11 空人カエルム
ここからがアルファーナ高原である、という明確な線引きこそないものの、アルファーナ山脈の輪郭がうっすらと見えてきた辺りでアトルが呟いた。
「そろそろアルファーナ高原だな……」
それを聞きつけたレーシアが大興奮で、ほんとっ!? と念押しし、アトルが頷くとそれからずっと窓の外を見ていた。
茶色く萎れ、冬も間近なことを告げる草が生い茂り、なだらかな起伏を描いて広がる高原は、ここで何かを捜そうなどとは思えないような場所であったが、レーシアはそんなことは気にしていなかった。
ぽつぽつと細い木が生えている。それらを目で追いながら、レーシアが呟いた。
「どこから捜せばいいんだろう……」
「まあまだ入り口みたいな所だからな」
アトルがそう言うと、レーシアは眉間に皺を刻んだ。
「やっぱり広いのね。どうしよう」
「おい!」
リーゼガルトが他の魔術師たちに声を掛けた。レーシアとアトルが覗いているのとは反対側の窓から空を指差している。
アジャットがその指先を辿って空を見上げ、呻くような声を漏らした。
「あれ以来見ていなかったのに――」
「どうしたんだ?」
アトルが尋ねると、ミルティアがぼそりと答えた。
「トニトルス。カエルムもぉちょっといる」
「雷兵と空人?」
レーシアがきょとんとした顔で言った。
「大丈夫だよ、こっちに来たら私がちゃんと話すから」
「そういえばおまえは話が出来るんだな」
アトルが言うと、レーシアは彼を見上げてにっこりした。
「そうよ。すごいでしょ」
「そういう問題じゃないんだけどな――」
リーゼガルトがぼやくように言ったが、レーシアは聞いていなかった。ただただ「サラリス」のことを考え、あっちに行けだのこっちに行けだのとグラッドに頼み込み、生来の気の弱さが災いしたグラッドがその通りにした結果、一行は一度遭難し掛かったのだった。
************
高原で右往左往していた時間が祟り、宿場町に辿り着けなかったアトルたちは野宿を余儀なくされていた。馬車があるため純粋な野宿ではないが、高原の夜は冷える。
焚き火を囲んで暖を取りながら、アトルとレーシア以外の四人は、一晩中馬車内の気温を保つにはどうすればいいかということを話し合っていたが(一晩中魔術を使い続けるのは自殺行為である)、アトルからすれば身を寄せ合っていれば何とかなるんじゃないかということである。
「ミルティア、中で焚き火は駄目だ。本が燃えたらどうする」
「あ、そっかぁ」
「真面目に考えろよ、ミル」
レーシアが辺りを見渡し、悄然たる顔をした。
「どうした?」
ああだこうだと議論する魔術師たちを横目で見ながらアトルが尋ねると、レーシアは溜息交じりに答えた。
「広いなあって」
語尾は笑っていたものの、それが少し寂しげで、アトルはレーシアの考えなしなところを指摘できなかった。
「ま――まあ、そのうち見付かるんじゃないか?」
肩を竦めながらそう言えば、レーシアはちらりとアジャットを見た。
「アジャットの上司のあの人、私をさっさと連れ帰るようにアジャットに言っていたでしょう? アジャットだってそう長くは逆らえないと思うの……」
「一緒に捜してやるって言っただろ?」
アトルはレーシアの頭をぽんと叩いた。
「アジャットが無理にでもおまえを連れてこうとしたら――そうだな――不意討ち食らわして二人で逃げようぜ」
レーシアは目を見開いてアトルを見て、噴き出した。
「そうね、それも楽しそう」
恐らくレーシアは本気で言っており、アトルも思わず笑った。
見渡せば高原は果てしなく広がっており、これを見たレーシアが不安になっても仕方がないと思わせるものがあった。
「この光景見てたら死んじゃいそう」
