12 肩を並べることの意味
走るといってもレーシアのことだから、それほど速い移動手段というわけではなかったが、馬車と共に右往左往している人々を置いて来ることには成功した。
レーシアを頼まれていたアリサは、いきおい付いて来てはいたが、彼女も本心では戻りたかったとみえ、強硬にレーシアを連れ戻そうとする気配はなかった。
魔法陣の完成までに間に合うか、レーシアはかなりひやひやしたが、彼女がゆっくりと前に進む残った人々の最後列に追い着いたとき、魔法陣は全体の五分の四ほどが構成された状態だった。
「――待っ、ごめ、なさっ、待っ」
息が上がってうまく言葉が出なかったが、傍にいた人々がここにいるはずのないレーシアに気付き、驚きの声を上げ始めたことがうまく働いた。
最前列近くにいたアトルが、目を見開いてこちらを見たのが分かった。
「アト、ル」
レーシアが特定の名前に呼びかけたからか、人々が左右に分かれて道を作った。
黄金の魔法陣は煌々と輝いている。
「レーシア、おまえ――」
アトルは呆然と言葉を紡いだが、突如として認識が事態に追い着いたらしく、一、二歩レーシアの方へ踏み出すと、激昂した表情になって怒鳴った。
「なに考えてやがるこの馬鹿! とっとと逃げろって言っただろうが!」
「うん、だけど――」
「アリサ! 何してんだよ! こいつのことを頼んだだろうが!」
「だけど――」
「今すぐ戻れ!」
レーシアはアトル目掛けて最後の数メートルを走り、息を落ち着かせながら話し始めた。
「ごめん、ごめんなさい、でも私あれを知ってるの」
「だからって! 近くにいる魔術師に頼んで俺たちに伝えればいい話だろうが!」
レーシアは懸命に首を振った。
「違うの、それじゃ駄目なの。あれは戦争で使われるような術式よ。発動したらこの辺り一帯が消し炭になる。その前に組み込まれてる念動術式で吹き飛ばされるし。私見たもの」
アトルはさすがに言葉を詰まらせた。
デイザルトが大量殺戮に走るはずがないという読みが外れたのだ。
「だから――」
レーシアが言葉を継ごうとするのと、アトルが拳を握って息を吸い込むのが同時だった。
「――おまえは馬鹿か!」
アトルが怒鳴った。
「だったら余計だ! なんでここに来る!? おまえまで死んだらどうすんだよ!」
「私のことは生け捕りにしないと意味ないって言ってたじゃない!」
レーシアも珍しく声を荒げ、更に珍しいことにアトルを押し退けてその前に出た。
「レーシアさん!」
アジャットの制止もアトルの手も振り払って、レーシアが最前線に出てフードを下ろした。
黄金色の魔法陣が輝き渡る。その光に、レーシアの後れ毛が藍色に透き通った。
レーシアの手は震え、喉は干上がったかのよう。それでも頑張れ、頑張れと自らに言い聞かせる。
(サラリスの真似をすればいいだけのことよ)
レーシアは息を吸い込んだ。
頑張れ、頑張れ。届け、届け。内心で繰り返す言葉は鼓舞と懇願だ。
「――私がここにいるのに撃つの!?」
レーシアが叫んだ。
(サラリス、サラリス、サラリス、サラリス)
どこにいるかも分からない育ての親、姉とも慕う彼女、自身の全てに、力を貸してくれと願う。
「いい度胸ね! 私を誰だと思ってるのよ!」
黄金色の魔法陣が完成し、唸った。
「私は〈器〉! 雷兵と空人の愛し子の一人よ! 私を撃ってみなさい、絶対に報復があるから!」
隠しようもなく全身が震える。声も揺れたが、気にしてはいられない。
「私を誰だと思っているのよ!」
息を吸う。
「私は化け物よ! 黙って死ぬとでも思うの! 撃ってみなさいよ、辺り一帯火の海よ!」
大声を出し過ぎたために眩暈がしたが、これも気にしていられない。
「デイザルト! あなたの可愛い部下が死ぬわよ!」
また息を吸う。
「魔法陣を収めて掛かってきなさい! それで私を捕らえてみなさい! この化け物の身柄が欲しいんでしょう! そのために死んだ人もいるんでしょう!」
魔法陣の光が揺れた。レーシアはこれが最後と怒鳴り声を上げる。
「撃つなら覚悟して撃ちなさい! 私は大陸を道連れにしてやるから!」
