11 いつでも傍に
隣でアリサが涙を堪えようとしているのを見ながら、特に塩辛さを感じることもなく、レーシアは歩いていた。
彼女があっさりとアトルの言葉に従ったのは、第一に自分の身が可愛いからであり、第二に――アトルの指摘通り――アトルたちが死ぬことはないだろうと踏んだからだった。
あそこまで人を傷付けることを忌避するデイザルトが率いている軍なのである。それはまず保障されたとレーシアは思っていた。
馬車の車輪が軋む。誰かが後ろの方で泣き始めた。
ミルティアも仏頂面を崩すことなく、涙の痕の残る顔を袖で何度も拭っている。
「――大丈夫、かなあ」
「どっちにしろ進むしか――」
「なんであんな軍隊が――」
あちこちで囁きが交わされ、詮索するような視線がレーシアを掠める。レーシアは思わず俯き、いつものようにアトルの陰に隠れようとして、
(あ、いないんだった)
胸の中に一抹の寂しさが過る。
馬車の車輪が軋む。登り坂がきつくなってきた。
「会えるかな……」
「これからどうするんだろうな?」
「行先を知ってるのは、中で倒れてる人たちと、あのミラレークスの女の子だろ?」
「これからもこんなこと、あるかも知れねえのかぁ……」
レーシアが息切れし始めたが、誰も気付かない。
(いっつもアトルが気付いてくれてたんだ……)
ああ不便だ、と少し思った。
背後でアトルたち残った者が歩き始める気配がした。同じくそれを感じたのか、啜り泣きの声が聞こえてくる。
アリサが菫色の目から大粒の涙を零し始めた。
親しい人間を喪うかも知れないことへの恐怖と寂莫と哀惜と、それからが混じった涙だ。――レーシアが、一度たりとも流したことのない涙だ。
車輪が軋む。馬が嘶く。進む足取りは重い。
「これからどうなるんだろうな……」
「さあな……」
「定めの通りに歩むだけのこと」
「何一つ悔やむことも恐れることもない」
声が泡のように浮かんでは弾けていく。
風が吹いて、レーシアは宝樹玉の包みをぎゅっと握って俯いた。
「な、なあ――あれ何だ?」
誰かが怯えた声音で言い、釣られてぱらぱらと振り返る者が出始めた。
「な――なんだぁ?」
「あんなの見たことあるか?」
「でけえ……!」
次々に振り返っていく人々の動きに、軽く息切れしたレーシアも振り返った。
そこに、着々と描き出される魔法陣を見た。
レーシアは瞠目した。
周囲にはレーシアのような反応は見られず、ただ困惑の声が上がっているのみだ。
「何のための魔法陣だ?」
「さあ……」
「属性は? どんだけ複雑なの、属性も見えないわよ」
魔法陣は術式から導き出される幾何学的な模様であり、術式によってその形は決まり、術の規模によってその大きさが決まる。
あの黄金色の魔法陣の規模は相当のものだ。そして術式は――
「うそ……」
レーシアは呆然と呟いた。
彼女はあれを知っている。見たことがある。百年戦争前夜を知っている彼女だから見たことがある。つまりあれは戦争でしか使われないような大規模な術。
戦場を蹂躙し、命の尊厳を侵し、慈悲も容赦もなく、ただ術式の通りに殺戮を撒き散らす魔法陣。
なぜ、と思う。デイザルトたちはあれほどに人の命を奪うことを忌避するというのに、なぜあの魔法陣を構築するのか。
脅迫か?
