12 「彼女は生きているのか、そうでないのか」
結局のところ山積みの毛布で夜を越し、進む方向も定まった一行は、翌日の早朝から移動を開始した。
レーシアは居ても立っても居られないらしく、グラッドの隣、御者台に陣取って前方をじっと見ている。そのいっそいじらしい姿は、腰の道具箱に「サラリス」の手紙を隠し持っているアトルの胸に鈍痛を引き起こした。
昨夜、カエルムを見てから様子がおかしかったアジャットも、すっかり元の通りの態度に戻っており、馬車の中にも気まずさはない。
アトルは移動中もリーゼガルトから魔術の訓練を受け続け、今では簡単な念動系の魔術ならば使いこなせるようになり、元素系の魔術を教わり始めていた。
元より〈インケルタ〉でオヤジたちに訓練と称した根性試しやら折檻やらを受け続けた経験のあるアトルであるから、リーゼガルト曰くの「温室育ちの軟弱者」たち魔術師志望者よりも、遥かにその習得は早いらしい。
念動系の魔術が対象を定めた慎重な術の行使を要求することに比して、元素系の魔術は任意の場所に魔力を呼び起こし、印象を形にすることを要求する魔術だ。その分魔力の消費は大きいものの、アトルにとってはこちらの方が使いやすい魔術だった。
昼下がり、馬車を停めて食事を摂る際、支度を手伝いながらアトルの魔術の訓練を覗いたレーシアが歓声を上げた。
「すごーいっ!」
アトルの周囲至る所に水の塊が浮かんでいれば、そんな声も上がろうというものだ。
陽光を受けて煌めく水の塊が、馬車の中に光溜りを作り、幻想的な光景を作り上げていた。尤もそれを作った本人はげっそりした顔で、レーシアの顔を見るなり一言、「飯か」と尋ねた。
「そろそろ」
レーシアは興味深げに一つの塊をつつきながら答え、外からグラッドに呼ばれてそちらに駆け出して行った。お皿は六枚でいいんでしょう? と尋ねる声が聞こえてくる。
アトルは目を閉じ、くらくらする頭に呻いた。リーゼガルトが「おーい」と声を掛けてくる。
「魔力の使い過ぎだな。飯食って寝りゃ落ち着くが――大丈夫か?」
「だいじょーぶ」
アトルは呻き、何とか立ち上がった。
「と、取り敢えず飯――」
アトルに手を貸しながら、リーゼガルトはくどくどと言った。
「魔力は訓練で増えるもんじゃねえからな? 効率いい使い方を勉強していけよ。いちいちぶっ倒れられても困るしな」
「お、おう」
たったこれだけのことで、決して少なくはない――なにせ中等指定魔術師と並ぶほどなのだ――魔力を持つアトルがふらふらになるのだ。
効率の良い魔力の使い方が分からなかったことを差し引けば、さして大したことではないはずなのだが、それにしても――とアトルは思う。
こうして魔術を習えば余計に、百年戦争を終わらせたあの業火の異常さが良く分かる。あんなことは不可能だ。
黙々と食事を終えたアトルはそのまま馬車の中で引っ繰り返り、レーシアはまたもグラッドの横に陣取って出発を急かした。
グラッドは元来の気の弱さゆえか口に出さないものの、馬車の中では真剣に懸念が言い交わされていた。
「エンデリアルザがぁ捜してたっていうー物の形が分からないことにはぁ、迷子必至じゃなぁい?」
アジャットもフードの奥の顎に手を遣った風である。
「む。それもそうなのだよな――」
「彷徨い歩くなんざ嫌なんだけどなあ」
うんざりした顔のリーゼガルトが言い、ミルティアは不貞腐れたように続けた。
「そもそもぉ方角がぁ分かったところでぇ、そうすんなぁりと見付かる訳ぇないじゃない」
「まあそれはアトル青年も分かっているところだろうが――」
アジャットが言いながら、すかーっと寝息を立てるアトルに視線を向けた。
「それでもレーシアさんを止めない辺り、疑わしいな」
全員がアトルに視線を向け、アトルがその視線を察知したのか微かに眉を寄せて呻く。だが起きる気配はない。
「勝算があるのか、それともレーシアさんに惚れたか――」
アジャットは抑揚のない声で言う。
「――あるいは彼女に対して何か、後ろめたいことがあるのか。それはそれで見ていこうではないか」
************
レーシアの頭の中には、カエルムに教わった方向へ邁進することしかなく、またそれで何とかなると固く信じていた。
このままでは他の者たちが憂慮する事態に陥りかねなかったが、幸いにしてそうはならなかった。
