは否定のために口を開こうとした。だがそれに先んじて、アトルが断固として続けていた。
「それで、もしそうなら、」
アトルを睨むレーシアの目が、かつてない程に怒気に煌めいている。
彼が好きになった少女の価値を貶めることに、最早我慢がならなくなって。
あるいは、彼女が誰よりも一番に頼るその人物に、らしくもなく嫉妬を抑え切れなくなったがゆえに。
レーシアが何よりも嫌がるだろうと頭では分かっている、決定的なその言葉を。
「おまえはサラリスって人とは縁を切った方がいいと、俺は思う」
アトルのその言葉に、レーシアの顔が歪んだ。
魔力爆発を警戒し、アトルはレーシアの背中や肩を撫でて落ち着かせようとしたが、レーシアはそれから逃れるように身を捩る。そして、込み上げる魔力の奔流を必死で呑み込みながら、レーシアはアトルの手を振り払った。
レーシアにとって、アトルは特別な人間だ。そしてサラリスは彼女の中で、絶対の地位を持っている彼女の全てだ。
アトルと積み重ねてきた日々には、確かにレーシアにアトルの命を惜しませ、アトルの下まで走っていくだけの重みがあった。その重みを、レーシア自身、心地よいものであるとすら感じていた。
その矢先に。
サラリスとレーシアのことを何も知らないアトルが、二人の間を否定するようなことを言う、そのことが耐え難いほどに不快だった。
信頼できると、大切だと、一緒にいたいと思っていただけに、その不快感は裏切られた衝撃までも含んで重い。
アトルはこちらをじっと見ている。
一言でいいから謝ってくれないかと、そう思うのに彼は口を開いてくれない。ただ、訴えるような眼差しを向けてくるだけだ。
レーシアはアトルから数歩後退って距離を置いた。
痛みを覚えたかのようにレーシアの薄青い目が細められるのを、アトルは絶望感さえ覚えながら見ていた。
ここにいない、ただ一度たりとも襲撃の手からレーシアを守っていない、今どこにいるかさえ分からない。むしろ敵に力を貸している可能性さえある。それなのに「サラリス」は、これほどにレーシアにとって大切なのか。
他のもの一切と、比べる土俵さえ異なるほどに。
「せっかく……」
そう呟いて、しかしすぐに自分自身でその言葉を振り払うように頭を振って、レーシアはアトルを見た。
裏切られたことへの嫌悪と、それをした者に対する不信。その両方が、これ以上なく明らかに滲んだ声で、レーシアは、残酷なまでにはっきりと言った。
「――アトル。あなたのことが、とても嫌い」
月下、二人の決裂が、他の誰から見て分からなくとも、二人自身には火を見るよりも明らかなこととして、明確に刻まれた。