――違う。戦争を知らない現代の人々は、あの魔法陣を知らない。確かに大きさや異様さに怯むことはあるだろうが、脅迫の材料となりはしない。
本気で発動させようとして構築しているのだと、そのようにしか思えない。
レーシアは自分の考え違いに、背筋を戦慄が駆け抜けるのを感じた。
舐めていた、甘く見ていた。考えが浅かった、敵を信頼してしまった。あの魔法陣が発動すれば、誰も助からない。
そして誰もいなくなった戦場を抜けて、デイザルトたちがレーシアを捕らえに来るのだろう。
前に進まなければならない。アトルにもそう言われたし、そもそもああやって残っている人々も、レーシアを逃がすためにそうしてくれているのだ。
逃げなければならない。
(どうしよう)
震える息を吐いた。
(どうしようどうしようどうしようどうしよう)
あれが発動すればどうなるか、彼女は知っている。
逃げなければならない。
ここで万一逃げ損ねれば、それはサラリスと再会する機会を永遠に失うということだ。それは耐え難い。彼女の人生、彼女の指標、彼女の目的は全てサラリスで出来ている。
逃げなければならない。
咄嗟にアトルを窺おうとして、そのアトルがあちら側にいることを思い出した。レーシアは大きく息を吸い、落ち着こうとしたが、指先まで細かく震え始めた。
あそこに残った魔術師たちが万全の状態ならば、そしてあの術式を知っていれば、防ぐことは可能だろう。しかしその条件のどちらも、欠片も満たされていないことをレーシアは知っている。
レーシアには分かる。はっきりと意識できる。
このままあの魔法陣が完成し、発動されれば、辺り一帯がどうなるのかを。その結果、その場にいた人々が辿るだろう運命を。
――このままでは、あそこに残った人々は全滅する。
下手をすればあの魔法陣の余波はここにまで届く。
(逃げないと――)
レーシアはここから逃げなければならない。進まなくてはならない。逃げていいのだ。進むべきなのだ。
レーシアの足が鈍って、止まった。アリサが無言でその腕を取って、引っ張りながら先へ進む。彼女は覚悟を決めたのだ。未だ覚悟の定まらない半端者のレーシアは、上半身で後ろを振り返ったまま、引き摺られるようにしてそれに従う。
逃げなければならない。けれど、けれど――
(アトルがあそこにいる――!)
それがどうした、と自分に問う。大切なのはサラリス、そして自分だ。アトルは自分から残ると言ったのだし、それを負い目に感じる必要もないはずだ。
彼女の人生、彼女の指標、彼女の目的を形作るのはサラリスだ。それ以外には要らないはずだ。
逃げよう。逃げて宝具を目指そう。宝具と〈糸〉を繋いでしまえば、行動はかなり自由になる。宝具や封具を振り翳してでも協力を取り付けて、サラリスを捜そう。
サラリスと再会できたら、また二人であちこちに行こう。まずは海に連れて行ってもらわなくてはならない。いや、それよりもまず、きちんと誤解を解いてもらわなくては。
レーシアはサラリスを思い浮かべる。サラリスとまた一緒に過ごすことを。その想像は容易い。ずっとそうしてきたのだから、簡単に思い浮かべることが出来る。
この想像を現実に出来ればどんなにいいだろう。
そう思う。心から思う。何と引き換えにしても、何を犠牲にしてでも、レーシアはこの想像の風景の中に行きたいと思っている。
サラリスの傍にいることは、レーシアが取り戻すべきレーシアの最低限の権利であるとさえ、彼女は捉えている。
それなのに、レーシアの頭の中のサラリスとの旅路にはもう一人の姿が朧気に描かれていて、その人が誰なのかレーシアには分かってしまうのだ。
アリサに腕を引かれながら、レーシアは唇の形のみでその名を呟いた。
(アトル)
ヴァークの町で血相を変えて駆け付けてきてくれた姿が、そのときの顔が、考えようともしていないのに脳裏にちらつく。
頭を振ってそれを追い払う。
逃げるのだ。ここから離れて、宝具を目指すのだ。そしてサラリスを捜しに行く。サラリスに会いに行く。それがレーシアのやりたいこと、為すべきこと。
サラリスはこの空の下のどこかにいるはずだから、何をしてでも会いに行く。
それなのにどうして、頭の中に雑音が絶えないのか。その雑音の全てが、なぜ同じ名を叫んでいるのか。
アトルは自分から残ると言ったのだ。何一つとして申し訳なく思う必要はなく、ましてや後ろ髪を引かれる理由など、ある訳がないとレーシアは思う、思っているのに――
セルダの町で怒りながらも捜してくれた、二度とレーシアを利用しようとしている者の所へは行くなと言ったアトルが、思い出そうともしていないのに頭に浮かんでくる。
胸の奥の方がしくしくと痛む。
アリサに握られていない方の手、宝樹玉の包みを握ったままの手で胸を押さえ、レーシアは首を振る。
あそこに残った人々は、レーシアが逃げることを期待している。レーシアも、逃げたいと思っている。逃げることに迷いなどあってはならない。あるはずもない。
それなのに。
それでも――アトルは――
――俺はあんたよりレーシアのことを知ってる。だから言うけどな、こいつは見掛けよりももっとずっと、ただの女の子だ。
彼は、レーシアのために怪我をする人。
――そりゃあちょっと変わり者ってか、色々と事情はあるみたいだが、こいつ本人はただの人間だ。
彼は、レーシアのために怒る人。
――こいつがこいつの事情のせいで特別な立場にあるって言うんなら、そんなのどこのお偉いさんもそうじゃねえか! おまえはそいつらのことも化け物呼ばわりしてんのかよ? そうなのかよ? そういうお偉いさんたちと、レーシアの何が違うのか言ってみろよ!