「レーシア、無理だ! あそこまで整えた魔法陣を放棄するのは――」
アトルが背後から囁くのを、レーシアは頷いて聞いた。
「うん、待ってもらえればそれでいいの」
振り返ってアトルの手を取る。武器を取ることに慣れた、指の長い手の、固い掌と自分の掌を合わせる。
「ねえ、アトル。あの魔法陣を止めて、ついでに軍隊も止めて」
アトルを見上げて、完璧な信頼の滲んだ瞳で彼を見て、レーシアは首を傾げた。
「出来るでしょう?」
アトルの背筋を、絶対零度の戦慄が走った。
レーシアは、もう一度禁忌を犯すことを――レーシアの魔力をアトルが使うことを提案しているのだ。
「……無理だ……」
「アトル、時間がないよ。あの魔法陣が発動したら、本当にみんな死んじゃうよ」
レーシアの演説のせいか、魔法陣は随分とその発動を溜めている。
「無理だ、レーシア、分かってるだろ、それは――!」
それは、三大禁忌の一つだ。
アトルがレーシアの魔力を使うということは、アトルがレーシアの尊厳を踏み躙るということだ。
「それに封具が――」
「大丈夫」
レーシアはいつもと同じ顔で笑った。
「宝樹玉飲んだでしょ? 調子がいいの。人より百倍くらいの余裕があるわ」
それでも後退るアトルを追い掛けるように足を踏み出して、レーシアは眦を下げた。
「私も、アトルにじゃなきゃこんなこと言わないよ」
アトルの手を握り直して、レーシアは微笑んで、そして厳かなまでに美しい声で言った。
「アトル、一緒にたたかおう?」
戦うという野蛮で粗野な言葉を、彼女はあくまで穏やかに、牧歌的なまでの口調で口にした。
アトルは大きく息をした。理性はそれしか手がないと分かっている。それでも同じ理性がそれは駄目だと叫んでいる。
それでも本能が、生き残りたいと叫んでいた。
そんな自分に吐き気がしたが、冷たい路地裏で飢えと寒さに意識が遠のき、幼くして死を間近に感じたことのある彼の記憶が、ただ死ぬことを良しとしない。
死が恐ろしいものであると知っている。
震える息を吐いて、実際に身を細かく震わせながら、アトルはゆっくりと膝を突いた。
そして見様見真似で、しかし最大限の敬意を以て、女王に騎士がするように、握ったレーシアの手の甲にそっと唇を落とした。
走ったり叫んだりしたためか、レーシアの肌は暖かかった。
レーシアはほんの僅かに驚いたように目を見開いたが、慣れた様子ではんなりと微笑んだ。
顔を上げたアトルは、その微笑みを確かに目にした。
胸が痛む。
それはレーシアを想ってなのか、それとも自身の生き汚さに対しての嫌悪なのか、もはやアトルには分からなかった。
立ち上がってレーシアに並ぶ。繋いだ左手に力を込めて、アトルの指とレーシアの指を絡めて、かつて一度だけ使った術式を起動する。レーシアの膨大な魔力をアトルの中に呼び込む。
魔法陣を見据えて右手を挙げる。それが合図だった。
莫大な魔力がアトルの意思を受け、魔法陣を標的と定めて迸る。黄金色の魔法陣が軋み、捩れるように形を変えた。
ただただ圧倒的な魔力量。暴力的なまでに最上質の魔力。
黄金色の魔法陣の上で幾つも火花が弾け、やがてそれが間断なく続くようになり、魔法陣の表面全てが真っ赤な炎に覆われた。凝った魔力の密度が過ぎて、炎のように見えているのだ。燃え盛る紅蓮の大波が、魔法陣に刻まれた術式を焼き切り、終わらせていく。
上空で身を捩り、焼き尽くされていく魔法陣。その光景はどこか幻想的ですらあった。大輪の花を幾つも断続的に咲かせながら、書き込まれた術式の指定する事象を引き起こすことも出来ず――
爆ぜるような音と共に、魔法陣が溶け始めた。滴る雫は中空で空気に消え、熱のない炎が第二の太陽のように燃え盛る。その光が真下の軍勢を照らし、陰影をくっきりと描き出し、やがて明滅を始めて消えていく。圧迫され、収斂し、光を失って消えていく。
「アトル、軍隊」
レーシアが囁いた。
揺らがない信頼に満ちた、ただ注意を喚起しようとしただけの、恐れなど一切ない声で。