冗談めかして呟いたレーシアが立ち上がり、伸びをしてふらりと馬車へ向かう。だが、中に入ろうとしたところではたと立ち止まった。
「どうした?」
アトルが訊くと、レーシアは首を捻る。
「なんか今呼ばれたような……?」
そんなわけないよね、とレーシアが呟く。
「ここには無いはずだし――」
落ち着かなくなったのか、馬車の入り口で立ち止まるレーシアに、不意に思い付いてアトルが言った。
「レーシア、一曲なんか歌って」
うん、と頷いたレーシアが、気持ちよさげに古風な歌を詠い始める。
焚き火の灯りを頬に受け、時折吹く風に髪を遊ばせるレーシアは、驚くほど可愛らしく見えた。沁み渡るような歌声は、確かにアトルにとっても癒しであるが、楽しそうに詠う姿が何よりも良かった。
覚えず目を細めてそれを見るアトルだったが、たったの数分でレーシアが不自然に歌を打ち切った。
どうしたのかと誰が尋ねるよりも早く、レーシアがアトルたちの背後を見て驚いたように口元に手を宛がい、言った。
「あ、どうしたんですか?」
アトルは後ろを振り返り、そこに透き通るような薄青い肌と金色の目、そして精緻な硝子細工の質感の白い翼を持つ空人――カエルムを見た。
アジャットたちが一斉に立ち上がり、身構えた。トニトルスとは違い、カエルムは人間を狩ることはしないため、その態度は行き過ぎではないかとアトルは思ったが、カエルムは魔術師たちなどには目もくれなかった。
その唇から、呻くような声が漏れる。カエルムの言葉は歌うような韻律を持っていたが、その韻律が今は軋んでいた。
レーシアも不安げな顔をする。
「どうしてそんな怖い顔――」
カエルムが足を踏み出した。しゃらん、とその腕に着けられた白銀の三連の腕輪が鳴り、布を巻き付けたような古風な白い衣装の裾がたなびく。
人間に比べて随分と丈高いその身をあっと言う間にレーシアの前にまで移動させ、カエルムは屈み込んでレーシアに何かを囁いた。
レーシアが首を傾げ、訝しげに訊く。
「どうしてそんなこと言うんですか? せっかくここまで来たのに」
歌うような声が何かを問い、レーシアがにこりと笑って答えた。
「サラリスがここで何かを捜してたみたいなんです。ね、あなたは知らない?」
呻くような軋んだ韻律を漏らし、カエルムがその手で己の頭を掻き毟った。かと思うとがっしりとレーシアの肩を掴む。
突然の動きにレーシアが小さく悲鳴を上げ、アトルが思わずそちらに足を踏み出した。
カエルムがレーシアに何事かを叫んでいる。凛々と響くその声に、レーシアは戸惑ったように瞳を揺らした。
「なんでそんなこと? 待って、サラリスが何を捜していたか知っているんですか? サラリスが今どこにいるかは? 答えて、サラリスは何を――」
おおおおう、と吠えるようにカエルムが叫んだ。その金色の両の眼からほろほろと涙が零れている。
レーシアはしばらくぽかんとしたようにそれを見ていたが、カエルムが何かを囁くと、たちまちその表情を激変させた。
「黙れっ!」
レーシアが怒鳴った。そのまま思い切りカエルムの手を振り払う。
アトルは絶句した。レーシアの初めて見る表情、初めて聞く激しい言葉遣いだった。
「二度と言うな! 百年、百年過ぎたんだ! 私の知らない間に! あなたにこの気持ちが分かるか! あなたも同じ目に遭ってみろ! それでもそんなことを言うか!」
カエルムがまた何かを言ったが、レーシアは激昂して更に叫んだ。
「そんなことは生きているとは言わない!」
後はもう言葉になっておらず、黙れ、と切れ切れに叫ぶのみだった。
落ち着いて、と言うようにカエルムがレーシアの肩を撫でたが、それも跳ね除けてレーシアが絶叫した。
「私をこんな目に遭わせた人を見付けたら殺してやる! 絶対に許さない!」