その日の夕方には、レーシアに厭な予感と共に「サラリスの捜しもの」が具体的にどこにあるのかという予感が舞い込んだからである。
「有り得ないわ」
レーシアは呟いた。方向を指示する声もまた、疑念を色濃く宿したものであった。
「こんな所にあるなら、もっと早く私と来たはずだもの――」
理性と感覚の擦れ違いから彼女は不機嫌になり、どこかむすっとした顔で夕飯の支度を手伝った。
アルファーナ高原にはいくつか宿場町があるが、彼らはそれらには立ち寄らず、むしろ避けて通るような道筋を辿っていた。高原に敷かれた申し訳程度の道も外れ、傍から見れば完全に遭難者たちである。
「レーシア、もういいのか?」
魔力の使い過ぎから回復したばかりのアトルが、早々に食器を置いたレーシアに声を掛けた。彼女の分に取り分けられた食事の、ほんの三分の一程しか食べられてはいない。
「うん、もういい」
レーシアは素っ気なく答え、アトルの案じるような視線に気付いた様子もなく馬車に戻った。
翌日もレーシアの様子はおかしかった。出発の時間になり、アトルがレーシアに声を掛けたときのことだ。
「レーシア、出発するぞ。御者台に行かないのか?」
レーシアは億劫そうに顔を上げ、緩く首を振った。
「ううん、いい――」
その言葉通り、レーシアは馬車の中に引き籠った。御者台ではレーシアの体重の無さを、御者台に帯で縛ってしまうことで誤魔化せたのだが、ここではそうはいかないため、またも本に重石の役割をさせることになるかと思われたが、レーシアは疲れることにも構わず自力で寝台の支柱にしがみ付き続けた。
その光景はどこか滑稽なものであったが、レーシアの表情は浮かないもので、アトルはそれが気になるあまり魔術の訓練で失敗を繰り返し、最終的にリーゼガルトとミルティアの二人掛かりで叱り飛ばされた。
「阿呆かおまえ。阿呆なんだな!?」
「馬鹿じゃぁないんだからぁ、訓練が危険だってぇことくらい、分かってるでしょう?」
「火を出してたんだぞおまえ! 引火したらどうすんだよ!」
通常ならば煽りを喰らって怖がりそうなレーシアであったが、このときのレーシアには人の怒鳴る声でさえ雑音にしか聞こえなかったらしく、機嫌悪げに眉を寄せ、たった一言言って寄越した。
「うるさい」
おかしい、余りにも様子がおかしい。
アトルは余りの違和感に絶句し、リーゼガルトとミルティアも顔を見合わせた。アジャットは本を読んでいたのだが顔を上げ、ぽかんとした気配を漂わせてレーシアを見た。
アトルが理由を訊き出そうとしたものの沈黙の前に撃沈し、アトルがそうであるから他の者で成功するはずもなかった。
その翌日にはレーシアは更に黙り込むことが増え、貝のように口を閉ざす彼女から漏れだす雰囲気の重々しいこと、この上ない。
のほほんとして、明るく、怖がりで感情の起伏が激しい、それがレーシアであったはずなのだが。
食事時の気まずさは最高潮だった。論理的に言えば、レーシアの機嫌に周囲が会わせる必要はないはずなのだが、レーシアの様子に動揺するあまりにアトルまでが無言になり、グラッドがその空気に呑まれ、六人のうち半数がどんよりとした空気を漂わせたことが主たる原因であろう。
「あれおかしいだろ!」
レーシアがさっさと食事を切り上げて馬車に戻ると、その場に残ったアトルがそちらを指差しながら言い立てた。
「グラッドさん、御者台にいたときのレーシアに何かなかったのか?」
「え、ええ、私の、知る限りでは――。ただ、具体的な方向を指示されるようになってから、様子もおかしくなりまして、はい――」
「この頃起こったことってあれだろ、カエルムが来たことくらいだろ!? 襲撃だってこの頃ねえじゃねえか、何なんだよ原因は!」
アトルが思わず頭を掻き毟ると、ミルティアがしみじみと言った。
「カエルムがぁ来た後も普段通りだったしぃ。襲撃なんかぁ気にもしてない感じだったのにネ」
「エンデリアルザの捜しものにも接近しているはずで、機嫌が良くなってもいいはずだがな……」
アジャットが考え深げに言い、リーゼガルトは悟ったように呟いた。
「女の機嫌は山の天気よりも変わりやすい」
「女って――」
アトルが思わず言い差したのは、「あいつまだ子供だろ」ということであったが、口を噤んだ。
子供のように感じられるのは、レーシアがことあるごとに大騒ぎしてアトルの名前を連呼したからで、今となってはそれすらなく、レーシアのことを年頃の少女だと認識せざるを得なかったからである。