全神経を集中して魔力を操るアトルに、声に出して返事をする余裕はない。
だから彼は、ただ頷いた。
アトルは術式を組み立てていく。レーシアから引き出す魔力を最小限にするために、レーシアに人殺しをさせないために。
あんな風に綺麗に笑える人に、人殺しなどをさせるべきではない。たとえそれが手段の役割としてであっても。
アトルは僅かに首を傾げ、右手を真っ直ぐ前に伸ばした。
こちらに向かって来る軍勢の下に、濃紺の光の帯が走り始める。それは交わり、延びて、弧を描き、直線を成し、見る見るうちに広がっていく。
それが余りにも巨大な拘束の魔法陣だと、一体何人が気付いただろう。
気付いたところでもう遅い。全速力で逃げたところで、逃げ切れないだけの巨きさで、水面に波紋が広がるように、陣が描き出されていく。真下から軍勢を照らし出す。
頭上の魔法陣の崩壊にも、足元の魔法陣にも動揺の声は上がらない。よく訓練を積んだ軍だからなのか、目の前しか見えていないのか――
対してアトルたちの周囲は固唾を呑んでその魔法陣が成っていくのを見守り――
完成した魔法陣が輝いた。そのときになってようやく、軍の中の魔術師が自衛しようと各々魔法陣を描き出すが、通じる訳がない。敵う訳がない。
理不尽なまでに容赦なく。術式を実現する力が、それに抗う一切が及びもつかぬ強さで働く。何者もそれを阻むことは出来ず、何者もそれを逃れることは出来ず。
当代エンデリアルザをすら凌駕する圧倒的な魔力が、訓練を受けた魔術師を得て獰猛に唸る。魔力の主が魔術師に預ける圧倒的な信頼に応えて、冴え冴えとその威力を発揮する。
輝いた魔法陣が浮き上がる。その一本一本の線が、輪郭が、それ自体が拘束具として働き、軍勢を一纏めに縛り上げていく。砂埃が舞い、空気がうねって、馬の嘶きと人の怒声が混ざり合って蒼天を劈く。
信じられないものを見たようなデイザルトの表情が悔しげなものに変わる、その彼も魔法陣に巻き込まれて捕縛される。
アトルは前に伸ばした手を振り上げた。
りぃん、と澄んだ音がして、魔法陣の中央上空に濃紺の煌めきが走った。アトルが手を振り下ろすと同時に、それは巨大な結晶の杭となって地面に深々と突き刺さる。ずん、と足元から衝撃が伝わった。
濃紺と薄青色の混じった、透き通った結晶だった。その杭に、魔法陣が絡んでいく。軍勢を巻き込んだまま、蔦のように結晶に絡まる。
術式は術者の意思であり、命令である。この術式の命令は明らかだった。
ただそこでじっとしていろと――動くなと。
何人も逃れられぬよう。何人も抵抗できぬよう。何人も助け出せぬよう。何人も対抗できぬ規模と強靭さで、アトルの術が完成する。
上空からそれを見た者がいるならば、それは透き通る不思議な人食い花に見えたかも知れない。
絶叫と歓声が轟いた。緊張の糸が切れたのか、膝から崩れ落ちて泣き叫ぶ者もあった。目を疑い、口々に叫び、もはや言葉としての態を成していないそれらが、爆発するように弾ける。
アトルは歓声にも注意を払わず、ぱっとレーシアから手を放した。
「ぐ――具合は?」
「全然だいじょうぶ。加減してくれたの?」
レーシアは笑って言ったが、アトルはその顔を直視できず、俯いて視線を逸らした。アリサが無言で目を見開いて彼を見ており、それすらも耐え難く感じて唇に歯を立てる。
「アトル青年、あれは――魔力の塊か?」
アジャットが結晶の杭を指差し、アトルは渋々といった態で頷いた。
「――ああ。あれが無くなるまでは拘束が続くから……。今のうちに行こう」
ああ、と頷いたアジャットは、アトルの様子にむしろ訝しげにするレーシアの手を取って、それを軽く掲げるようにした。
「ありがとう、レーシアさん。守るはずが助けられてしまった」
「え? うん……?」
首を傾げるレーシアの手を取ったまま、アジャットは怪我人たちの方へと歩き始める。
レーシアは何度かアトルを振り返って見ようとしたが、その度にやんわりとアジャットがそれを止めた。
その場にしばし佇んだアトルは、ゆっくりと顔を覆うと、己の掌で泣き声を押し殺した。