――サラリスがセゼレラに戻ったなんてことはなかったの。
いつか聞いたレーシアの言葉がアトルの脳裏に蘇った。
レーシアはサラリスのことが大好きだから、だからこそレーシアが眠りに就いたときサラリスは傍にいてはならなかったのだ。
サラリスがそんなことをしてはならなかったのだ。
アトルの背筋に戦慄が走った。もしもレーシアが事実を知るようなことになればどうなるのか、想像だに付かないが、決してそれは幸いなことではないだろう。
カエルムがまた低く何かを言った。彼らの言葉が分からないことを歯痒く思いながら、アトルはレーシアの表情を窺う。
レーシアは怒りが過ぎて蒼白になった顔でカエルムを睨み付けており、先程とは一転して静かな低い声で呟いた。
「――私に命令しないでよ」
カエルムが無言で首を振るが、それが見えていないかのようにレーシアは続けた。
「空人と雷兵はエンデリアルザの遊撃隊でしょう。私に命令できるものか」
ミラレークスの四人とアトルが思わず互いに顔を見合わせた。
エンデリアルザが〈器〉を束ねる人間であるならば、カエルムとトニトルスはそれに従うという意味なのか、それとも別の意味があるのか、と各々の疑問を宿した眼差しが交差する。
カエルムが言葉に詰まる風を見せ、レーシアはそこに更に言葉を重ねた。
「知っていることを教えて。サラリスはここで何を捜そうとしてたんですか」
韻律を伴った呻き声を漏らしたカエルムは、レーシアに何事かを低く、念押しする口調で尋ねた。レーシアはあからさまに鼻を鳴らす。
「どうしてわざわざ訊くの? 私たちのことはよく知ってるわ」
カエルムは典雅な溜息を落とし、すっとその右の腕を挙げた。方角で言えば南南西を真っ直ぐに指している。その腕に着けられた三連の腕輪がまた、しゃらんと涼しげな音を奏でた。
そのままカエルムが歌うように何かを告げ、レーシアは見る見るうちに顔を輝かせた。
「本当に? うん、分かってます――本当なのね! ああ、ありがとう。暴言は全部許せます――え?
ええ、絶対に」
何度も頷き、レーシアは花が咲くような笑みをその満面に浮かべた。
「本当にありがとう!」
カエルムは顔を伏せ、小さな歌うような声を出し、どこか悄然と背を向けた。それで初めて魔術師たちに気が付いたように瞬きをし、翼を震わせながら目を細め、彼らを睨み付けた。
「――敵意はないって伝えてくれ」
アトルがレーシアに言い、レーシアがカエルムの前に回りながら両手をひらひらと動かした。
「大丈夫です、敵意はないわ」
カエルムはやや疑わしげにレーシアを見てからアトルたちに視線を移し、唇を引き結んで足を速めた。
アトルたちから十分に離れると、レーシアをさえも一顧だにせず、翼を大きく広げてはばたき、あっと言う間に夜空に消える。
「アトル、アトル!」
レーシアが嬉しそうにアトルを振り返って呼んだ。
「どっちに行けばいいか分かったわ! あっち、あっちにあるんだって」
カエルムに指差された方角を示しながら言ったレーシアは、アトルたちの何とも言えない視線を受けて、伸ばした腕はそのままにきょとんとした。
「……どうしたの?」
「レーシアさん、失礼だが」
アジャットが固い声を出した。
「エンデリアルザの遊撃隊、とはどういう意味なのかな?」
「そのままの意味だけど?」
レーシアは答え、小首を傾げた。
「〈器〉には危険が付き物だもの。だから空人も雷兵も、事あるごとに〈器〉に付き添って仲良くして、外部的な危険が及んだときにはエンデリアルザの号令に従うの」
「おい、レーシア」
アトルが眉を寄せて呼ばわった。
「今はどうなんだ。あっちこっちから追い掛けられて、危険じゃねえのかよ」
「私はエンデリアルザじゃないもの」