その翌日には、相変わらず不機嫌そうではあったが、レーシアが口を開いた。
「――もう近いわ」
やっと聞けたレーシアの声に心ならずもほっとしながら、アトルは確認のためというよりも会話を続けるために言葉を返した。
「マジか? もうあとどれくらいか分かるか?」
レーシアはその大きな薄青い目をアトルに向け、普段よりも感情の起伏に乏しい声で答えた。
「今日中には辿り着くんじゃないかな」
会話を打ち切るのに十分な答えであった。
その日の昼になると、レーシアが、これもまた久し振りのことのように感じるが、アトルの服の裾をつんつんと引いた。これに思わず笑みが零れたのは反射である。
「どうした、レーシア?」
「馬車を停めるようにグラッドに言ってくれない?」
レーシアは首を傾げて言った。
「歩いて捜した方がいいと思うの、ここまで来たら」
馬車が停まると、レーシアは真っ先に馬車を降りた。それからぞろぞろと降りてきたアトルたちをふわりと振り返り、頼むというには平淡な声音で言った。
「一緒に捜してほしい。形はよく分からないけれど、見れば分かると思うから」
辺りは相変わらずの萎れた草の広がる高原、見渡す限りで数本の細木が生えている。大き目の岩が地面から幾つか突き出しており、見るだけでアトルは少々うんざりした。
雲が流れ、時折陽光を遮った。そうして陽光が遮られると、吹く風は驚くほど冷たい。もう既に冬の寒さが忍び寄っているのだった。
レーシアが軽く身震いするのを見たアトルが一度馬車に戻り、羽織りを持ってレーシアの外套の上から掛けてやる。レーシアは少し驚いたように顔を上げ、それからおずおずと笑みを浮かべた。
「ありがと、アトル」
レーシアを一人にすることを全員が良しとはしなかったが、レーシアがふらふらと歩き出すと、その姿を視界に収められる範囲で全員が散開し、格好だけではあったが探し物を開始した。何しろ形さえ明言はされなかったのである。やる気の起きようはずもない。
濃紺の髪を風に遊ばせながら、ふらふらと歩くレーシアを、少しだけ離れた所からアトルは眺めた。
にこにこと笑うレーシアを、もう随分見ていない気がする。アトルには分からない理由で塞ぐ彼女に、彼は何もしてやれない。
それがもどかしいと思うが、なぜもどかしがってしまうのかアトルには分からない。
レーシアは命の恩人であり、必ず安心できる場所へ連れて行くと決めた相手であり、決して許されないはずの犯罪行為を働いた相手であり――
――それから……?
細木の傍でアトルは立ち止まり、思考を巡らせようとした。
雲がゆっくりと流れて、辺りに弱々しく陽光が降り注ぐ。その陽光に艶やかに光の輪を作る髪を波打たせながら、レーシアが不意にこちらを振り返った。
それにどきりとすると同時、後ろから少女の声がした。
「あら珍しい、お客様」
弾かれたようにアトルは振り返った。〈インケルタ〉で荒事の中に身を置き、気配には敏感なはずの彼が全く気付かなかった。
振り返ったその目の前に、少女が立っていた。
薄紅色の、花弁を重ねたような意匠のドレスが風にふわりと揺れている。少女の歳の頃は十八、九。
手を身体の後ろで組み、その可愛らしく整った面に微笑を浮かべている。健康的な蜂蜜色の肌を持っており、濃い金色の長い髪は緩い癖を持って風に流れている。無邪気に小首を傾げている様は、否が応でもレーシアを思い起こさせた。だがその目、それは断じて少女のものではなかった。
レーシアよりも深い青、瑠璃色の目。歪んだ鏡のように複雑な妖しい光を宿す目。憎悪と歓喜、諦念と執念、怨嗟と愛情が同居しているような、決定的な違和感を見る者に与える目。
「そんな怖い顔をしないで、お客様」
少女が甘えるように言ったその瞬間、アトルの身体が突き飛ばされたように横に傾いだ。はっとして見れば、そこに顔を強張らせたレーシアがいた。
レーシアがアトルを突き飛ばし、その腕を握って後ろに押し遣ろうとしているのだ。
「――レーシア……?」
アトルが思わず呟けば、レーシアはアトルを見もせず、その少女に向かって低く言った。
「そうだろうとは思っていたけど」
そのとき唐突にアトルは気付いた。この少女は生身ではない。
その証に、身体が透けて向こう側がぼんやりと見えている。
だがアニムスではない。この存在感は、あれらでは決して持ち得ないものだ。
「何だ……?」