アトルは、レーシアをただの女の子だと言ってくれる人。
息が上がる。しかしそれは疲労のためばかりではなかった。
アードの町で、痛む傷をおして手を引いてくれたアトルの掌の温もりが、掌も腕も肩もすっ飛ばして胸の内に蘇った。
いつの間にか手を伸ばせば届くところにあるのが当たり前になっていた、その温かさが。
怒ったり叱ったり呆れたり馬鹿にしたり笑ったりもするけれど、案じてくれる、守ってくれる、微笑んでくれる、励ましてくれる、そのぬくもりが。
心臓がどくどくと音を立てる。今――今、何かすれば――。
何を?
レーシアに何が出来る? 今はただ死にかけているだけの彼女に。宝具の起動すら出来ない彼女に。持っているものは二つの封具に繋がる〈糸〉と――莫大な魔力と――
魔力?
また足が鈍ったレーシアに舌打ちして、アリサがやや強くその腕を引く。
(アトルと違う)
レーシアは唇を噛んだ。
(アトルは優しい)
宝具の所へ連れて行ってくれると約束した。サラリスを捜す手伝いをしてくれると約束した。サラリスを見付けたら二人の歌を聴いてくれると約束した。
薄暗い部屋で初めて会ったときのアトルを思い出した。もう半年以上も前のことなのに、はっきりと思い描ける。
それは、レーシアが救われた瞬間。
一瞬にも感じたあの百年の暗闇の中で、サラリスとの思い出を延々と夢に見ていたあの眠りを、それを破る名前を呼ばれ、混乱の中で見た彼の顔を。
事情も何も分からなかっただろうに、自分一人で速く走って行ってしまいたかっただろうに、それでも傍に踏み留まってくれた彼を。
忌まわしい百年の眠りを、レーシアをサラリスから引き離した世界との隔絶を終わらせてくれた、たった一人の青年を。
彼が宝具のことも封具のことも、ましてや〈器〉のことも知らなかったという、そのことは確かにレーシアを守った。もしもそれらのことを知っている誰かがレーシアを見付けていれば、今頃レーシアはその人物所有の兵器になっていただろうから。
しかしそれを差し引いてもなお、アトルは不必要なほどにレーシアのために行動してくれた。
レーシアの人生、レーシアの指標、レーシアの目的は全てサラリスで出来ている。他のものは欲しいとも思わない。サラリスからの愛情とサラリスへの愛情と、それだけで完結した円。
それでもその円に、交差させてもいいもう一つの円がある。
いつでもレーシアのことを考え、いつでもレーシアを捜してくれ、いつでもレーシアに好き放題に言い、いつでもレーシアを人間扱いしてくれる、レーシアがその人生を狂わせた青年との、恐らくはかけがえのないものになるだろう縁を。
アリサに腕をぐいぐいと引かれる。だが、レーシアが欲しい暖かさはこれではない。
(私は、)
正面に向き直り、俯いて唇を噛む。
(私は、アトルに手を引いてもらいたい)
これは、この決意は、まだ、……
――俺は……俺たちは、おまえを死なせるつもりはない。
……手遅れではないはずだ。
レーシアはアリサに抗って足を止め、振り返った。
(私も、アトルを死なせるつもりはない)
光が這うようにして空間を傷付け、巨大な魔法陣を刻一刻と描き出す、その光景を睨み据える。
「何してるの!」
アリサの声に、レーシアはきっぱりと答えた。
「戻る」
ざわめきが周囲に走った。
「何言って――!」
「馬鹿なことを……!」
「あいつらの気持ちを無駄にするの!?」
それらの声に周囲を見回して、レーシアは魔法陣を指差し、地面を踏み鳴らした。
「だって無理だもの! 私はあの魔法陣を知ってるわ! 押し切られる!」
樹国の者だろう男が、目を丸くして叫んだ。
「だ、駄目です! レーシアさん!」
レーシアの人見知りが顔を出し掛けたが、レーシアは拳を握りしめ、怒鳴るようにして叫んだ。
「そうよ、私はレーシアよ!
サラリス以外に私を止められる人がいるなら連れて来なさい!」
息を吸い込んで、彼女の一世一代の決意を。
「――私は戻る!」