レーシアは腕を下ろして断言した。
「具体的な危険に関して、私があの人たちを呼べる状況は一つだけで、その危険には絶対に遭わないわ」
なんて役立たずな権能なんだ、と思わざるを得ないアトルであったが、アジャットの声も珍しく冷たかった。
「そうか。ではもう触れないでおこう。レーシアさん、そろそろ寝むのではなかったかな?」
レーシアは一瞬面食らった顔をしたが、すぐにすごすごと馬車の中に入った。
アトルもそれを追ったのは、レーシアをあそこまで激怒させた、カエルムの言動に興味があったからである。
アトルを横目に見送るリーゼガルトたちが、なぜだかほっとした顔をした。
アトルが馬車の中に入ると、レーシアは少し嬉しそうな顔をした。カエルムと会って眠気が飛んで行っていたらしい。
「アトル!」
「おまえはやたらと俺の名前を呼ぶよな」
アトルがしみじみと言うと、レーシアは心当たりのなさそうな顔をした。どうやら無意識だったらしい。
二つある寝台の、レーシアが使わない方の寝台にアトルが腰掛けると、レーシアも自分の寝台に座り、アトルと向かい合わせになった。
「なあレーシア、なんであんなに怒ったんだ」
アトルが尋ねると、レーシアは一瞬動きを止め、それから吐き捨てるように言った。
「あの人、私にまだ眠っていれば良かったのにって言ったの」
いつもよりも低い声が、怒りを含んで尖った。
「あんな風にいきなり眠らされて、目が覚めたらもっと訳が分からない状況になっていたのよ。なのにどうしてあんなことが言えるの」
「あんな風に――って、おまえ自分が眠らされた時の状況覚えてんのか?」
アトルがやや慌てて訊けば、レーシアは蟀谷を押さえて難しい顔をした。
「うん――でもなんだか途切れ途切れなの」
視線を遠くに投げながら、レーシアは呟くように言う。
「誰かに手を引かれていたの。それは覚えてる。きっとジェルドだったと思うわ。周り中大混乱だったんだけど――なんでだったんだろう」
そう言いながらレーシアは、細い声で不安げに続けた。
「百年経ったんだもの。きっとそれで色んなことを忘れちゃったんだわ。私にとっては一瞬だったのに、私の頭にとってはそうじゃなかったのよ」
「――――」
アトルは何とも言えない思いでレーシアを見た。この、アトルよりも年下に見える少女は、実際にはアトルが生まれる遥か前に生まれていたのだ。
「なのにあの人、眠っていればそんな混乱もなかっただろうって言ったのよ」
レーシアは両手を握り合わせ、辛さというよりも怒りを表現してその手を震わせた。
「なんであんなこと言ったんだろう。そんなこと生きてるとは言わないわ」
「ああ、確かにな」
アトルは同意し、ぽつりと零した。
「どっちにしろあのままにしてたら、おまえ死んでたかも知れねえし」
「サラリス」の手紙にはそうあった。その真偽は別として、重視するべき情報ではあるだろう。
レーシアは目を見開き、掌を合わせた。
「ああ、それもそう! 人間、食べたり飲んだりしなきゃいつか死ぬものね!」
あっけらかんとした口調で紡がれた死という単語は、現実味のないものとして響いた。
「――で? サラリスって人が何捜してたかは聞けたのかよ」
アトルが訊くと、レーシアは首を振った。
「ううん。方向を教えてくれただけ。あと、気を付けるようにとか、無茶はしないようにとか、そういうことをたくさん」
「無茶って――おまえが?」
のほほんとしているレーシアにはおよそ似合わない科白である。レーシアは肩を竦めた。
「これ以上進まないようにって言ってきたくらいだもの。何かすごい物なんじゃないかなあ」
そのまま視線を斜め上に投げながら、レーシアはまた呟いた。
「でもここには無いはずだしなあ……」