アトルが唖然として声を漏らすのと、レーシアが更にアトルを押し遣ろうとするのは同時。
「アトル、下がって。危ないよ」
レーシアが少女を見たままで言うと、少女は傷付いたようにその瑠璃色の目を瞠った。
「まあ、なんでそんな酷いこと言うの、お客様?」
少女が両手を伸ばした。指先までが透けている。儚いはずのその姿が、いっそ誰よりも目を引いた。
「そんなことを言わないで、そんな所に立っていないで、お茶にしましょ?」
「レーシアさん!?」
アジャットがこの光景を見て声を上げた。他の者たちはこちらに近付きながら絶句している。
「どういうことだ、これは誰――」
「違う」
短く明確に、レーシアは否定した。そして続けた。
「これは『誰』じゃないよ、アジャット。これは『何』、って、そう訊かないと」
アトルと少女の間に立って、レーシアは少女を睨み据えた。
「どうしてこんなところにあるのか知らないけど、それはこれの本当の姿じゃないわ」
少女が首を傾げている。
「なあに? どうしてそんな顔をしているの?」
レーシアは答えず、いつもよりも固い声で歌い始めた。
「朝には 久方の光 露に映え
風に吹かるるその様は 貫き留めぬ 玉散るが如」
少女がにっこりと笑った。レーシアは眉を寄せたものの、歌を留める気配はない。
「茜さす 昼の目庇 木の葉揺れるは
さやさや音す 其は水音の如
木の葉雨の日に臨むに見ゆる 雨注ぎが玉簾」
少女が欠伸を漏らした。レーシアはいっそ腹立たしげに声を高める。
「烏羽玉の夜には月影の 儚く隠るる 水面に映るその様は
揺らぎ揺らいであえかに散れり」
歌が締め括られたが、何の変化もない。
「無駄だってば」
少女が歌うように言ってくるりとその場で回転した。
「私を何だと思っているのよ」
「今分かったわ」
レーシアは苛々とした口調で答えた。
「〈動〉の宝具が起動されなかったんだもの」
彼女は真っ直ぐに少女を指差し、吐き捨てた。
「これは封具ね」
「封具――?」
アトルは思わず声を上げた。
「封具とか宝具って――器物じゃねえのかよ」
「物だよ、これは」
レーシアの返答に躊躇はなかった。
「封具本体なのか、これが?」
アジャットの声にも驚きの色が濃い。
「興味深いが――どうするんだ」
リーゼガルトが怯んだように尋ねる一方で、レーシアは断言した。
「壊さないと」
「はっ?」
訊き返した声は数人分。だがレーシアに躊躇いはなかった。
「徹底的に破壊して、ばらばらにして、消滅させないと」
少女は唐突に真顔になった。
「どうやって?」
傲然たる声は、とても器物の発しているものだとは思えない。
「封具は未然の事象を打ち消すもの。あなたたちが何をしようと無駄なこと」
「じゃあ試そうか」
レーシアは顎を上げた。
「私の宝具をぶつけてぶつけて、根競べにでもしてみようか」
「レーシア、駄目だ。おまえがぶっ倒れるぞ」
アトルが慌てて口を挟んだが、レーシアはふっと微笑んだ。
「大丈夫。これは封具だもん。宝具とは相殺し合うもの」
「けど――」
言い差したのはリーゼガルトだったが、それを上回る声、悲鳴を少女――封具が上げた。
「いやあああっ!」
少女の透き通った姿で、封具がぽろぽろと涙を零した。
「なんでそんなことするの、私が何かしたって言うの?」
レーシアは頓着せず、再び歌を詠い始めた。それを遮ろうとするかのように、封具がますます声を上げる。
「いやだっ、いや、なんでそんなことを――!」
二度目に歌が終わり、今度は封具が僅かによろめいた。すかさず三度目を口ずさむレーシアに、アジャットが声を掛ける。
「待ってくれ、レーシアさん。それしか方法はないのか? 封具がここにあったことは報告しなければならないが、その所在と保存はかなり重要なことで――」
「危険だもの」
レーシアは歌を中断してアジャットに言った。
「封具はとても危険なの。私が〈糸〉を繋いだ時も、サラリスが宝具を呼び出しながら傍にいたわ」
「私はそんなこと望んでない! 何も傷付けたりしないわ!」
封具が叫んだが、レーシアは冷ややかだった。
「『物』が何を言っているの?」
「…………」
「何かを望むことが出来るのは生き物だけよ」
歌が再開され、封具が啜り泣いた。
「だが、レーシアさん――」
アジャットが戸惑いの色の濃い声でまたしても言った。
「彼女は――本当のところ――生きているのか、そうでないのか、分かっているのか?」




